多くの江戸庶民に親しまれていた「大山詣り」とは!?

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今回は、神奈川県にある山岳信仰として有名な「大山」に焦点を当てた記事を書こうかと思います!

この大山ってそこまで有名かというとそうでもない気がするので、もしかしたら神奈川県在住の方でもご存じない方が結構いるかもしれないんですよね。。ちなみにですが、大山といっても日本百名山にもなっている大山(だいせん)ではないのでご注意を(;’∀’)

全国的に言うと大山(だいせん)の方が有名かもしれませんが、神奈川県の大山は、江戸時代には山岳信仰として大変有名で多くの江戸庶民が崇拝していた山なのですぞ!

ということで、「そんな大山にはどんな歴史が秘められているのか?」について、以下で説明していこうと思います(^^)

本記事のポイント

・江戸時代には多くの江戸庶民が大山を訪れた
・大山の麓には大山を訪れる方々のための宿坊がある
・築地関係者や彫り師など様々な職種の方が崇めた山

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山岳信仰として崇められた大山

山岳信仰としてあがめられた大山

今回取り上げるのは、丹沢山地の一つである大山です。

標高1,252mの高さであり、単独峰のように美しい山容を描いている山。そのため、富士山ほどはっきりとはわかりやすくはないですが、割かし遠くからでも大山だと判別することも可能なんですね!

山に雲がかかることが多く、恵みの雨を呼ぶ山とされていたことから農業の方々にも親しまれ「雨降山(あめふりやま・あぶりさん)」とも言われました。

大山の場所

あんまり馴染みがない山かもしれないので一応場所も示しておくと、ココです~~!

神奈川県の西部に位置しており、都心からでもそんなに遠くない場所ですね。東京からであれば、箱根よりも近い場所にあるんですな~。

日本遺産に認定されている「大山詣り」

そんな大山、今では登山客が多かったり紅葉も綺麗だったりするんですが、とにかく多くの歴史がある山なんですね。かつては山岳信仰として崇められ続けており、江戸時代には多くの江戸庶民が参拝しに来た山なんですわ!

彼らが行っていた大山詣りは今でもその風習が残されており、2016(平成28)年には日本遺産にも認定されています。

今回の記事では、「そんな大山には今までどんな歴史があったのか」というポイントに焦点を当てて記事を書いていこうと思います!

ちょっと長く、少しマニアックな話もあるかもしれませんがお付き合いいただければと思います(*^-^*)

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良弁によって開かれた

物事には必ず始まりがあるわけですが、そもそも大山が信仰の山として崇められる最初のキッカケは何だったのか?

そこでキーとなるのが「良弁」と言う人物。この方は、皆が学校で習う東大寺を開山した人でもあるんですが、この方が中腹に鎮座する大山寺を開いたようです!

ちなみに、読み方は「りょうべん」ではなく「ろうべん」ですよん。

大山の山頂

山頂には石尊大権現を祀る石尊社が建てられ、山腹には不動明王を祀る不動堂、そしてその周囲には十二の坊が置かれました。そして麓に至るまで多くの修験者が居住するようになります。

これにより、大山寺と阿夫利神社(阿夫利神社の歴史はもっと古く、阿夫利神社のHPには『二千二百余年以前の人皇第十代崇神天皇の御代に創建』と書かれている)が一体となった大山信仰が形作られていくのです。

山岳信仰に関する単語
山岳信仰
古来、山は神々が住まう霊場として信仰されました。山そのものを御神体とする、他界を山中に求める、山中にそびえる巨石・巨木を崇めるなど多様な信仰形態が見られます。
修験者
山中での厳しい修行を通じて験力(げんりき)を得、それによって宗教的な活動を子なう宗教者のこと。山伏(やまぶし)とも言います。
権現
仏・菩薩が仮に神となって現れた姿のこと。修験道では神仏を一体として捉え、山に住まう神仏を権現と称して仰いだ。

そんな大山は、鎌倉時代にも鎌倉幕府庇護のもと発展を遂げていきます。

源頼朝が自らの佩刀(いわゆる刀)を使者に託して大山寺の宝前に奉納し、護摩祈祷などによる武運長久・天下泰平を祈願したことで、多くの土地が寺領として寄進されました。

とはいえ、これは使いに頼んだわけであって、頼朝本人が大山に登ったか否かは不明らしいですけどね。。

この頼朝が刀を奉納したことから、大山石尊社に木太刀を奉納する風習が生まれます。

その後、室町時代になっても足利氏と関東管領上杉家の庇護を受け、戦国時代は小田原北条氏の支配を受けると、大山の修験勢力は武力と情報収集能力を買われ、 北条市の支配下に組み込まれます。

