今回は、山口県萩市にある元遊廓旅館の「芳和荘(ほうわそう)」になります。ここは元遊廓旅館としてかなり有名な旅館であり、この旅館に泊まりに行くために萩市に行った方も多いんじゃないかと思われるほど(*’▽’)
そんな芳和荘にずっと行きたかった私ですが、2019年4月に一か月の休みを使って九州・山口取材旅に出たときに宿泊して取材してきましたよん!
ということで、萩の弘法寺遊廓跡に現存する芳和荘の歴史に迫ってみることにしましょう~~!
見出し
日本に現存する数少ない元遊廓旅館
明治維新胎動の街として知られる山口県萩市。前回の弘法寺遊廓の記事でも触れましたが、ここは幕末に吉田松陰など明治維新で活躍した方々を数多く輩出した場所。
↓前回の弘法寺遊郭の記事はこちらですm(_ _)m
上の写真の萩・明倫学舎だけでなく、松陰神社の境内にある松下村塾、萩反射炉、大板山たたら製鉄遺跡などなど明治維新に関わる多くの観光スポットがある場所なんですな!
そんな萩市には弘法寺遊郭という遊郭があり、その跡地には元遊廓旅館である「芳和荘」があるんですな。今まで私は知の冒険を進めるにあたり、全国にあるいくつかの元遊廓旅館に行ってきましたわ。全てご主人に超ロングインタビューして背景など色々掘り下げてきましたな~。
ちなみに、厳密にいうと一楽旅館は元遊廓旅館ではなく赤線時代の元特殊飲食店なんですけどね!
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そんで今回の芳和荘も来たかったもののなかなか都合がつかず、2019年4月にようやく念願かなっての訪問となりました。いや〜こりゃ凄いたたずまいですわ。。築100年ほど、大正時代からいろんな歴史を経て今でもこうやって建物が現存しているのは凄いことや。
ということで、早速館内に入ってみることに!
まずは受付を済ませ周囲を徘徊
うお〜〜〜。
これが芳和荘か!念願かなってようやく来れたことに感激ですわ。よくぞ今の時代にまだ存続してくれましたわ。
館内に入ると、受付でこんなものが目に飛び込んできました(笑)
呼板??
どうやら、備え付けられている棒でこの板をぶっ叩くとご主人が気付くという、なかなか斬新なスタイル(*´▽`*)
棒で実際に板を叩くと、早速ご主人が現れ受付を済ますことに。ご主人さん、とても笑顔あふれる気さくな方。終始フレンドリーに対応してくださいましたぜ!!
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受付を済ませた後は早速部屋に入り荷物などを運ぶことに。中庭が大変見栄えする光景ではあるんですが、とにかくご主人さんからいろいろ話を聞くというのが大きなミッションなわけです!!
んで、まだ夕方前ということもあり、今がご主人さんもそんなに忙しくない時間帯だろうと思い、取材をするため再度速攻で受付へと戻ることに!!
元遊廓旅館経営の厳しさを聞いた!
受付へ行き、再びご主人さんを訪問。
私がブログをやっていることや、芳和荘を宿泊しにきた背景などを話すとご主人さんは快く取材に応じてくれました。本日は平日ということもあり、一時間ばかりお時間をいただいて芳和荘の歴史を聞いてきました〜(*’▽’)
昭和38年の山口国体がキッカケ!
そもそも、この芳和荘はいつから今のような旅館になったのか?
