火薬の街だった神奈川県平塚市!その歴史を「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」で学ぶ!

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七夕の街として有名な神奈川県平塚市。そんな平塚市は、タイトル通り「火薬」の街として戦前は栄えていたのです。そこには一体どんな背景があったのか、なぜ、平塚に火薬の工場が作られたのか??
そんな背景を紹介していきたいと思いまっせ( ´ ▽ ` )ノ
本記事のポイント

・平塚は海軍火薬廠があり火薬の街だった
・終戦前には平塚空襲によって大きな被害を受けた
・七夕祭りや平塚競輪は、街を復興するために作られた

今の平塚はこんな感じだ(^ ^)

神奈川県の平塚市。この街は、今では七夕とか湘南ということで「海」というイメージが強い街でしょうか??あと、最近は平塚タンメンとかもちょっくら話題になっていたり、そうでなかったり・・。
七夕祭りは、昔に当時の彼女と来たりもしたなんて思い出もあったり(⌒-⌒; )
この七夕祭りは、商店街が一瞬で渋谷の人混みのような感じになって、まぁ〜それはそれは大変賑わうわけです。
▲平塚タンメンの老舗「ラオシャン」のタンメン
ちなみに、平塚タンメンってこれです。透明なスープに、結構柔らかめの麺が入った感じ。トッピングはわかめなのだ(^ ^)
このラオシャンが発祥ではありますが、ここ以外にも花水ラーメンラオシャンというお店もあったりね!
花水ラーメンラオシャン本店は、駅から少し海寄りにあるお店で、地元のTVKとかにもよく出ていたり。湘南ベルマーレのお客さんも多く、夜の店内はラーメン屋というか居酒屋っぽい雰囲気にも!!
と、ちょっと話がラーメンに寄りまくりましたが、今回の記事を書くべく伺ったのは「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」という、めっちゃ名前が長い博物館(⌒-⌒; )
平塚駅からは15分ちょい歩く感じにはなるという、微妙にアクセスが悪い場所だったりしますが、ここで平塚の歴史を学んできたわけですぜい!!
その建物がこちら!この建物は、今現在は無料で入館することができ、中に入るとボランティアスタッフの方が、火薬廠に関することなどの平塚に関する歴史を、いろいろと教えてくれます。そんなに有名な場所でもないので、ぜひ気になる方はここに来てボランティアの方に歴史を聞いてみるといいと思いますよ(^ ^)

「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」はこんな感じっす!!

この記念館は、明治時代に作られた日本火薬製造株式会社と一緒に作られました。1911年には、コック室からの出火により焼失しましたが、その後再建されて、食堂、応接談話室などに使われることに。
そして、終戦後は海軍火薬廠が11月30日に廃庁になり、大蔵省から旧海軍火薬廠跡地の大部分の払い下げを受けて、1950年8月23日に開所式が行われました。その時にこの建物も横浜ゴムの所有となったのです。
横浜ゴムの所有となったこの建物は、昭和天皇が訪れた時の休憩所として使用されたほか、平塚製造所のシンボルとして重要顧客の応接室や会議室として使用されました。この建物は、平塚市では唯一の洋風建築物であり、多少の改変はしていますが明治時代に建てたものの姿をとどめています。
今現在は、記念館として開放しており無料で中が見学できるだけでなく、イベントホールとしても使われているとのこと。私が訪れた時は、ハンドベルのイベントがあったようで、係りの方がその片づけをしている最中でした。ちょっとあわただしい時に来ちまったぜ( ;∀;)
一番奥の部屋には、この記念館の歴史や平塚が火薬の街だったことの背景が分かる展示がありました。ここで、少しの時間でしたがスタッフの方に平塚の歴史を教えていただきました。いや~火薬やら平塚空襲やら、それほど遠くない鎌倉市に住んでいたのに全く知らなかった。
本当に街それぞれには、目を向けてみるとたくさんの歴史が眠っているものですな。ということで、ここでいろいろ聞いた火薬廠を含む平塚の歴史に関してを以下でぶちまけていきますよ〜!まずは、ここ平塚がそもそもどのような場所だったかに関してを、江戸時代まで遡って説明していきますね!!

徳川家康が鷹狩りをしていた場所だった!!