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江戸幕府による大山改革

しかし、江戸時代に入ると幕府が大山の大改革を行うことになります。何で改革を行ったのかというと、大山の修験者たちの武力を恐れたためです。武力を持っているので、幕府からすると暴れ出されたら困るので気になっていたって感じですかね。。(;’∀’)

そこで、江戸幕府は大山を関東の高野山に位置付けるべく山内粛清を図ったんです。

この当時、大山には僧侶や修験者などの方々が山中に混在していました。ところが、大山の山中を山内粛清するため、戒律を厳しく守り妻帯を持たない(結婚していない)清僧のみを残し、さらに宗派に関しても華厳、真言、天台の三宗兼学の道場となっていたのを古儀の真言宗のみとしました。

そのため、山中の修験者や神職は麓へ移されてしまいます。

しかし、彼らが山麓に御師集落を結成し大山信仰の強化に努めたため大山講の組織化が進み庶民の間に大山詣が流行したのです。

現在も信仰の山として、7月27日~8月17日にかけて行われる夏山大祭は多くの参拝者を集める。

山の麓に門前町が誕生!

麓に門前町が誕生

江戸幕府の山内粛清によって、修験者たちは山の麓へと下山を命じられてしまいました。。

ところがどっこい、彼らはこのままへこたれることなく、蓑毛側と伊勢原側の麓に居を構え宿坊・土産物屋の経営、大山寺への取次や諸国への檀家廻りなどによって生活していくことになります。

このような生活になったことで修験者は御師となっていったのです。

それにより、大山の麓には門前町が誕生することになるんですな~!

今でも宿坊が立ち並ぶ

その麓にある門前町の雰囲気は今でも残っていましてですね~、宿坊とかお土産屋が立ち並んでいるんですよ(*´▽`*)

宿坊『かすみ荘』

2020年の現在は、宿坊が20軒くらい営業し続けていますが、かつては150軒近く立ち並んだそうです。そしてここは「宿坊」であって「旅館」とはちょっと違うんですね。各宿坊には御師がいて、館内には神殿や神棚が備えられているというのが旅館と違うポイント。

そう、ただ宿泊する施設ではないわけです。

大山入りすると、檀家は師壇関係にある御師の宿坊に泊まります。宿坊の周りにある瑞垣には、上の写真のように赤い文字で檀家の名が刻まれていますよね。こういったところも旅館とは異なるポイントでしょうか。

宿坊『おく村』

どの宿坊も長い歴史があっていろんな話が聞けるんだろうな~。

この写真を撮りに来たときは登らずに帰ってしまいましたが、次来た時には登山した後に宿坊に泊まってみよ(^^)

御師の檀家回りの持続的な努力によって大山詣りは隆盛化したといっても過言はない。檀廻は一般的には農閑期に行われ、その地域は相模国のみならず関東甲信越・東海・東北・伊豆七島にまで及んでいる。

そしてここから大山詣りの話に入って行くのですが、一旦、今までの大山での流れをざっくりですが整理してみましょう!

大山での出来事
1. 良弁によって大山寺が開かれる
2. 源頼朝が自らの刀を大山寺に奉納し、木太刀を納める風習が生まれる
3. 室町~戦国時代にも
4. 江戸幕府によって山内粛清の動きが起こる
5. 山を下ろされた御師達が門前町を形成

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江戸庶民に人気だった大山詣り

そんな大山には、江戸時代になると多くの方が山岳信仰へと訪れるようになります!

