「講」と「御師」
前回のページで大山の歴史を語ってきましたが、このページからは「講」と「御師」というテーマからいきましょう!
江戸時代にもなると、大山にお参りするのは比較的容易にはなりましたが、一人でお参りに行くにはそれなりの費用と困難が伴う旅でした。そのため、御師という存在が必要だったんですね。
この「講」と「御師」は、大山詣りにおいてとても大事な単語なので、まずは以下にまとめてみました。
同じ地域の住民同士、または同じ職業を営む集団などを軸とした組織のこと。今でいうサークルとかそういった感覚でいいのかな?笑
御師
大山での宿泊や、大山への参詣の手配を取り仕切ってくれた方。名称としては、明治以降は「先導師」という言葉に代わります。つまり「御師 = 先導師」と考えてOK!
簡単に言うと、こういうこと!
この講というのは大山詣りする方々だけでなくいろいろなグループがあってですね、江ノ島への参拝を目的とする百味講や巳待講、さらには富士登山を目的とする富士講などがありました。
そして、大山へ向かう方々は大山講という組織を作っていったわけです。とはいえ、この大山講だけにしてもかなりの数の講があったようで、明治時代初期の記録では、関東一円に15,000以上もの大山講があったそうですよ(笑)
ありすぎww
講に参加している方々がお詣りの費用を積み立てていき、年に一度、講内で選ばれた人々が順番に大山詣りへ出かけるという仕組みでした。
続いては「御師」について!
御師の業務は今でいうツアーコンダクターです。御守りや御札の配布(配札)、宿坊提供、山内への案内、誘導などなど、大山を訪れた方々の様々な世話役をこなし、さらにはおもてなしの精神が求められていました。
この御師たちは、江戸後期には伊勢原側には150人、蓑毛側には15人が活動していました。
各宿坊には御師(明治時代からは先導師と言われるようにな)がいて、その手前にある瑞垣には大山詣りをする際に宿泊をしに来る講の方々の名前が刻まれています。彼らは基本的に決まった宿に泊まるそうですので!
とはいうものの、現代になると公共交通機関や車で来れることから、日帰り参拝の方々も多いそうです。
ちなみに、今では一年中いつでも大山詣りはできますが、江戸時代はその時期が明確に決まっていました、期間は夏場で「7月27日~8月17日」の間だったとのこと。
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全ての道は大山に通ずる
江戸庶民が大山を訪れたという内容をつらつらと書いてきましたが、続いては彼らがどんなルートを通って大山へ向かっていたのかについてを説明してみます!
まずは地図で代表的な大山への道を表してみました。
大山詣りについて書かれた資料には「全ての道は大山へ通ず」と書かれていることが多いように、様々な街道や脇往還は最終的には大山に収束されていきました。
江戸庶民が利用した大山道はいくつもありますが、この中でも多くの江戸庶民が利用したのが東海道から分岐する柏尾追分からの柏尾の大山道と、四ツ谷で分岐する田村通りの大山道だったようです。
上の地図の旧東海道から柏尾追分で分岐する道と、田村通り大山道入り口で分岐する道のことですよん!
東海道の戸塚宿の手前の下柏尾から右折した道が柏尾の大山道であり、その東海道との分岐点には上の写真のような道標や燈篭、あとはちょっとしたお堂が建てられております。
「従是大山路」と書かれた道標は1670(寛文10)年に建てられたもの。
あとコレね!
