28年間たった一人で生き抜いた男の物語!愛知県の「横井庄一記念館」でその生き様を学んだ!

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1945年に終戦した太平洋戦争。日本の歴史を語る上では避けて通れない戦争ですが、その戦争の真っ只中からグアムで28年間もの間(厳密には複数人でサバイバルしていた時期もある)一人で生き抜いた男がいた。その方の名は横井庄一。
そんな横井さんの物語を学べる記念館が愛知県にあるということで、2017年のGWに愛知県へと車をすっ飛ばしたのでした!!

横井庄一とはどのような人物か?

横井さんは1915年に愛知県佐織村(現愛西市)で生まれました。しかし、生後間もなく両親が離婚し母の実家で暮らすことに。横井さんが、11歳の時に母が再婚して横井姓になります。その後、洋服の仕立て屋で修業した後に名古屋市の中川区で横井洋服店を開業することになります。
この時は、いつもいつも寝る間を惜しんで仕事をしていたそうです。しかし、1941年12月8日に太平洋戦争が勃発。そして、横井さんは27歳の時に満州へ出兵。その3年後の横井さんが29歳の時にグアムへ飛行場の整備をするために移動することになるのです。

奥さんが館長を務める「横井庄一記念館」

愛知県名古屋市。大通りを一本入った住宅街の中に横井庄一記念館はあります。

現在は奥さんが館長を務めているとのこと。しかし、ネットで調べてもあまり今現在の状況などの情報は出てこなく、あまり事前調査が出来ずの来館となりました。今も奥さんが館長を務めているのだろうか??そんなことを思いながらの訪問になりました。

いざ横井庄一記念館の中へ!

この横井庄一記念館は、横井さんのご自宅であります。そのため、入り口はチャイムを鳴らして入る感じになるのですが、他人の家のチャイムを鳴らすのは一体何年ぶりだろうか(笑)
チャイムを鳴らすと、中から奥さんが出迎えてくれました。
奥さん「はい。記念館でしょうか?」
私「はい!」
奥さん「どうぞ、こちらへお入りください。」
奥さんに案内され、入り口からすぐの1室に通されました。この部屋に、横井さんの当時の生活を思わせる様々な物が展示されているのです。

横井庄一さんの生き様を学ぶ!

館内に入り、早速庄一さんがいかにして28年間もの間生き抜くことができたのかを、奥さんが解説してくれました。

横井さんがグアム島に上陸した経緯

横井さんは、グアムに上陸する前には3年ほど満州国にいたそうです。太平洋戦争が始まったのは1941年12月8日のこと。当初は何の予告もなくハワイの真珠湾を襲撃したことで日本が優勢に進んでいたものの、ミッドウェー海戦をきっかけに日本は劣勢になっていきます。

1942年の春ごろまでは日本は大東亜圏を広く支配していました。その当時、横井さんは満州国に3年ほどいたそうです。

しかし、連合軍は日本の支配領域を突破すべく、ラバウル方面からフィリピンやグアムへと北上してきたのです。そのため、日本もグアムを守るべく満州国や日本本土から2万人近い日本兵を送ることになり、横井さんはその中に一人に含まれていたようです。
2万人近くが送り込まれたものの、最終的に生きて国に帰った方は1,305人だったそうです。

横井さんが生活していた「横井ケーブ」とは?

記念館の中には上の写真の様に、横井さんが暮らしていた穴(横井ケーブ)の断面図が掲示してあります。横井ケーブは高さ1.8m×長さ6mという空間で、 換気口や井戸、そして排水溝まで作ったようです。地下ということで、中で火を扱っていたことから換気口はまさに命綱。
そこで、換気口は中が詰まらないように単に土に穴をあけるのではなく、木の幹の中身をくりぬいて作った木の筒を使っていて中を詰まらないようにもしていたそうです。凄すぎ!

