今回は、またまた遊廓に関する話です。
が、いつもとはちょっと趣向が異なります!!
知の冒険では、遊廓や花街関連の記事となると、その跡地を訪問して現地の街並みを記録したり聞き込み調査を行ったり。あとは、図書館に行って資料を漁ったりするって感じで記事を書いています。
が、今回はそうではなく、江ノ島にある、とある青銅鳥居に秘められた江の島と吉原遊郭の関係を調べてまとめてみたって感じです!
ではでは、その内容を以下で紹介していきたいと思います~(*’▽’)
「新吉原」と書かれた青銅鳥居
神奈川県を代表する観光地でもある江ノ島。
夏になると多くのナンパ目的の若者、海水浴客、サーファーなどが集結する他、クリスマスの時期になるとカップルが集結する場所っすかね。でも、若者だけでなく年配の方にも人気の場所ですし、まさに老若男女に人気のスポットっすね!
そんな江ノ島ですが、私みたいな歴史好きな変人からすると、島内にある 江ノ島弁財天が日本三大弁財天の一つに数えられているとか、大森貝塚を発見したモース博士がシャミセン貝の研究をしていたとか、児玉神社があるとか、そっちの方に関心が湧くんですよね~(*’▽’)
その中でも、今回の記事に大きく絡む江ノ島弁財天は、源頼朝が滋賀県の琵琶湖に浮かぶ竹生島から弁財天を勧請されていることで、江ノ島は昔から信仰の場所として知られているですよん!
そんな信仰の場所として有名であることから、江ノ島には江戸時代から多くの方が参拝にやって来ており、その中には今回のテーマにも挙げている吉原遊廓の方々もいたんですな~!
そして、吉原の方が参拝をしていたという痕跡が、今でも江ノ島に残っているということで早速江ノ島へと向かうことに!
ちなみに、私は実家が鎌倉にあるということで江ノ島は何度も訪れている場所でしてね(*’▽’)
これで何度目だよって感じの訪問(笑)
そんで、これです!
江ノ島に入ると、早速現れるこちらの青銅鳥居。
この鳥居には多くの歴史が残されているので、早速じっくり見てみることにしましょう~~~!
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青銅鳥居をよく見てみよう!
凄い字体で書かれた「江島大明神」の額を掲げた青銅の大鳥居。
もともとここには地元民の奉納による木製の鳥居がありましたが、1744(延享元)年ぐらいからボロくなってしまい、、1747(延享4)年2月に武蔵国多摩郡真光寺村の榎本忠右衛門が願主となって、銅製の鳥居を建立していました。
そんで、現在ある上の写真の青銅鳥居は1821(文政4)年3月に再建したもので、吉原弁天講によって奉納されたものになります。なので、三代目の鳥居ってことですね!!
おぉ~~何かいろいろ書かれていますな~。
細かく見ると記事長くなっちゃうので、いくつか抜粋して取り上げてみますね!
まずはコレ!
「世話人 八百屋善四郎」と刻まれていますが、こちらは浅草の山谷にあった『八百善』という八百屋兼仕出屋の四代目だった方で、この八百善は後に有名な料亭となったようですね。そして、八百屋善四郎は江戸の食通としても良く知られた方だったそうです!
とはいうものの、最近まで八百屋善四郎って方の存在を全く知らなかった私ですが、ふとこの写真を挙げたらTwitterで詳しい方が教えてくれました(*’▽’)
ありがたし!!
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その他には、新吉原弁財天講の願主の代表として江戸の江の島屋利助、江戸新吉原の扇屋宇右衛門、大黒屋勘四郎、松葉屋半蔵などの名が刻まれています。
こういう鳥居とか玉垣に刻まれてる文字って、刻まれたのが昔過ぎて文字がかすれてしまい判別不能レベルになってるものもよくありますが、この鳥居はまだ読めますね!
あと、注目すべきはコレ!
赤枠には「松葉屋 代々山」と刻まれていますが、これは江戸吉原松葉屋(吉原の角町にあった遊廓)の抱え花魁だった代々山の名前であり、江ノ島を向いて右の柱の中段に刻まれています。遊女の名前がこうして鳥居に刻まれているのは誠に珍しいことなんですってね。
この遊女は、酒井抱一(さかい・ほういつ)という絵師に愛されたそうです。代々山は書画はもちろん和歌、川柳も堪能だったようで、江戸の絵師、文人、作家、役者らからは評判となり、お客との対応は全て和歌をもってしたほどの非凡の才能があったという。
もうちょっと柱を観察してみると、最下部には波の模様が入っており、海辺に建つ鳥居にふさわしい装飾っすね~。下部ってあまり目につかないですが、こういうところも凝ってるんですな~。
江ノ島に遊廓があったの??