※「今昔マップ on the web」を元に作成
今では鷹狩りって言葉を聞くことはほとんどないですが、江戸時代の主役だった徳川家康は鷹狩り大好き人間でした。彼は、江戸へ向かう際にこの平塚に屋敷を建てて鷹狩りを行っています。その鷹狩りを行った場所は、今でいう平塚市総合公園とか横浜ゴムの工場がある場所です。
ここは、広大な平地が広がっている場所ということもあってか鷹狩りがしやすい場所だったようです。そして、家康が鷹狩りをするとともに宿舎を作るべく中原御殿という屋敷も作られました。
かつて、屋敷が作られた場所にはこのような碑が建っていたりもするんですね。
▲家康の屋敷跡に建つ小学校
その家康の屋敷は、今現在は小学校になっています。この小学校が丸ごと屋敷だったのかしら??今現在は閑静な住宅街になっていますが、家康の屋敷があったころはこの周辺は何にもなかったそうですよ!

日露戦争後に、国策で無煙火薬作りに奔走!!

▲当時最強と言われたバルチック艦隊を破った、戦艦三笠と東郷平八郎像
1904年に日露戦争で勝利した日本。当時は最強と言われたバルチック艦隊を破ったというまさかの結果になったわけですが、この時に無煙火薬はイギリスから全て輸入をしていました。一応国産のものは下瀬火薬という火薬はあったのですが、無煙の物は国産ではなかったようです。
平塚に火薬工場があった訳

理由1:国有地を含む広大な平地があった!
理由2:豊富な水源があった!
理由3:平塚沖は、大型船が入ることができた!
理由4:東海道線があり、東京へ運びやすかった!
そこで、平塚に火薬工場(日本火薬製造株式会社)が作られるわけです。なんで平塚に作られたのかというと、幾つかの理由があるので、紹介していきましょう!!

理由1:国有地を含む広大な平地があった!

※「今昔マップ on the web」を元に作成
まず一つはコレ!先ほど、平塚では徳川家康が鷹狩りをしていたと書きましたが、そのため、海側というか駅の方から平地を覆うために、幕府主導で杉を植えて杉林(中原御林)を作り、鷹狩りの場所を覆い隠すようにしたのです。
大きな火薬工場を作るためには、広大な平地が必要ですし、国が管理していた土地もあったということで、この土地が使いやすかったというのが、まず一つの理由っす(´・Д・)

理由2:豊富な水源があった!

あとは、火薬を作るには水が必要になってくるわけです。この平塚は、その条件もクリアしていました。ちょっとひいて平塚の地図を見てみると、平塚市は川と海に囲まれたエリアというのがわかります。
▲山岳信仰の対象として有名な「大山」
左には花水川が流れ、右側には神奈川県の6割近くの水道水源でもある相模川が流れています。それでけではなく、ここでは大山起因の良質な水が湧いたりもする場所だったり!大山は、山岳信仰の山として古くから信仰の対象とされ、渋谷にある道玄坂も実は大山街道の一部だったりします。つまり、東京の方からも大山講(大山を信仰していた方々)が大山へ祈りに来ていたわけです。
▲大山からの名水で作られる「大山とうふ」
その大山からの湧水は良質な名水ということで、その水を使って作られる「大山とうふ」が名物だったりするわけですな!!この写真の大山とうふは、大山のふもとにある旅館「元瀧」で食べたとうふ。うまかったお(*’▽’)
▲大山の麓にお店を構える「ZUND-BAR」
少し話がそれてしまいますが、天空落としで有名な神奈川県海老名の名店「中村屋」の店主は、大山の名水を使ったラーメンを作りたいということで、中村屋の別ブランドのお店「ZUND BAR」を秦野に出店していたりもします。
このお店は、アクセス的には車でしか行けない完成な場所にあるにもかかわらず多くのお客さんが訪れる超名店!それだけ、この大山の湧水というのは良質な水なわけですな( ´ ▽ ` )ノ

理由3:平塚沖は、大型船が入ることができた!