記念館にも横井ケーブを再現した模型が展示されています。実際には長さは6mほどありますが、この模型は部屋のスペースの関係で半分くらいの長さになっています。模型を作る段階では、奥さんはミニチュア模型のようなサイズを想定していたようで、ここまで原寸大の大きさになるとは思っていなかったそうです。

そして、この模型は実際に出来上がるまでに3年もの年月がかかったとのこと。組んである竹を自然乾燥させるなどなるべく本物に近づけるようにしたため、年月がかかったそうです。それだけの年月をかけたこともあり、竹も朽ちることなく未だ頑丈さを保っている。
また、横井さんはこのような穴を1つではなく6つ作っています。色々試行錯誤をすることがあった他、元々一緒にサバイバルをしていた2人と仲たがいがあったようで2人とは別々に暮らす事になった際に、自分用の穴を掘ったこともあったそうです。
横井さんがグアム島で潜伏していた時、日本では東京タワーが建ち、東京オリンピックも開催されるなどして経済成長を遂げていく最中であったのです。そんな中、横井さんはグアム島で潜伏を続けます。横井さんは、戦争に負けた日本がどうなっているのかを知る術もなく一人、時代に取り残されながら孤独な生活を続けていったのです。
横井さんが日本に帰国して奥さんと結婚した後、新婚旅行で横井さん夫婦は再びグアムの地を訪れたそうです。その際、奥さんは一度現地の穴に入ったという。しかし、こんな所は人間の住むところじゃないということで速攻で外に出たという。それほど過酷な環境だったのですね。。

この手作りの織物の道具は、横井さんがサバイバル中に作成したものの復元。本物を改めて複製して作ったもの。実際の穴が小さすぎて取り出すことができなかったから。

こちらは横井さんが作ったパンの実で作った縄!何でこの実で縄を作れるかを横井さんが知ったかというと、島に来た際に整備隊にいた頃、他の人がパンの実で縄を使っていたことを知っていたからだそうです。

28年もの間生き続けられた理由は?

元々は3人でサバイバル生活をしていた横井さんですが、他の2人とは仲たがいになり別々にサバイバルすることになりました。500m離れた場所で暮らしていたようですが、度々会っていたようです。しかし、ある日横井さんが他の2人の穴を訪れると2人は亡くなっていたそうです。死因は毒物を摂取してしまったこととなっていますが、横井さんからしたらサバイバルをしていてその辺りの知識は持っているはずのため、穴の中での酸欠ではないかと思っていたそうです。
一緒に生き抜いてきた2人が亡くなってしまい、自分まで死んでしまっては2人は報われない。また、母国にいる母に会いたいという想いから横井さんは生きる気力を得ていたようです。生きることに必死であり、そのことで気が紛れていたかもしれませんが。。
庄一さんはとにかく息を潜めるために色々な工夫をしました。自分の足跡を消したり、ジャングルの草木を歩く際にはまっすぐ歩くと道が出来てしまうためわざとジグザグに歩いたり、ココナッツの実なども一気にとるのではなく、いることがばれないように少しづつとるようにしていたそうです。横井ケーブの入り口も常にばれないよう葉で隠すようにし、そんなことを28年間続けていたのです。

28年間もの間、何を食べていたのか?

横井さんは、最初のうちは一緒にいた二人とともに生き抜くために試行錯誤をしながら食料を調達していました。島で横井さんたちが主食にしていたのは、ねずみ、カエル、カタツムリ。その他には、ヤシの実を採ったり、エビやウナギを罠を使って捕まえたりしていたようです。
それらの食材を使って料理をしていましたが、時には野草で1年間を過ごしたこともあるようで、とにかく壮絶。横井さんは亡くなる前、病院のベッドでねずみ、カエル、カタツムリらの生き物たちを供養する慰霊碑を建ててほしいと言っていたという。奥さんはその遺言の通り横井さんのお墓の横に慰霊碑を建てたのです。それらの生きもの達によって生き延びることができたため、供養をしたかったという横井さんの心遣いからだったようです。

その他には蘇鉄(ソテツ)の実も食べていたという。上の写真の右側に移っているのがソテツの実。このソテツは毒物が含まれており、初めはこの毒物に気づかずそのまま食べてしまっていたものの、試行錯誤を繰り返した後はソテツの実を砕いて4日近く水につけると、毒物が抜けて食べれるようになったという。ソテツの実は、粉にして団子にして食べていたようです。

1972年に日本に帰国!