江戸時代中期になると、江戸周辺の地廻り経済が急速に発展しました。それにともなって、ある程度の生活の余力を持った江戸の中・下級庶民は、信仰と娯楽を兼ねて近隣の名所・旧跡への物見遊山に出掛けることになるのです。

お伊勢参りで有名な「伊勢神宮」

今でもメジャーなスポットである三重県の伊勢神宮へ向かうお伊勢参り、さらには霊峰富士へと向かう富士詣りも人気ではありましたが、移動手段が徒歩だった当時は、旅の日数もかかる負担の大きい旅だったんですね。。

そこで脚光を浴びたのが、東方では成田山・香取・鹿島、西方では大山・江ノ島・鎌倉・金沢八景、北方では高幡不動・高尾山などでした。

以前は江島詣に関する記事を書きましたが、江ノ島もこのころから、島内に祀られている弁財天を参拝しに多くの江戸庶民が訪れたんですな~。

江戸の人口が100万人だった当時で、20万人の方が大山を目指したというんですから、それはそれは大変な人気だったんでしょうな~。

ではでは、ここから具体的に江戸庶民がどのような手順を経て大山へ向かっていったのかを学んでみましょう!

垢離場だった隅田川

大山詣りの事前行為として、江戸庶民は隅田川に架かる両国橋東詰めの垢離場(こりば)で垢離を取りました。この「垢離」って何やねんって話ですが、これは「神仏に願掛けを行う前に、冷水を浴びて心身を清める」ってこと。

その場所が隅田川にかかる旧両国橋の南際にあったわけですが、その賑わいは真夏の海水浴場のようにごった返していたようです。

石尊垢離場跡

その名残りとして、今でも両国橋の付近にはこのようにここに垢離場があったことを示す説明板が残されております。逆に言うと、この説明板が残ってるだけっす!

この垢離取りが終わると、江戸庶民は浄衣や脚絆を身にまとって大山を目指したのです。

江戸から大山への道筋はいろいろあるんですが、神奈川県の名所を巡る場合の代表的なコースだとこんな感じ。(※もっと詳しくは、次ページに書いています)

江ノ島、鎌倉、金沢八景は3~4日かけて巡るコースが人気であり、もっと日数に余裕がある人だと、大山にも寄るルートが一般的でした。

ということで、多くの江戸庶民の方が大山へ行っていたわけなんですが、それは浮世絵にも表れているんですね。例として、歌川広重が描いた東海道五十三次を取り上げてみましょう!

東海道五十三次「戸塚」

こちらは、東海道五十三次の戸塚を描いた浮世絵。道の分岐点には「左りかまくら道」の文字が刻まれた道標が建てられており、右の橋を渡ると戸塚宿に入って行き、左へ進むと鎌倉へ通じます。

この絵で注目していただきたいのが、絵の左側に描かれている「こめや」と書かれた看板がある旅籠屋。軒先に木札がぶら下がってますが、ちょっとここを拡大してみましょう!

「大山講中」と書かれた木札がぶら下がる

拡大するとよくわかるのですが、「大山講中」と書かれた木札がぶら下がっていますね。これは、この旅籠屋が大山講の人々の指定休憩所だったことの印です。

ここで”講”という言葉が出てきましたが、これは簡単に言えばサークル的な集まりのこと。詳しくは後で説明します。

ちなみに、「百味講」と書かれた札も見えますが、これは江ノ島を信仰していた方々の講で、吉原遊廓の方もメンバーにいました。

東海道五十三次「藤沢」

続いては、東海道五十三次の藤沢を描いた浮世絵で、ここにも大山詣りに関する様子が描かれております。

この絵に描かれている鳥居は、江ノ島へと続く江島道に建てられた一の鳥居です。そして奥には丘の上に茶色い建物が密集している様子が描かれていますが、これが時宗総本山の遊行寺(ゆぎょうじ)。

木太刀を担ぐ男性の姿

先ほども大山詣りには大山石尊社に木太刀を奉納する風習があると書きましたが、ここに描かれている男性も木太刀を担いでおりますよね。この方は大山へ参拝登山をした後の帰り道のようです。

こんな感じで、大山詣りに関する様子は当時の浮世絵などに残されていたんですね。

はい、ではここでいったんページを区切りますか!

次は大山詣りについて学ぶには欠かすことのできない「講(こう)」と「御師(おし)」について、さらには、江戸庶民はどんな道を経て大山へと訪れていたのか、などについてのお話になります~!

続きはこちら!大山詣りに欠かせない「講」と「御師」とは!?
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コメント

  1. ベレー帽 より:

    大山には一周忌に登山すると死者に良く似た人とすれ違うという迷信が地元にはありますよ。ただネット上にはあまりその情報はありません。

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