あとはコレ!これも、地図を見ながら説明することにしましょう!
湘南にも含まれる平塚ですが、実は平塚沖は遊泳禁止だった時期があるのですよ。相模川から東(藤沢側)と、花水川から西(大磯側)は海水浴場として利用されているんですけどね。
なんで平塚沖は遊泳禁止だったのかというと、海が遠浅になっていないからです。海が遠浅になっている場所は、海岸近くの底が浅いため船が入ることができません。ところが、平塚沖は遠浅でなく、いきなり水深が深くなる地形となっており、そのため船が入ることができたわけです。
よって、火薬廠で扱う資材を海から運び入れる事もできたし、火薬を船で運び、近くにある横須賀海軍基地まで運ぶことだってできたわけなんですね!

理由4:東海道線があり、東京へ運びやすかった!

あ、あとは単純に東海道線が開通していたことで、東京方面に鉄道輸送ができたためです。火薬廠があった当時は、平塚駅からの引き込み線があり、直で鉄道輸送ができたというわけです。

平塚にあった海軍火薬廠の歴史とは

▲平塚駅の北側にある横浜ゴムの工場
海軍火薬廠の跡地は、今現在公園や図書館などの公共施設があります。終戦後に火薬廠が無くなった後は、横浜ゴムの工場などに変わっていきました。横浜ゴムの工場は、今現在も平塚駅の北口にありその歴史は続いています。
そして、今現在の横浜ゴムの工場脇には、このような碑が置かれています。火薬廠は、もともとは日本火薬製造株式会社という会社でした。この会社は、イギリスのアームストロング、ノーベル、チルウォーズ3社と日本政府との間で取り交わされた火薬製造所設立の契約により、1905年に設立されたのです。
その後の1919年には、日本海軍が買収したことにより海軍火薬廠となります。「火薬廠」とは、いわゆる日本海軍直属の工場ということで、このような名称が使われています。その後は戦後に解体するまで火薬の研究が続けられていましたが、ここでの火薬の研究は後の日本の化学の研究における礎を築いたなんて話も聞いたことがあります。
具体的にこの工場でどのような物語があったかまではまだわかりませんが、書籍などをあされば文献は出てくるでしょうからその辺は時間があるときにでも研究してみようかと思います。まだまだ、書けていないブログ記事が死ぬほどありますが(-_-;)
▲火薬廠の痕跡として残る壁
今現在は、この跡地の周辺のこのような壁が連なっているのがその痕跡でしょうか。あ~あとは、平塚駅から火薬廠への引き込み線の跡が道路になった場所なんてのもありますが、遺構としてはそんな程度でしょうか。
あとは、その敷地内には、今現在は平塚共済病院という病院がありますが、ここは以前は海軍共済病院という病院でした。
そんで、これらの病院や横浜ゴムの工場があった場所には今現在民家がありません。今現在の地図と照らし合わせるとわかりますが、火薬廠があったエリアにはその他に公園や図書館などの公共施設があるのです。それは工場があったという背景があったということで、人を住ませられるエリアではないということ。
ここでは、毒ガスを製作していたなんて背景もあるということで、いろいろ曰く付きの場所でもあるのですな。

戦時中に襲った「平塚空襲」

1945年8月15日に終戦を迎えて、日本は太平洋戦争に負けました。終戦直前には広島と長崎に原爆を落とされたりと、本土ではこれでもかというくらい被害を受けてしまう日本ですが、原爆だけでなく、焼夷弾を落とされまくる空襲被害や、B-29からの機銃掃射によって亡くなる方など、日本は今では考えられない状態になったわけです。
それは、今回紹介している平塚も例に漏れず、平塚は1945年7月16〜17日にかけて空襲被害を受けました。ここには、海軍火薬廠などの工場があったからという説もあったようですが、実際はそんな単純な話ではないようで、
今回訪れた旧横浜ゴム平塚製造所記念館のすぐ隣には、平塚大空襲で犠牲になった方々を供養するための平和慰霊塔が建っています。

戦後復興のために開催された「七夕まつり」

今現在は、平塚というと「七夕まつり」という印象が一番強いのではないでしょうか??私も昔彼女がいた時には、平塚の七夕祭りに行ったもんですわ。あと、平塚駅の発車ベルも童謡「たなばたさま」が使われてもいますしね( ´ ▽ ` )ノ
そんな七夕まつりって、いったいどんな経緯で誕生したのかというと、これは戦後復興のために作られた一大イベントだったわけです。「じゃあ、なんで戦後復興のために作ったイベントが七夕なのか?」って話になるのですが、何でですかね??
すみません、ちょっとそこまでは調査できなかったため、できたらここに追記するようにします!!ただ、平塚の学校でも七夕の背景に関しては教えたりしていないとのことなので、そんなに知っている方は多くないのかもしれないっすね。

平塚競輪も戦後復興のために作られた!

