青銅鳥居に秘められた江ノ島と吉原遊廓の関係とは!?

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吉原巳待講からの石碑

江ノ島を参拝していた江戸庶民は、多くの方が講中という組織を作って参拝しに行ってました。

講中とは寺社を参拝する人々の集まりのことで、富士山を参拝する富士講、大山を参拝する大山講、成田山を参拝する成田講などなど、数えたらきりがないくらい色々な講中があったわけです。

ただし、多くの方に参拝していただくためには、江ノ島弁財天の存在を知っていただく必要がありますよね。つまり、広告・宣伝する必要があるわけです。

今の時代だったら、SNSでアカウント作ってつぶやきまくったり、テレビCM打ったり電車や駅に広告出したりとかいろんな方法がありますが、江戸時代にそんなことはできませんわな・・(笑)

そこで大きな効果を発揮したのが江ノ島弁財天の御開帳でした!

江之島大弁財天開帳御着の図

御開帳とは、普段は見ることができない弁財天を特別に公開するってやつです。

そんな御開帳には二種類あり、現地(江ノ島の島内)で開帳する居開帳と、出張して別の場所で開帳する出開帳がありました。そんで、出開帳をする際にはより江戸の方に知っていただくため、弁財天を江戸まで運び、浅草や深川八幡宮(現:富岡八幡宮)などで行っていたんですね~。

そうやって江島詣をする人たちを集客していたそうです!

そこで、江ノ島弁財天を参拝したくなった方々が大百味講中、福寿講など様々な講中を作ったわけです。そして、吉原遊廓の方々も百味講、巳待講などの講中を作って江ノ島を参拝していました。

吉原と江ノ島にはこういった関係があったんですね!

そんで、先ほど紹介した江ノ島の入り口にある「新吉原」と書かれた青銅は吉原弁財講によって寄贈されたものですが、実はもう一つ、吉原からの贈り物が島内にはございましてですね、、、

島内にある無熱池

それが、先ほどの大鳥居から緩やかな坂を上った場所にある無熱池(むねつち)のそばにあるんですな。池と言っても、今は水ないですけどね(笑)

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崖の途中に建っている碑

この池の裏は急斜面になっているんですが、もう一つの吉原からの贈り物ってのが、崖の途中にある赤矢印で指したデッカイ碑ですわ!!

この碑、実は新吉原の仲の町の引手茶屋と廓内の藝者間の連中をもって組織された巳待講という講中によって寄進された碑なんです。

が、現地では、無熱池から肉眼で見ても碑の位置が遠すぎるためマサイ族並みに視力がないと何て書いてあるかわからないんです。。私だっていまだに肉眼で視力1.2ですが、それでも全くもって何て書いてるかわからんので。。(笑)

碑の下部を拡大すると

なので、目一杯ズームにして一眼レフで写真をパシャリ!!

ね、右側に「新吉原」の文字が刻まれてるでしょ!

ここに連なっている長崎屋喜兵衛、稲本庄三郎、近江屋半四郎、吉村屋為七などの名は巳待講のうちの、この碑の寄進者の名ですね。

何て書いてるんだ・・

そんでこの碑にはこうして文字も刻まれてるんですが、何て書いてるか全然分かんないっす。。

これは漢文??

誰か読める方いたら教えてほしいっす( ;∀;)( ;∀;)

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芸能の方々にも人気だった

その他にも、吉原の方々は音曲の題材として江ノ島を用いていたようです。

江の島弁財天の信者が信仰のあまりに、その縁起を書き綴り、または風景を叙して音曲に歌い出したものに、河東節(かとうぶし)、一中節、常盤津、長唄などがありました。

河東節とは、江戸で始まった浄瑠璃のことで、江戸の吉原でもお座敷浄瑠璃として行われていたという。河東節の江の島の曲は享保8~10年の間にできたものといわれており、その他には、吉原の百味講の連中によって作られた『新江の島』という長唄もあるんですって!

もっと探しまくると、他にもいろんなつながりが見つかりそうな気がしますな~。

さらに話すと、江ノ島にはいろんな業界の方が参拝に来ていたようで、、、

中村座と市村座の石塔

江ノ島弁財天は技芸の上達にご利益が大きいとされることから歌舞伎とも関わりが深く、芸能関連の方々からの信仰も篤いことから、今でも中津宮の参道には「中村座」「市村座」と刻まれた石塔が残されています。

この二つは、江戸にあった歌舞伎劇業の中でも江戸三座に含まれている超有名な芝居小屋だったんですって。

『江之島の風景』二代歌麿

そして江ノ島は芸能の方に人気のスポットでしたが、女性にも人気のスポットだったようです。そしてそれは女性を描くことが多い浮世絵にも垣間見られ、江ノ島は富士山に次いで浮世絵版画の数が多く、江ノ島は浮世絵出版界にとって格好の材料でもあったようです。