山号である「雨降山」と書かれた燈篭は、1865(元治2)年に松戸宿の商人らが建てたものです。
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続いてこちらは、東海道から先ほどの柏尾追分を通過してさらに進んだところにある「四谷辻」という分岐点。今でいう辻堂駅の北側辺りっす。
このルートは、大山の例大祭の際に、通常は閉じられている中扉の開扉役を勤める御花講がここを必ず利用したことから「 御花講道」ともいわれます。
この四谷辻には、今の街並みからは想像もつきませんが多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。
ちょっと、このお堂の中を覗いてみると、、、
お不動さんがお出迎え。不動明王ということで、いかつい表情をしておられる。。
そして、ここには今でも一ノ鳥居が建てられています。
元々は1661(万治4)年に木造の一ノ鳥居が建立され、その後は石造に造り替えられるも関東大震災で無念の倒壊。その後は、1959(昭和34)年に再建されて今でも鳥居は残されています。
柏尾追分も四谷辻も、大山の例大祭の時期になると辺り一帯は参拝客でごった返したそうです。
今紹介した柏尾追分と四谷辻は、主要街道である東海道との分岐点ということで大山に関する資料などにもよく出てくる場所です。が、その他の場所にも、特に分かれ道である場所には、どっちが大山へ向かう道かを示すための道標がいろんな場所に建てられていました。
今でも結構な数の道標が残されておりましてですね、先人の方々のブログとかGoogleMapで調べると発見することができますよ!
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大山道に建つ鳥居について
今度は鳥居について!
江戸時代の大山の鳥居は全部で11基ありました。多くは大山山中に建てられており、山から外れた場所には上の地図のような場所に一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居が建てられています。
一ノ鳥居は、先ほど説明した東海道と大山道への分岐点となる柏尾通の入り口と四ツ谷通の入り口に建てられていました。共に関東大震災で倒壊してしまい、柏尾通り入り口の鳥居は再建されず今に至りますが、四ツ谷通りの鳥居は、近隣の大山講中などの努力によって1959(昭和34)年に再建されました。
その他、二ノ鳥居と三ノ鳥居も現存しております。二ノ鳥居は小田急の伊勢原駅と大山の間に建てられていて、ここから神域に入ることを示しています。三ノ鳥居は大山の門前町の入り口にあり、ここをくぐると宿坊などが建ち「ようやく大山に来たか~」と思えるような光景が広がるんですな~~!
四~六・九・十ノ鳥居は現存せず、残りは大山の山中に建てられております。
ちなみに、現在は小田急線伊勢原駅北口にも青銅製の大きな鳥居が建てられております。これを一ノ鳥居と思っている方もいるようですが、これはあくまでモニュメント。
1927(昭和2)年の小田急線開通と大山ケーブルカー竣工を祝って作られた記念物であって、正式な大山鳥居ではないので要注意っす!!
どんな方々が信仰したのか
ということで、長きにわたって大山詣りについて解説してきました。多くの江戸庶民が大山へと訪れたと書いてきたわけですが、具体的にはどのような職種の方々が大山へと訪れたのかを書いていくことにします。
まずは農業の方々ですかね!
古くから農耕の神としても信仰を集めていたんです。というのも、大山は「雨降山」と言われていたように、夏になると山頂に大きな雲が発生して大雨をもたらすからです。
農業の方々からすると、恵みの雨というのは欠かせないものですよね!
ということで、雨乞いの霊験があるとして農民からの崇敬が篤かったわけです。
さらにさらに、大山は航行の目印・航海守護の神としても信仰されており、海の男たちからの信仰も篤かったわけです。そのため、東京の築地市場の方々も大山講を作って大山を信仰していました。
んで、ここで気になるのが「航行の目印」という点。
これ、何かというと海を航行する際、現在はGPSがあるので海上でも自分の位置を特定することが容易にできますが、江戸時代にはGPSは無いためそれが難しかったわけです。
そこで、彼らは大山を目印にした「山あて」という方法を用いました!
山アテの流れ
1. 船が相模湾に浮かんでいるとする。
2. 大山を目標物として自分の位置とつなぐ一本の線を引く。
3. もう一本、大山を目標物として自分の位置とつなぐ一本の線を引く。
4. 日本の線が交差する地点で、自位置が特定される。
この方法で、昔の海の男たちは船の進行方向を決めたり漁場を特定していました。遠方からでも視認できる山は羅針盤であり、道しるべだったわけです。
特に、大山は丹沢山系に属しているものの、その南端で独立峰のように見えるため、富士山ほどではないものの特定しやすい山だったんですね!