グアム島に来て28年経ったある日、思わぬ形で横井さんのサバイバル生活が終わることになります。横井さんが魚を捕まえて穴に戻ろうとしたとき、たまたま現地に暮らすシカ猟をしていた親子とバッタリ遭遇することになったのです。上の写真に左に3人写っていますが、1番左にいるのが横井さん、その右にいる2人が横井さんを発見した親子。

現地の人に発見され、戦争が終わったことを横井さんは知ることになります。こちらの写真には1枚の上着が写っていますが、これは発見された際に庄一さんが着ていた上着だという。
これは、横井さんが自分で作ったお手製の機織りで作った洋服なのです。

帰国後の横井庄一さんの暮らし

帰国後は、当時はマスコミがすごかったそうだ。家の周りに度々訪れ、講演活動も多くせっかく日本に帰ってきたのにこのままでは働き殺されると思ったそうです。あまりに忙しく、スケジュール帳をつけるようになったのだがもう予定がびっしり。
その後、横井さんは参議院選に出馬。落選はしたものの、選挙期間中は講演活動もなく、選挙活動を密度濃くしていたわけではなかったようで、楽しい時間を過ごせたそうです。選挙に関しては、最初はすごく悩んだそうですが挑戦してみたそうですよ!

そんな中、帰国後に庄一さんを魅了したのが陶芸。自宅には多くの作品が展示されており、自宅の裏には専用の窯まで造られたそうです。戦争による心の傷を背負っていた庄一さんも、陶芸に夢中になることで、その傷は癒えたのではと奥さんは話していました。

1997年、横井庄一さん永眠

帰国して28年が経った1997年に、心臓発作によって横井庄一さんは永眠することになりました。胃がんや断腸など日本に帰国してからは病との闘いもあったようですが、82歳という生涯でした。
横井さんの帰国後の願いは4つあったようです。
・奥さんに自分のことを記した本を書いて欲しい
→ 奥さんは、「鎮魂の旅路」という本を出版
・陶器の展示会をしたい
→ 庄一さんが作った陶器は、高島屋で個展を開くことになったそうです。
・記念館を開きたい
→ 2005年に横井庄一記念館を開館
・カエル、カタツムリ、ねずみの慰霊碑を建てて欲しい。
→ 庄一さんのお墓の隣に、慰霊碑を建立
ということで、庄一さんのこれらの願いは全部叶ったのです。奥さんは月に2度ほど庄一さんのお墓参りに行っているという。

横井庄一記念館の様々な物語

横井庄一記念館が開館してから11年。そんな記念館にまつわる話に関してもお聞きすることが出来たので、いくつか紹介してきたいと思います。

記念館の開館秘話

未だに奥さんが館長を務めていた。この横井庄一記念館が開館したのは今から11年前のことで、奥さんが78歳の時。開館した時は、既に庄一さんは無くなっていました。そんなわけで、奥さんは昭和2年生まれで現在89歳。そんだけ高齢にもかかわらず未だ元気であったことに驚き。この記念館を開館してからは11年間ずっとこの家で一人暮らしをしているとのこと。
奥さんは元々京都出身。横井さんとは、帰国した年の5月に出会い8月に結婚。わずか3ヶ月でのスピード婚だ。出会って結婚した後に、横井さんの地元であったここ愛知県に住むようになったという。ここに来たときは、周囲に知り合いも誰もおらず、今も家で一人でいることが多いというが、奥さんには多くの親族がいることから孤独はないと言っていた。安心。
横井庄一記念館は、庄一さんの夢でもありました。ただ、開館したのは2006年のこと。太平洋戦争からは60年近くが経ち、戦争のことを知ってもらいたいと思っても戦争はだいぶ昔の事。しかし、今でも日本では多くの自殺者が多いことから、庄一さんの生き様を感じて少しでも多くの方の生きる力になっていればということが、今この記念館を開いている大きな理由なのだと語ってくれました。