というのも、江ノ島は大山とか富士山みたいな登山する形式のガチムチな感じでもないし(そもそも富士山と大山の上部は女人禁制だった)、さらには男が好む色物要素もなく「霊地」を徹底していたのが女性に好まれた理由かもしれません。

資料などの記述をみれば、『浜のさざ波』という資料には以下のような記述もあるようです。

此地は古今霊地なれば、出女の類はさら也、芸者めきたるものも堅く禁制也、いととふときことにあらずや

『浜のさざ波』

その辺の詳細や江ノ島と吉原の関係については、鈴木良明著の『江島詣』にも記述が見られます。

この本は、本記事を書く際にも結構参考にさせていただきやしたぜ!

この書籍は、江島弁財天信仰を中心に描かれた本ですが、ここにも「【コラム】江島と遊里」というタイトルでちょっとだけ江ノ島と吉原のことが書かれています。ちょっと抜粋してみましょう!

【コラム】江島と遊里

遊里の場「新吉原」と江島の繋がりは深い。江島の「唐人囃子」や「龍神囃子」と称し新吉原でもてはやされていたことが『明月余情』に吉原俄(にわか)の絵で紹介されている。これらの囃子は普通の祭り囃子の楽器構成と違い、「哨吶」(チャルメラ)「三味線」「ドラ」などで構成された独特のもの。現在でも江島神社の祭礼に併せ演奏されているが、昔は本宮より旅所へ神宮を移遷する「二度の祭祀」に奉したという伝えである。

『江島詣』より

『江島詣』には上記の記述以外にも、前ページで紹介した青銅鳥居に関しての記述もあり、結構読み応えある本ですよ!!

江ノ島と深川新地

以上のように、江ノ島と吉原遊廓の関係を書いてきましたが、せっかくなのでもう一つの遊廓、ではなく私娼窟と江ノ島に関するお話を!!

江ノ島南西部にある稚児ヶ淵

その関係を示すものは、江ノ島の奥地にある稚児ヶ淵という場所に残されています。ここは江ノ島の最奥地に存在する岩屋洞窟のすぐ手前の場所。

こんな感じで相模湾を一望出来て景色は超抜群なんです~~。

広大な海の景色に見惚れてしまいますが、私が見たいのはこれではなくて、、、

これっす!

稚児ヶ淵の場所にこうしていくつかの碑が並んでおりますが、一番奥の碑に注目!!

深川新地から寄進された竜灯松碑

そう、これですこれ!

こちらは「竜灯松碑」と言われているもので、1809(文化6)年に深川新地の五明楼から寄進されたようです。

江ノ島に寄進された様々な碑や灯篭などは、江ノ島弁財天の開帳を行う年が多く、1809年も三社の弁財天を開帳していた年でした。

こうして寄進物は、江戸の諸商人、歌舞伎・芸能関係者からの奉納が多く、寄進者は個人よりも講中名を冠するケースが多いですが、こちらは五明楼ということで一旅館(料亭?売春宿?)からの寄進というのは結構珍しいんじゃないですかね~。

「深」の文字だけが確認できる

碑をよ~く見ると「深」の文字だけは確認できますね。何て書かれてたんだろうな~、右から「楼明五地新川深」とでも書かれていたんでしょうか。。

しかし、吉原遊廓だけではなく、こうして深川新地の方々も江ノ島へ関心を持たれていたようなんですが、色街関連ではその他の遊郭や花街などの方々も参拝しに来ていたんだろうな~。

また江ノ島に行った時は、何かしらの痕跡が残ってないか探してみようと思います(*’▽’)

多くの方に気づかれていない痕跡が残ってるかもしれない!

おわりに

どうでしたでしょうか??

現在では小田急線や江ノ電、湘南モノレールによって都心から容易にアクセスが出来るようになった江ノ島。

今では多くの観光客でにぎわっているこの場所ですが、かつては江戸庶民にも親しまれ、数日かけて弁財天に祈りを捧げる神聖なる場所だったわけです!

江ノ島に行った時、ぜひインスタ映えできそうなものばかりを狙うのではなく、神社やお寺に刻まれている何気ない場所にも目も向けてみてください!

玉垣や鳥居、石塔などには先人たちの痕跡がたくさん眠っているんので(*’▽’)

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県藤沢市江の島1丁目4−13
駐車場 なし
アクセス 小田急線 片瀬江ノ島駅から徒歩12分ほど

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