七夕まつりだけでなく、実は「平塚競輪」も戦後復興のために作られたものなんです。この競輪で出てきた収益は、実際に平塚の復興事業に充てられたりもしていたそうです。 この競輪が出てきたことで、街の治安というか柄の悪いおっさんみたいなのが増えてきたりもしたとのこと。
▲平塚駅北口にあるピンサロ・飲み屋街
そのため、街の方達が治安を守るべく、夜回りをして安全を守ったりしていた時期もあったとのこと。今現在、平塚駅の北西側には飲み屋やピンサロが集まるエリアがありますが、この場所は平塚競輪ができたことが、このエリアができた一員であるという説も聞いたりしました。実際どうだかは不明ですがね。。

寒川では「毒ガス工場」が作られていた

今回訪れた博物館のスタッフの方には、この毒ガス工場に関しても教えていただきました。平塚には火薬廠が作られましたが、実はここから少し離れた寒川神社があることで有名な寒川という場所には、毒ガス工場が作られていたというのです。
実際に地図で見ると上の位置の場所にその工場があったそうです。毒ガス工場自体は「相模海軍工廠」と言われていました。そんで、今の地図をパッと見ただけだと気づきにくいですが、この相模海軍工廠へは、それ用の貨物線がこの近くを通るJR相模線から敷かれていたりもしていたわけです。
※「今昔マップ on the web」を元に作成
実際に古地図と比較してみるとわかりやすいですかね。古い上の方の地図には「貨物線」とかかれた線路がありますな。ただ、今現在の地図にも線路自体はないものの、線路の跡が道路として残っているのがお分かりになりますでしょうか??

実際に「相模海軍工廠跡」を訪問

一応、相模海軍工廠の跡地も訪問することにしました 。というか、ここは以前に相模線の記事を書く際に訪れていたので、その時の写真を使いながら説明します。かつて相模川の砂利を運ぶために敷設された相模線ですが、この鉄道にはかつて西寒川駅という今は無き駅が存在していたのです。
▲相模線の跡地にある遊歩道
寒川駅を降りて、西寒川駅へと向かっていきます。この歩道を歩いて行くわけですが、地形に関心を持っていると、こんな妙に長い歩道がある場合は「かつて線路が走っていたか川が流れていた跡ではないか??」とピンとくるわけです!!
と思っていたら、本当に線路が敷いてあった(*’▽’)
かつての本物の名残なのか、記念として残すためにここだけ敷き直したかは不明ですが、ちゃんとこんな感じで痕跡が残っているのですな!!

「相模海軍工廠跡」の碑が残っている

実際に、ここに海軍の施設があった痕跡はこんな感じで残っているわけです。ここの毒ガス問題は解決に至ったというよりかは、見えないようにして封印したって方が正しい見解のようです。この辺の事情はあまり詳しくはないですが、イペリットガスというスーパー殺戮兵器が出たりと問題は起きていたようです。
そんな歴史はなかったかのように、閑静な公園へと姿を変えているこの場所。さすがに気になってきたので、余力が出来たらこの辺の取材をしてみたいと思います。

おわりに

以上、結構長い記事になりましたが平塚ってこんな感じの街だったんですよ!!今では、七夕祭りが有名なのと、湘南ということで海のイメージが強いかもしれませんが、この街もあの太平洋戦争とは切っても切れない関係にあり、さらには火薬を作っていた街だったんですね。
いや~この辺りの歴史、多くの方々に届けていきたい。知っていただきたい。ただそれだけのために、これからも記事書いていきます!!

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県平塚市浅間町1−1
営業時間 09:00~21:30
定休日 毎週月曜日(当日が休日に当たるときは、その後において、その日に最も近い休日でない日)
12月29日~1月3日
駐車場 なし
電話番号 0463-35-7114
アクセス JR平塚駅から徒歩15分ほど
リンク http://hiratsuka-yokan1906.jp/

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