開館当時は大盛況

開館したのは今から11年前のこと。当時は最高で300人近くの方が来たという。当時は親戚などを集めて7人体制にしていたものの、すごい混雑ぶりだったそうです。また、団体さんも来たことが良くあったそう。ただ、その際にはさほど広くない家の前の通りに観光バスがやってきて、周辺の方に少し迷惑が掛かってしまったなどの事も語っていました。
また、芸能人の方としては中村獅童さんも訪れたという。

今でも、1日数人の方が来館される

今現在は日曜日のみの開館。開館当時に比べて来館数は減ってはいるものの、今でも1日に10人近くの方が訪れるという。中には、横浜に住んでいた方が横井さんの家にいつか訪れたいということで孫が免許の取得をするまで待って、取得してから訪れるなんて方もいらしたそうです。
私はネットで検索しまくってたまたま見つけましたが、他の方はどうやってここを知ったんでしょうかね??

横井庄一記念館の今後は・・?

開館してから11年を迎えた横井庄一記念館。奥さんは未だ元気であるものの、今後自分の体がもたなくなったら閉じる予定だったそうです。しかし、そんな最中親族が協力してくれ、今後はNPOを作りこの記念館の維持をし続けるのだという。
「なので、この博物館はまだまだ続いていきます。安心してくださいね。」という言葉に、すっごく安心。

さらには、横井宅の周囲では道路工事も進んでいるとのこと。博物館自体は残る予定ではあるものの、今現在ある横井宅の庭は道路の拡張工事により無くなってしまうとのこと。

横井庄一記念館を訪れて

横井さんのサバイバル生活の事を語ってくれる最中、奥さんは家にあった色々な資料も見せてくれました。横井さんのサバイバルに関することは、名古屋市の博物館にも展示されているそうです。

いろいろ話していた最中、「お茶でもいかがですか?」といってちょっとしたものを奥さんが用意してくれました。いや~本当に親切にしていただいてもう本当にありがたいです。こういうコミュニケーションができるのはこのようなこじんまりしたスポットだけですからね。

こちらの絵本は500部しかないもの。横井さんのグアムでの生活を書いた子供向けの絵本ですが、今ではもう手元にはこれしかないという。最初は全然売れず、奥さんが300冊を買い取り色々な所に配っていたそうです。ただ、奥さんが横井さんのことを記した本はNHKで宣伝されたこともありすぐに売れたという。

奥さんは、横井さんは本当に偉大な人だったと私に語ってくれました。庄一さんと結婚してから一度も怒られたことはなく、結婚して本当に良かったと思っていたと思います。記念館には結局2時間30分近くもいて、サバイバル生活の話以外にも奥さんの親戚に関する話など本当に色々な事を話してくれました。

おわりに

記念館を出る前、奥さんは「庄一さんが作った作品があるのですが、持っていきますか?」といって、実際に横井さんが作成した陶芸品の一つを私に渡してくれました。これから、取材のため京都へ向かうという旨を伝えると、陶芸品が割れないように丁寧に新聞紙に包んで渡してくれました。

「またいらして下さいね」と最後に私に言葉をかけてくれ、記念館を去りました。今度は庄一さんのお墓参りにもいかなきゃな。奥さんにもまた会いに行きたいし、自分のブログを通じて横井さんの生き様を多くの方に伝えられるように頑張らなくては。奥さん、今後もお元気で!

参考文献

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詳細・地図

住所 愛知県名古屋市中川区富田町大字千音寺稲屋4175
営業時間 10:00〜16:30
開館日 日曜日のみ
駐車場 1台(記念館の隣に駐車スペースがあります)
電話番号 052-431-3600
アクセス 春田駅から車で10分程度
リンク https://blogs.yahoo.co.jp/oshika59

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