かつて江ノ島は江戸庶民に親しまれた信仰の地だった!?

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今回のテーマは老若男女に親しまれている観光地「江ノ島」です!

今では江ノ島というとたくさんのカップルがデートしに来る場所ですし、夏になると海水浴客やサーファーなどのリア充が集結する場所だったりしますな!!

でもですよ、江戸時代中期まで時代をさかのぼると、その頃は江戸庶民が参拝の旅を楽しみに遊覧しに来る信仰の地でもありました。

江ノ島というと、以前に「江ノ島と吉原遊廓」をテーマに記事を書きましたが、今回は江戸庶民が親しんだ江島詣や祀ってある弁財天に焦点を当てて記事を書いていきたいと思います!!

今回は、そんな江ノ島がかつて江戸庶民に親しまれた霊地だった歴史を、古くから伝わる江ノ島伝説も踏まえて伝える物語です!

本記事のポイント

・島内にある三坊では訴訟合戦が繰り広げられていた
・江島神社は明治時代の神仏分離後に誕生した神社
・江戸時代になると江戸庶民がこぞって参拝に訪れた

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リア充に人気の江ノ島

リア充スポットの江ノ島

神奈川県を代表する観光地である江ノ島。

休日になると多くの観光客でにぎわい、若いカップルからお年寄りまで老若男女に愛される場所です。新江ノ島水族館や江島神社、灯台にサムエルコッキング苑など有名なスポットが多い江ノ島ですが、今回は「江ノ島と信仰」という点に焦点を当てて記事を書いていきたいと思います(^^)

多くの参拝客が訪れる江島神社

そして、今回の主人公となるのが日本三大弁財天を祀っている江島神社です。

江ノ島に来れば多くの方がここを参拝されると思いますが、弁財天が祀られているこの神社にもいろんな背景があって今に至っており、江戸時代には多くの江戸庶民が参拝に訪れた場所なんですよね(*^-^*)

ということで、その辺の背景をまとめてみたので以下で紹介しますね~!

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七福神唯一の女神様

まずは「江ノ島で祀られている弁財天ってのは何ぞや??」というところから話を始めることにしますか!

弁財天は日本では七福神の中で唯一の女神としても知られ、琵琶を持ったその姿は弁天様として今日でも広く親しまれています。

大阪七福神の色紙

今でも日本中の様々な場所で七福神巡りを楽しむことができますよね!

元々、弁財天はヒンドゥー教の女神”サラスパティー”とされており、河川が身として神格化され、弦楽器ヴィーナを持つ姿としても知られています。仏教に取り入れられ、「弁才天」「弁才天女」「弁才天神」などと漢訳されて、その後に日本へと伝わるようになります。

日本では海、池、川などの水に関わる場所に多く祀られるのは出自が河川神だったからのようです。

日本三大弁財天の一つ『竹生島』

日本中の様々な場所で祀られているものの、その中でも日本三大弁財天が有名で、それは今回紹介する江ノ島以外には広島県の厳島神社と滋賀県の琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま)っすね。

いずれも、海沿いや湖沿いにあるということで、水辺という共通点があるのもこういう背景からなんでしょうかね。

弁財天は調伏、音楽、弁舌、財富など様々な利益があるとされ、鎌倉時代の偽経「弁天五部経」には、弁財天が白蛇・老人の宇賀神(稲荷)と習合し「福」を施すと説かれました。宇賀神とは日本固有の穀物の神。

弁財天は、こうした像容からも窺(うかが)えるように多様な利益を内包していると映り、人々の様々な願いに応じてその時々に信仰を表出させました。弁財天は「弁才天」の表記が古いとされていますが、いつしか「弁財天」へと変化しているんですね~。

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江ノ島には何で弁財天があるの?

で、日本三大弁財天の一つにも含まれる江ノ島の弁財天ですが、そもそも何で江ノ島に弁財天があるのか?

