今回の記事はトンネルに関する記事です!
どこのトンネルかというと、山梨県と埼玉県を結ぶ「雁坂トンネル」というトンネルです。このトンネル。とにかく長いトンネルであり、山梨県側と埼玉県側が長きにわたって貫通することが念願だったトンネルのようです。
そんなトンネルに焦点を当てて、このトンネルがどんな物語を経て誕生したのか?以下でその歴史を辿ってみたいと思います(*’▽’)
本記事のポイント
・埼玉と山梨を結ぶ雁坂峠は、古くから信仰のためや絹を運ぶ道だった
・雁坂トンネルは長さ6,625mのトンネルで、日本一長い国道の山岳トンネル
・トンネル完成後は想定以下の交通量で、なかなか厳しい状況のよう・・
見出し
雁坂トンネルはどこにある?
「雁坂トンネル」と聞いて、皆さんはそのトンネルがどこにあるかわかりますでしょうか?その場所は上の地図の通りで、山梨県三富町と埼玉県秩父市を結んでいるトンネルです。
地図を見てもわかりように、山梨県と埼玉県の県境にある秩父山系を一直線にぶち抜いているわけです。よくこんな場所にトンネルを掘ったな~と感じたことと、長いトンネルを掘った場所って「交通の難所のため山を越えなくてはいけない→グネグネの旧道が誕生→トンネルを一直線にぶち抜いて数分で移動」というコンビネーションを踏んでいることが多く、ココも調べたら面白い話が出てくるだろうと踏んで、調べて記事にまとめようと思った次第っす!!
ってことで、雁坂トンネルを取材するために、まんが喫茶(快活CLUB)で少々仮眠をとった後、夜明け前に雁坂トンネルへ特攻しましたよ!!
なんで夜明け前に特攻したのかというと、今回はトンネルを通るだけではなくて昔の交通の要(かなめ)だった雁坂峠へも3時間近くかけて登山したりと結構色々時間がかかると踏んだためっす。。
ということで、山梨県と埼玉県を結ぶ雁坂峠にはどんな歴史があり、どんな経緯でこの雁坂トンネルが誕生したのか、最後には雁坂トンネルが開通して現状はどうなっているのかまでを一挙に紹介したいと思います!
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雁坂トンネルにはどんな歴史があったのか??
▲雁坂峠から眺められる山梨県側の景色
雁坂トンネルは国道140号線の一部であります。国道140号線は古くは「秩父往還」と言われていました。この道路は、はるか昔の縄文時代から道路として利用されていたそうです。昔の古道は、雁坂峠まで上り下りをする必要があり、雁坂峠からは縄文中期の遺物や中世の人々が山の神々にささげたとみられる古銭類が数多く出土しているそうです。
「雁坂越え」「秩父往還」という名称がついてるように、ここは古くからの街道でした。秩父往還は、山梨県を結んでいることもあって武田信玄ともつながりが深いんですね!
往来が特に活発になったのは戦国時代の武田信玄が活躍したころ。信玄は埼玉県の大滝村栃本に関所を構えて軍事の備えをしたといわれています。その後は徳川幕府の時でも栃本に関所を設けて取り締まったわけですが、ここを通過すると京都まで無事に上がれる重要だ街道だったからとのこと。
古くは信仰の道として使われていた
▲秩父三十四観音札所巡りの掛け軸
さらにはお互いの県へ参拝に訪れるための信仰の道としても使われていました。例えば、秩父には「秩父三十四観音札所巡り」があったりしますよね。
これは、西国三十三観音札所巡り。坂東三十三観音札所巡りと合わせて百観音と呼ばれている札所巡りです。特に江戸時代に巡礼が多かったようで、雁坂峠も札所巡り目的で通った方も多かったんじゃないですかね!!