この青銅鳥居に「新吉原」という文字があることを知ったのは四年くらい前だったと思います。。その頃は、遊廓に関して何にも知らなかった私は、「吉原から遊郭が一部移ってきて江ノ島で営業してたんか??」とか思っていたような気がします。。
推測するだけなら色々な考えが出てくるわけですが、、実はそうではないようです。
それを示すのが、神奈川県統計書。遊廓は公的な施設だったため、各都道府県の統計書にその場所や軒数、あとはそこで働いていた女性(娼妓)の数が資料として残されています。
上の統計書は1913(大正2)年の神奈川県統計書ですが、こちらでは遊廓の軒数は”貸座敷”の列で、そこで働いていた女性の数は”娼妓”の列に書かれております。
そして統計書を見てもわかる通り、神奈川県では大正二年の時点では東海道の宿場町、あとは横浜の永楽町・真金町、横須賀の柏木田、浦賀、三崎、吉野町(相模湖の辺り)にあることがわかりますね。
そして、江ノ島があった藤沢について見てみると、「高座郡藤澤町」と書かれている行がありますな!!
とはいえ、これは東海道の宿場町だった藤沢宿にあった遊郭(藤沢駅の北側にあった藤沢新地)のことであり、江ノ島とは関係ないわけです。この時代だけでなく、明治や昭和初期のデータを見ても江ノ島の記載はないため、少なくとも江ノ島には遊廓はなかったと考えて問題ないわけですね。
↓藤沢新地に関しては、こちらの記事をご覧いただければと思います
となると、この「新吉原」は何を意味してるのか??
それは、吉原遊廓の方々が参拝のため講を作り江ノ島へ参拝しに来ていたからなんですね!
ほうほう、なるほど。
でもですよ、ここで思うのは「何で吉原遊廓の方々が江ノ島へ参拝していたのか??」ってこと!!
これにはですね、江戸庶民の方々の当時の暮らしぶりに大きな関係があったようなんです。。
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江戸庶民が参拝した江島詣
古代、海底火山が隆起して陸地になり、海蝕で切り離されたと言われている江ノ島。中世には源頼朝が文覚上人に命じて弁財天を竹生島から勧請してから有名になり、頼朝、頼家はじめ鎌倉幕府の重臣たちが参拝し、室町時代の古河公方、戦国時代の後北条氏などの崇敬が厚いことが、岩本楼の文章にも残っているという。
そう、現在も祀られている江ノ島の弁財天は源頼朝が勧請したのがきっかけだったんですね!
そんな江ノ島弁財天が江戸庶民と関わりをもち出したのは、江戸時代の中期ごろからでした。
江戸時代も中期になると、農業生産力の向上や消費生活の活発化によって人々は次第に経済的に余裕を持つようになります。また、その頃には江戸幕府当初から行われていた街道の整備が進み、女性や年寄りでも安心して旅ができるようになりました。
そこで人々は、江戸周辺へ数日をかけて参拝をする遊行、というか旅的な遊びをするようになるんですわ。
千葉県の成田山へ詣でる成田詣、霊峰として崇められた富士山への山岳信仰などが行われるようになったんですが、神奈川県でいえば、丹沢山系の大山を登る大山詣とともに江島詣も盛んになり、道中記、歌舞伎、浮世絵などに多数登場するようになるんですな~。
江ノ島弁財天を信仰する江戸あるいはその周辺の人々は、江ノ島弁天講を作って旅費を積み立て、講元(筆頭発起人)に引率されて往復一週間程度の旅に出ていました。
当時の江島詣の旅程は、江戸→戸塚→藤沢→鎌倉→金沢→江戸と巡る3〜4日ほどのコースが定番だったという。
とはいえ、もっと日数があれば戸塚から藤沢北部を通って大山に参り、その帰りに藤沢→江ノ島を回って江戸に帰ったという。
現在の江島神社は、江戸時代には京都にある仁和寺の末寺として江の島寺とされてていましたが、明治になると神仏分離で江島神社になり仏教色が一掃され、岩本院は岩本楼として旅館営業を始めることになります。
以上のように、江ノ島は江戸から近過ぎずもなく、数日をかけて歩いて行ける旅行としてはちょうどいい場所にあったことからも、多くの江戸庶民に親しまれていたわけです。
そう、それは吉原遊廓の方々にも!!
ということで、次のページではもうちょっと江ノ島と吉原のつながりを掘り下げていきたいと思います!