さらには、いつ江ノ島に弁財天が誕生したのかってのもとても気になるところっすよね(*’▽’)

えっ、俺だけってことないよね、、気になりますよね?(笑)

岩屋洞窟にある龍

そこでちょっと気になるのが、江ノ島にまつわるとある伝説について。ちょっと郷土資料に載っている内容を引っ張り出します。

今から1,500年もの昔、鎌倉深沢村には沼があり、五つの頭をもつ竜が棲んでいた。竜は時折、村を襲っては子供を飲み込むと満足げに沼に帰っていった。

津村の長者たなどが、十六人いた子供が一人残らず五頭竜にのまれたという。竜が子供を飲んで帰っていく道を「子死超(こしごえ)」と呼んで恐れた。それが今の「腰越」という。

そうした時、欽明天皇十三年(552)4月12日に大地震が起き、更に4月23日、海中に大爆発が起こって小さな島が現れた。これが江ノ島だという。その時、天から美しい姫が紫雲にのって、左右に童女を連れて島に降り立った。

五頭竜は天女に恋し、夫婦になることを求めたが、天女(弁天)は五頭竜の今までの罪を責め洞窟に入ってしまった。五頭竜は心を改めて、再び天女を訪ね、山となって村人を守ることを誓った。この山が竜口山という。

竜口山になった五頭竜は、干照りの年には雨を降らせ、実りの秋には台風を跳ね返し村を守った。

これが、江ノ島の伝説とされる「天女と五頭竜」の物語です。

江ノ島伝説ゆかりの龍口明神社

そしてこの物語に関わる神社がありましてですね、村人達は山となった五頭龍大神を祀るために龍口山の龍の口に当たるところに社を建てたのが、現在も西鎌倉駅の近くにある龍口明神社の起源とされているんですね!

この辺の背景は、龍口明神社のHPにも記載されているので気になった方はご覧になってみてください(^^)

そんな伝説があったとされる江ノ島ですが、確かな資料として江ノ島や弁財天が初めて登場するのは『吾妻鏡』の1182(寿永元)年の記事。

『吾妻鏡』には「源頼朝が、高雄の文覚上人がを招き、江ノ島に『大弁才天』を勧請して、鎮守府将軍藤原秀衝調伏のための祈祷に臨んだ」という旨が記載さています。。一応、これが江ノ島弁財天の出発点を語る重要な根拠としてしばしば引用されているようです。

さらには、江ノ島は西方面との境目でもあり、鎌倉の出入り口にあたる要所の地でした。そのため、鎌倉を守る精神的な防衛拠点となっていることから、格好の霊所として意識されたんですね。

また、江ノ島は徳川家康とも縁があるようです、関ヶ原の戦いが始まる前の1600年6月に家康は江ノ島を訪れております。

何で江ノ島に来たのかというと、二代将軍の徳川秀忠が病気になってしまい、将軍家光の御意に従って老中らが鶴岡八幡宮と江ノ島弁財天に祈祷を受けるためだったそうです。

江ノ島に祀られる弁財天

そんな弁財天は、現在は辺津宮のすぐそばにある奉安殿に祀られており、拝観料(大人200円、中高生100円)を払えば拝見することができます。

江ノ島にまつわる大昔の話はこのくらいにして、ここから江島神社の成り立ちについての話題に触れていくことにしましょ~!

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辺津宮・中津宮・奥津宮って何?

江ノ島にある三宮

現在も、江ノ島には辺津宮・中津宮・奥津宮という三か所に社殿が構えられています。でも、たぶん多くの方が一番手前にある「辺津宮=江島神社」と思っていて、さらに奥にある中津宮・奥津宮は何だかようわからんって方も多いかと思います!

ここは整理していきたいところですよね!

江嶋一望図(絵図屋善兵衛版)

そもそも、江ノ島には江戸時代のときには既に三箇所で弁財天が祀られていました。本宮(岩屋)、上之宮、下之宮の三社です。各社には来歴の異なる弁財天像が奉安され、それぞれ祭祀主体者(管理者)が決まっていました。

この辺を簡単に以下でまとめてみます。

江ノ島の三宮
下之宮
現在の辺津宮で、祭祀主体者は下之坊。
祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと) 。
上之宮
現在の中津宮で、祭祀主体者は上之坊。
祭神は寸島比賣命(いちきしまひめのみこと) 。
(岩屋)本宮
現在の奥津宮で、祭祀主体者は岩本坊。
祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと) 。

多紀理比賣命、寸島比賣命、多紀理比賣命って何やねんって話ですが、こちらは天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれた三姉妹の女神とされています。江ノ島は古くからこれらを祀っており、これは福岡県の宗像大社や、広島の厳島神社と御同神でもあるんですね!