ちなみに、上の写真の掛け軸は実際に私が巡った際の掛け軸で、家にある宝物です。
▲信仰の山として知られている「金峰山」
さらには、山梨県側でいえば金峰山という奥秩父連峰の名峰がありますわ。日本百名山にも含まれ、山頂には五丈岩という花崗岩の岩塊がある山なのですが、ここに訪れる方も雁坂峠を通っていました。標高2,599mのこの山の信仰は、奈良県吉野の金峰山から蔵王権現を勧請(かんじょう)したことで始まったといわれています。
上の写真は私が学生時代の時に登った際の写真ですが、めちゃくちゃ綺麗な雲海が撮れたもの。しかし、山頂にある五丈岩はどうやってこんなの出来たんでしょうね??
という感じで、埼玉県には秩父34観音札所巡り、さらには三峯神社へ行くための道として、そして山梨県側へは金峰山への登山、日蓮宗総本山である身延山久遠寺(くおんじ)への参拝、さらには長野県にある善光寺参りへ向かうためだったりと、多くの参拝者が通っていたわけですね!
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シルクロードとしての役目も果たした!
さらに、秩父往還は絹の道(シルクロード)としての役目も果たしていました。日本の甲信越地方や東京の八王子、神奈川の相模原辺りは江戸後期から明治・大正にかけて養蚕が盛んにおこなわれていました。
それは埼玉県も当てはまり、秩父地方や山梨県の広域でも養蚕業が行われていました。そして大滝村という雁坂峠付近にある村で生産された生糸は、大正時代までは大滝村の女性が山梨県塩山の繭(まゆ)取引所まで、約三十キロの繭を背負っていったそうです。
そして、繭を取引した帰りには日常物資を背負ったとのこと。おそらくは、繭を取引した際の金銭で日常物資を購入していたんでしょうね。塩山や山梨市で取引された生糸は、八王子に集められ、「絹の道」といわれる道によって町田を経由して横浜港へと運ばれて海外へと輸出されていきました。
しかし当時の女性はすんごいですね。私なんてこの雁坂峠を3時間近くかけて登りましたが、こんな道何度も登るなんて鬼畜の所業ですわ( ;∀;)
まさに現代の便利な世の中で生きている甘えですな・・。
おしゃべりを聞いただけでまさかの国道昇格ww
▲標高2,082mの雁坂峠
雁坂トンネルの開通の始まりは、1953年に二級国道に指定された所からでした。先ほども書いたように、秩父往還は標高2,000mを超す雁坂峠を越えなくてはいけない難所でした。足が達者な昔の人でもさすがに堪(こた)えていたようで、
「箱根八里は馬でも越すが、わたしゃいやだよ雁坂八里」
という言葉が残っていたりするのです。。
日本がモータリゼーションが進んだのは戦後のこと。1950年代後半には、日本の各自動車メーカーが大量生産を始め、1964年には東京オリンピックに合わせて首都高速道路が、1969年には東名高速道路が開通しました。
▲かつての秩父往還である旧道
そんなモータリゼーションの流れを考えて、国道指定された当時の両知事である天野久(山梨県知事)と栗原浩(埼玉県知事)はこの秩父往還を国道指定して、両県の活性化を狙ったのです。そこで、両県知事は建設省に請願したものの、建設省の道路局長はオーケーを出してはくれませんでした。そもそも、雁坂峠は自転車すら通れない道、というか普通の登山道(笑)
「自転車すら通れないこんな道を国道に出来るかよ(怒)」って感じです。
そこで、この国道は政治の力によって国道に指定されたのです。二級国道に指定された時の
秩父往還の国道指定が議題に上がった建設常任委員会で、荒船代議士が何食わぬ顔で荻野代議士に尋ねました。
荒船:「荻野君、きみは先日、僕の家に来ていっしょに飯を食ったが、あれからちゃんと帰ったのか?」
荻野:「はい、ちゃんとジープで帰りました!」
このやりとりを聞いていた他の建設常任委員は「地元の二人の委員が車で通ったと言っているのだから間違いない」ということで、秩父往還は国道140号線に昇格したとのこと。マンガみたいな話ですが、資料にそう書いているのでこんな感じで決まったようです。。
その後、道路法の改正によって1965年に一級・二級区分が廃止されて一般国道に指定。その後、建設促進期成同盟会が発足。何度も総会が行われ、農林各省と道路公団に陳情するなどを経てトンネル工事が承認されました。
続きはこちら!「便所国道」の真実に迫る!
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