ただし、今の御主人も赤線廃止から現在までの詳しい背景は不明とのこと。。
ご主人:「この建物はですね、今の旅館になる前は萩信用金庫(現在は合併して萩山口信仰金庫になっている)の預かりになっていたんですよ。そこから私の母方の祖父がここを買い取ったらしいんですね。」
私:「それ以前の経緯は不明なんですか?」
ご主人:「そうね、登記簿がどっか行っちゃてね。ちゃんと調べようと思ったら法務局まで行かなきゃいけないわ(笑)」
ご主人:「でね、私が聞いた話ではここは祖父が1963(昭和38)年の山口国体(国民体育大会)に合わせてここを買い取って旅館を開いたようです。その時は、芳和荘ではなく萩旅館という名前だったとか。」
ご主人は男三人兄弟の末っ子。最初は母方の祖父から、ご主人の長男さんがここを引き継いでおり、そのときご主人は東京の方で板前の修業に出ていたという。
ところが、三年後に戻ってきたときにはそこからまた東京の方に出ることができず、そのまま長男から引き継ぐことになったという。
ご主人:「山口国体の翌年の10月10日に自分たちが山口に来ましてね、その時はここは下宿先として使われていたみたいです。なので、私は遊郭からやっていた方々の直系ではないんですね!」
なるほどね〜、簡単にではありますが、現在までにはこうした背景があったようです。
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元遊廓旅館経営の苦労
芳和荘の歴史に迫ったところで、話の話題は今のご主人の苦労している点に移っていきました。
今の御主人の悩みとしては、「朝食がいつまで出せるか」という点らしいんですね。だいぶ素泊まりが増えてはきたようですが、朝食を作るのが結構な負担になっているという。
ご主人:「この旅館を全て一人で切り盛りしていますからね。なので睡眠時間が取れないんですよ。忙しい時には三時間しか寝られないこともありましてね。」
私:「実際、芳和荘はまだ営業は続けられる感じでしょうか?」
ご主人:「ん〜余力を持って辞めたいなとは思ってます。体力面などでギリギリまで続けていると辞めるタイミングというか判断を見逃すのでね。でも正直いまでも結構きついんですけどね(笑)」
その他にも、築100年という古い建物ということもあり、雨漏りもたまにするとか。そうすると、業者に頼んでも速攻では対応できないため全部自分で直すんだそうです。
最近では、風呂場の排水管を直したばかりということで風呂場へと案内してくれました!
風呂場に入ると、妙にこの景色にマッチしないようにむき出しの水道管が壁に張り付いておりましたわ。ただこれ、さすがにご主人が自分で直すわけにはいかなかったようで、業者に早急に直してもらったとのこと。
というのも、私が訪問したのは2019年4月。来月のゴールデンウィークは平成から令和へと元号が変わるタイミングと重なったこともあり、空前絶後の10連休が待ち構えていたわけです!
なので、風呂場の排水管が故障したままGWのピーク時を迎えるわけにはいかないということで、ここは今のうちに業者の方に対応していただいたそうです。昔ながらのお風呂場にこのような水道管は不釣り合いには見えますけど、こりゃ仕方ないですわ!
遊廓の建物を壊せと圧力があった
萩の弘法寺遊郭の跡地には、芳和荘以外の建物は一切残っていない現在。赤線廃止から70年近く経っているということもあり、芳和荘が旅館として残っていること自体が奇跡なわけですが、この遊廓跡にはかつてこんな時期があったそうです。
ご主人:「ある時期にね、 昭和50年頃ですかね〜、 遊廓街の建物は全部崩せって言われたときがありましてね。『あんな遊廓のボロい建物なんて壊すべきだ』って感じでね・・」
私:「そんな時代があったんですか!」
ご主人:「それでその当時ころですかね、萩駅の方で一人の女の子が今晩芳和荘に宿泊する話をした時に『あんな所、何されるかわからんぞ。あそこは昔は女郎屋だったんだから。もっと他にいい旅館があるからそっちに泊まりなさい!』なんて言われたみたいですよ。でもその女性はそう言われてもうちに泊まりに来ましたけどね。」
私:「まだ遊廓や赤線の頃のイメージが残っていた頃なんですね。。」
ご主人:「その時期にはね、玄関に絵馬があったんですよ。でもうちの父がそういう遊郭だとわかるようなものは全部処分しちゃいましたね。」
こういう話は別の遊廓跡でも聞いたことがありますが、ここでもそんな話があったんですね。場所によっては、遊廓だったという過去の歴史が今でも尾を引いているとのことで、「元遊廓」ということを一切公表せずに営業されている旅館もあるくらいですから。。
ご主人さん、ずっと笑顔で話し続けてくれましたが、ここまで来るのに凄く苦労されてきたんだろうな。。
手前の小料理屋は張見世だった
続いては、芳和荘のすぐ目の前にある「小料理屋 芳和」というちっこい建物について。こちらも気になったので聞いてみることにしました!
私:「手前にある小料理屋ってのはどんな建物だったんですか?」
ご主人:「ここはね、元々は格子があって張見世(はりみせ)のための建物(ここで働く女性が並んでいて、それを見てお客が女性を選ぶってやつ)だったんですよ。で、その後にそこは調理場にしてるのね。まだ私が若かった頃はあの建物で料理教室をやったりもしましたよ!」
カメラを中に突っ込んでみると、こんな景色が広がっていました。今はもう使われていないのかな?
という感じでこのページでは芳和荘の背景に関してを紹介しましたが、次のページでは館内の様子などを紹介したいと思います(*’▽’)