そして岩本坊、上之坊、下之坊という単語も登場してきましたね。

これらは何ぞやというと、”坊”とついているようにお寺です。これらは、室町時代初期に上之坊、下之坊、岩本坊が鶴岡八幡宮から江ノ島の管理を移管されてから各々の宮を管理することになります。

今では江島神社があることから「江ノ島 = 神社」というイメージが強いかもしれませんが、江戸時代までは三つのお寺が江ノ島にあり、特に岩本坊は江戸時代中期頃から江ノ島で正式に「別当(べっとう)」を称しており”院”の称号を与えられて岩本院となります。

“別当”とは一般に神仏の祭祀・管理を主導するって意味です!

そして、岩本院は本宮を預かり一山の総別当で江島寺とも号していました。

そのように江戸時代までは仏教色の強かった江ノ島ですが、明治に行われた神仏分離により仏教色が排除され、別当岩本院、上之坊、下之坊は称号を廃止して江島神社に奉職する形になりました。そして各坊は旅館に転業することになるのです(この辺の旅館については、後に詳しく説明)。

これにより、下之宮→辺津宮、上之宮→中津宮、本宮→奥津宮の三宮が新しい祭神を迎えて成立し、これを統括する江島神社が誕生することになります。

現在あるこの三宮は、ざっくり言うとこんな背景で誕生したんですね!

とはいえ、現在に至るまでにこの三社は地位などをめぐって壮絶なバトルを繰り広げていたのです!

地位をめぐる島内の争い

上記で説明したように、江ノ島には岩本坊、上之坊、下之坊があり各々の宮を管理していたわけですが、みんな仲良くというわけにはいかず、いざこざが生じることになります(;’∀’)

何かっていうと、格式をめぐる争いですww

もともと、上之坊は岩本院抱えの坊だったようです。ところが、上之坊が後任の人事をめぐる際などに岩本坊がいろいろ干渉していたようなんですな。。

そこで上之坊は黙ってはいられなくなりました。岩本院からしたら、「江ノ島の起立は岩屋(本宮)が最初であり、上之坊と下之坊はあくまで岩本院下に属しているわけで上下関係は明確でしょ!」って言い分なんですが、上之坊からすると「いやいや、江島三社の弁財天はそれぞれ開基の違う縁起であって、それらを管理する坊だって独立した存在じゃねぇか!」という主張を繰り広げることに。。

そんなことがあり、岩本坊は党内での立場を確立するために京都にある仁和寺(にんなじ)の直末寺になります。仁和寺のような門跡(もんぜき)寺院という皇族や公家などが住する格式の高いお寺に属することは、地位を確立するためには大切なことでだったのです。

そして、岩本坊は”院”へと格式を挙げて岩本院となるほか、三代将軍家光の朱印状を獲得するなど実績を上げていきます。

ところが、下之坊も負けてはいません!

下之坊もさっそく岩本院と同じように仁和寺の末寺になるんですね。

さらにさらに、五代将軍徳川綱吉の奥医師となった杉山検校(すぎやま・けんぎょう)が下之宮弁財天を篤く信仰していたことから、徳川綱吉の朱印状が出されたのです。この朱印状は岩本院が得ていた朱印状よりも格式高いものであったため、岩本院は「ヤベー、下之院の方が格式高い朱印状を持っていては本宮のメンツが保てん」となり、地位を争って訴訟問題に発展していくのです。

江戸時代後期における三坊の関係

そんな感じで訴訟合戦が繰り広げられた江ノ島ですが、『江島詣』によれば、このような争いはあったものの「江戸時代後期には上の図のように三社とも京都の仁和寺に属し、別当岩本院を頂点としてその配下に上之坊と下之坊が位置づく体制が出来上がっていた様子が窺える」との記述がみられます。