築地市場の方々に親しまれていたのには、そのような背景があったわけです!
今でも、大山阿夫利神社の下社をよく見てみると、築地市場の方々が信仰している痕跡がこうして残されております。
その他にも色んな職種の方が信仰しておりました。
こちらは、宿坊『元瀧』の食堂にあった木札なのですが、東京の彫り師たちの木札が掲げられてるんですね~。
その他にも、阿夫利神社の玉垣にはこんな感じでメディア関係の名前もありました。こういうテレビ関係の方々も、昔から大山を信仰していたのかな~~?
まぁ挙げるとキリがないのですが、宿坊や阿夫利神社の玉垣などを見ると、どんな方々が大山を信仰していたかがわかるんですよ。行く方がいたらぜひ探してみて下さいな(*´▽`*)
神仏分離を経て現在へ
そんな江戸庶民に愛された大山ですが、明治時代に入るとまたまた大きな改革を食らうことにます。。
明治時代の神仏分離ですよ。。
これによって寺はことごとく破壊されてしまい、大山寺は阿夫利神社(現在の下社)となってしまいます。
そして明治時代全般を通じて旧称の「雨降山大山寺」という山号・寺号を名乗ることはできませんでした。ただ大正時代に入り、観音寺の名跡と合併する手続きを経て、ようやく旧山号・寺号を回復するに至るのは1915(大正4)年のことで、大山寺を明王寺と改称させられてから半世紀ぶりの復権であった。
その後、大正のころから大山では様々な整備が始まることになります。
1917(大正6)年には伊勢原電気株式会社が創立され、翌年には伊勢原町への電気供給が可能となり、同年大山にも大山電気株式会社(水力発電)が開業。続いて1920(大正9)年には、伊勢原自働車運輸株式会社が営業を開始し、伊勢原-大山間をバスが運行することに。
そして昭和期に入ると、1927(昭和2)年に小田急小田原線が全線開通し、平塚駅に代わって新たに伊勢原停車場(伊勢原駅)が大山詣りの主要な玄関口になりました。
これにより、駅周辺の集客はもちろんのこと、首都圏からの日帰りの大山登山・大山詣りが可能になり、乗り合いバスも急増。1931年には大山ケーブルカーが開業し、これを記念して伊勢原駅北口に青銅製の大鳥居が建立されました。
そんなこんなで多くの大山詣りの客が殺到することから、大正期に引き続いて石段の撤去作業が必須になり、大山ケーブルカーの大山駅までバスの運行が可能になりました。
こんな感じで、怒涛の如く大山の麓のインフラ整備が進みまくって大山へのアクセスが容易になっていったわけです!
まぁ、ざっくりではありますが大山に関する歴史をまとめてみました。
だいぶいろんな情報を端折(はしょ)って書いたのですが、とにかくこの山には多くの歴史や物語が秘められているので、登山とか紅葉を見に来るときでも、こういった背景を知っておくとより大山に興味が湧くかと思いますよ(*^-^*)
おわりに
いかがでしたでしょうか??
今回は、山岳信仰の山として江戸庶民に人気だった大山の歴史などをざっくりと紹介させていただきました。
でも、まだまだ大山に関しては実際に登山した様子や、山の麓にある旅館に宿泊した話などネタはたくさんあるので、これからも続編を書いていく予定です(*^-^*)
なので、次の大山の記事までしばしお待ちいただければと思います<m(__)m>
参考文献
詳細・地図
住所 | 神奈川県厚木市七沢 |
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駐車場 | 有料 |
アクセス | 小田急の伊勢原駅からバスで麓まで来れます。あとは、ケーブルカー乗ったり登山したり! |
リンク | http://www.afuri.or.jp/ |
コメント
大山には一周忌に登山すると死者に良く似た人とすれ違うという迷信が地元にはありますよ。ただネット上にはあまりその情報はありません。