今回は、神奈川県の端に位置している湖である「相模湖」に焦点を当てたいと思います。
この湖は、自然に作られたわけではなく、人工的に作られた人造湖であり、神奈川県民の貴重な水源を蓄えてもいたりします!
そんな相模湖の歴史を本記事では簡単に辿っていこうかと!では、いってみましょ~!
本記事のポイント
・相模湖は、勝瀬地区という部落があった場所に貯め込まれてできた出来た人造湖
・高尾山の登山客もやってきていたものの、今では閑散とした観光地
・ラブホテルも散見され、不倫の方々のメッカとなった
相模湖はいかにして誕生したか、歴史を辿る!
ではでは、ここが私個人的に記事の中でも一番伝えたい内容になるのですが、相模湖という人造湖はどのような背景によって誕生したのか。その背景について、学んでみることにしましょ〜〜!!
ダムに沈んだ勝瀬地区
▲相模湖の湖底に沈んだ勝瀬地区
相模湖にあるとあるおみやげ屋に、このような写真が掲げてありました。太平洋戦争が開戦した1941年に撮影されたこの写真に写っているのは、「旧日連村 勝瀬」という街。この街は、今の相模湖の湖底に眠っている村なのです。
この村がいかなる経緯を経て、われわれ神奈川県民のために村を去らなくてはいけなくなったのか。その背景を探ってみましょう!
※「今昔マップ on the web」を元に作成
旧勝瀬部落は、1501年に誕生した村なんだそうです。この勝瀬がある街は東京・神奈川から甲信越方面への物流の中間点だったため、荷継問屋、醤油蔵、造酒屋、米殻荒物の百貨店があり盛んな商業取引が行われて発展を遂げていました。
▲明治44年に全線開通したJR中央線
また、高尾方面から勝瀬へ通る大垂水峠の開削、さらにはJR中央線の開通などは部落民の生活に脅威をもたらしました。勝瀬では二度の耕地整理が行われて水路の設備、堤防の整備を行って川原を開田することで安定した生活が送れるようになりました。
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なぜ、勝瀬地区にダムを作ることになった?
ダムを作ることになった理由は、神奈川県の様々な場所で生活用水が不足していたことに起因します。それは、大都市である横浜市や川崎市だけにとどまりませんでした。神奈川県の中心部にある高座郡では、広大な平野の開発が進み畑地の広がる農耕地帯になっていました。
しかし、この場所は火山灰が蓄積する乾燥土壌であることや、高台に位置していて地下水位も低いことから推理に恵まれず、飲料水を確保することが困難だったのです。
そこで、山梨県の上野原方面からの取水か近くからのポンプ陽水など様々な計画や調査が行われていたのですが、経済状況や技術不足で実現に至らなかったようです。そこで、1933年に相模原住民の開田要望が高まったことで、ついに相模ダムの建設計画が宣言されるようになったのです。
その後、貯水池候補地が勝瀬地区となり、調査が進められたものの予算の関係でなかなか計画は進みませんでした。しかし、横浜市水道取水の出願が出されたことなどで計画は急速に進展して、1938年1月に河水統制事業予算案を審議する臨時県議会が開かれたのです。
これを機に、勝瀬の住民は反対運動、補償交渉、移住問題などの様々な苦悩の日々を過ごすことになったのです。祖先が開拓してきた勝瀬の土地を守りたい、そして交通の便もよく住みやすいこの地を離れることの辛さや切なさはかなりのものだったようで、県知事や土木担当者とは連日深夜に及び、徹夜になることもあったという。
それは、お互いに心労や体調不良を訴えるものも出るほど。このような住民の苦渋の思いはあったものの、住民は勝瀬の地を去ることになりました。ここに暮らしていた住民は、東京都の日野市、神奈川県の海老名市などに移転していったそうです。
その後、1940年に勝瀬地区の離村式が開かれ、同年11月25日に相模川河水統制事業の起工式が行われました。村を去る住民たちの気持ちはどのようなものだったのか。。
今現在、相模湖の脇には湖底に沈んだ勝瀬地区があったことを残す碑が建てられています。
▲勝瀬を後世に残すための碑
林の中にあり、なかなか気付かれにくい場所にあるこちらの碑。勝瀬地区があったことを後世に残すべく、水没から60年が経った2004年9月に神奈川県企業庁の協力によって建設されたそうです。
相模湖は神奈川県の主要な水源!
そして勝瀬地区に水をため込む形で1940年11月25日に相模ダムの建設工事がスタートし、1947年6月14日に竣工式が行われました。7年近くの工期を経て完了したこのダムのおかげで、今も神奈川県の生活用水は安定的に供給されています。
▲相模ダムの工事で亡くなった方々への慰霊碑
しかし、そんな相模ダムを建設している際には83名の方々が過酷な労働により殉職されています。この建設には日本人だけでなく中国や朝鮮半島の方々も工事に携わっており、のべ300人以上の方が従事していたそうです。
相模湖の脇には、彼らを慰霊するために「慰霊塔」がひっそりと建てられています。この慰霊碑、交通量が少ない脇道沿いに建てられているためほとんどの方に気付かれていないかとちょっと残念に感じました。。
この殉職者を追悼するために、毎年相模湖交流センターでは殉職者の追悼会が行われています。今年の2018年も7月29日(日)に行われたようで、湖底に沈んだ勝瀬地区への感謝や近隣諸国との平和と友好を願って開催されているようです。
今現在でも慰霊の会が行われているとは知りませんでした。。時間が合えばぜひ参加してみたい。。
そんな相模湖の先には津久井湖があり、以後は相模川として神奈川県の中心部を流れる川となりますが、この相模川は神奈川県の水源の60%を賄っており、まさにこの川の恩恵で神奈川県民は生活できていると言っても過言ではないでしょう。
▲横浜のシンボルであるみなとみらい
そのため、相模川に関わる相模ダム、さらには津久井湖にある城山ダムや宮ヶ瀬湖にある宮ヶ瀬ダムも神奈川県民にとっては大切なダムとなっているわけです。人口約370万人が暮らす横浜市があるのも、遠く離れたこれらのダムによって成り立っていることを忘れてはいけないわけです。
▲神奈川県民の主要水源である相模川
相模川は単純に水源としてではなく、鉄道が発達する以前は貴重な運送ルートとしても利用されており、さらには河川に溜まった砂利もコンクリートの材料に利用されていました。昔は河川の砂利がコンクリート材料に使われていたこともあって、相模川だけでなく多くの河川で砂利の採集が行われていたのです。
▲相模川の砂利を運ぶために誕生した「相模線」
そして、その砂利を運ぶために敷かれた鉄道がJR相模線でした。路線カラーも相模川の水をイメージした色が使われたり。しかし、砂利採集は河川に悪影響を及ぼすとのことで採集禁止となり、今では相模川沿線に暮らす方々の主要な便となっているのです。
↓相模線に関しては、こちらの記事にまとめてありますのでぜひm(_ _)m
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