どうやら、この関係で落ち着いたようです。

ただし、時代が江戸から明治になると神仏の分離政策が矢継ぎ早に通告され、三坊からは仏教的な器物は取り除かれてしまいます。岩本院、上之坊、下之坊は称号を廃止され江島神社が誕生し、今の形はこの時代から続いているんですね。

なので江ノ島弁財天の歴史は古いものの、江島神社としての歴史は明治からと、割かし浅いんですね~。

杉山検校と江ノ島

江ノ島と由縁がある杉山検校

そして江ノ島の歴史を語る上では、杉山和一(杉山検校)という人物を欠かすことはできません。

杉山和一は、不幸にして失明した後に江戸に出て鍼灸(しんきゅう)を業としていました。その鍼灸上達のために江ノ島に参籠して、その霊験で「管鍼法」を感得します。これにより四大将軍の徳川家綱に見え、特に五代将軍綱吉の宿病(持病)をその技術で癒したことで信頼を受け、関東惣録検校職の地位にのぼる出世を遂げました。

眼に障害のある人たちはかつては組織化して生計を営んでいました。生活の糧になったのが鍼灸、按摩、三弦などの技術を身につけることであり、こうした人々の組織(当道座)の長を「検校」と称したのです。

杉山検校の”検校”は、そこからきています。

江ノ島に残される「福石」

そして、検校が出世した物語に関わるあるものが今も江ノ島には残されています。

修行を終えて洞窟から外に出たときに、検校は下之宮にあった大きな石に躓き何かが手に刺さります。この石に躓いたことが現在鍼治療の主流である管鍼術が生まれるきっかけになったことで「福石」と言われ、今も江島神社の境内に祀られているんですね。

こうしたことは、江ノ島の下之宮弁財天のお陰であるとして下之宮に対して様々な支援を行なったのです。

このような検校と下之宮弁財天の関係を見つめていた将軍綱吉は、検校に報財のためとして弁財天像を与え、その像を祀っているのが江戸本所一つ目の弁財天なんですね。

墨田区にある「江島杉山神社」

その弁財天を東京の本所に勧請し、現在は江島杉山神社として祀られております。

ここはかつては「本所一ツ目弁天社」と称されていましたが、震災や戦災によって二つの社殿が消失してしまい、戦後の1952(昭和27)年に合祀して江島杉山神社として現在に至ります。

岩屋洞窟を模した洞窟

この神社の境内には、本宮にある江ノ島の岩屋洞窟を模して築いた洞窟も存在します。今も中に入ることができ、中には宇賀神(稲荷神)と杉山検校が祀られています。

江ノ島にはこのような杉山検校との物語があったわけです。そして、失明した検校が江ノ島を信仰していたことから、目に障害を持つ方々の間でもその信仰が引き継がれていきます。

それを象徴したのが、歌川広重が描いた東海道五十三次の藤沢宿の浮世絵なんですね!

東海道五十三次「藤沢宿」

こちらは、みなさんが学校の歴史でも習う歌川広重が描いた東海道五十三次の藤沢宿を描いた浮世絵。この絵には、今でいう旧東海道(当時の東海道)から一の鳥居をくぐって江ノ島へ向かう盲人の方々が描かれています。

手前に写っているでっけぇ鳥居は、旧東海道と江島道の分かれ道に建てられていた江島道の一の鳥居。そこをくぐり、江ノ島へ行くわけですな!

そしてここで注目したいのが、鳥居の下に描かれている杖をついた四人連れ。この方々は、先ほど紹介した杉山検校の影響から江ノ島を信仰していた盲人の方々。

説明を書き込むとこんな感じ!

赤枠で囲った杖をついているのが盲人の方々。彼らは座頭といい、音曲や按摩を仕事としていました。

こうした浮世絵にも江ノ島を信仰する方々の様子が描かれているわけです!

また、杉山検校だけでなく吉永升庵(よしなが・しょうあん)という検校とほぼ同じ時期に共に医療にあたった「官医」にも親しまれた江の島。名声を得た「官医」による江ノ島弁財天信仰の普及は、評判たる治療法・技術の宣伝と共にいっそう拍車がかかることになるのです。

続きはこちら!江戸庶民が訪れた江島詣とは!?
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