1995年に発生した地下鉄サリン事件。阪神淡路大震災という衝撃の自然災害が日本を襲ったその間近におこったこの事件は、当時日本に大きな衝撃を与えたと思います。事件前までは、オウムの拠点であるサティアンは山梨県の上九一色村など数か所に建設されていたわけですが、熊本県の波野村(なみのそん)という場所にもあったわけです。波野村は世界最大のカルデラがある阿蘇山の東側に位置している村で人口は数千人の閑静な街。ここに何人ものオウム真理教の方が押し寄せてきたのです。
今回の記事では、そんな波野村のサティアンがあったことに関して「跡地の詳細な場所はどこなのか?」「今現在跡地はどうなっているのか?」「跡地に残された碑に書かれている会社への取材」「現地の方の声」を発信していきたいと思います!
↓本記事は以下の記事の続編って感じです
本記事のポイント
・熊本県波野村の奥地には、オウム真理教のサティアンがあった
・サティアン跡地は、巨大な門に覆われていて跡地を示す碑も置いてある
・波野村が9億円もの大金を払い、オウムを村から追い出した
見出し
サティアンはどこにあったのか?
「波野村のサティアンはどこにあった」ってのがまずキニナルわけですが、地図でいうと上図の場所にありました。阿蘇山の東側にある場所です。これだとちょっとわかりづらいので、もう少し拡大してみましょー!
ただ、この辺は緑が広がるだけの場所のため地図だけでは非常に説明しにくい。。GoogleMapでは「阿蘇望橋」が目印で、そこから南東側にある開けた場所がオウムのサティアン跡になるようです。
▲具体的なサティアンの位置
阿蘇望橋を通る南北にのびる道路から、砂利道に入る道があるのでそこを入っていくとサティアン跡地にたどり着きます!ただ、以下で述べますが2017年10月時点ではかなり荒れた砂利道になっているため、車では行かずに歩いて向かうことにしました。虫が出たりしたら嫌ですけどしょーがない( ;∀;)
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実際に行ってみた
知の冒険のブログの方でも記載していますが、砂利道の様子をここで記載しようと思います。ここから歩くと、15分くらいでサティアン跡地につきます。ただ、道は荒れているので、結構歩きづらいですけどね。。ちなみに、私はここをサンダルで歩いたという馬鹿さ(笑)
オウムの拠点があった痕跡が現れる
ひたすら木しかない砂利道をまっすぐ進んでいきましたが、ここでようやく拠点の跡らしき人工物が現れます。まずは青いトタン屋根など、何かの建物があった痕跡。何かはわかりませんが。。
そして、この碑である。白く塗られたこの棒は以前は建てられていたと思われますが、もう朽ちてしまったからでしょうか、誰かによって横向きにして置かれていました。
そして、ここに書かれているのが「オウム真・・」の文字。朽ちてはがれてしまい何が書かれているかわかりませんがオウム真理教の跡地という旨が書かれていたかと思います。
そして跡地の方向ですが今まで直進していましたものの、ここで右折して進んでいくとこの先に拠点後だった場所にたどり着くのです。
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雑草によって荒れ果てた入り口
まだまだ草木が生い茂っている場所を進んでいきます。この時点では、まだどこまで行けば入り口にたどり着くのかわからないという状態。。まだか?
再度道が開けた。まだかな~~~しかしなんか不気味だ。何の背景もない道ではなく、かつて色々あった場所ということで何か突然人が出てきそうみたいな恐怖心を勝手に感じている私。。
▲門で塞がれたサティアンの入り口
そして、着いた!ココだ、ココがサティアンがあった場所の入り口。まだ、ここは相変わらず柵で封じられていました。奥は雑草がめちゃくちゃ生い茂っている状態で侵入者をさらに拒んでいるようだ。ネットでさらっと確認しただけだと、綺麗に門は閉じられていたものの、今現在は微妙に崩れているのが何か気になる。しかし、しっかりと鍵はかけられていました。
入り口にはセイタカアワダチソウがのびのびと生い茂っている。1996年に村を去ってからはもうずっとこのままの状態なのか?そして、この跡地はずっとこのまま放置されていくのか?
周囲を見渡す、一瞬白いヘルメットかと思いましたが何か?日が暮れる寸前で余裕がなく、漁ることはなくここはスルー。
そして右側にはこのような碑が。一体誰が建てたのか、先ほどと同様に「オウム真理教」の文字がはっきり刻まれています。登って近づいてみよう。
▲厳かな雰囲気を醸し出す碑
入り口側でなく、跡地の方向を向いて建っているこの碑。訪れる我々に向けられておらず、訪問者を歓迎していないかのようだ。この地に見られる痕跡は、先ほどの白い碑とこれだけ。20年以上経った今ではその歴史も風化され、いずれその過去は葬り去られていくのだろうか。。
9億2,000万円を支払いオウムを追い出した!
オウムがいた当時の事を少しでも聞けないかと思い、数人の周辺の方に話を聞きました。オウム真理教がこの街を訪れる前、この街は実にのどかな村だったという。住民は、皆鍵をかけることなく生活し波野村の住人は数千人であり、緑が広がる自然豊かな村。しかし、1990年5月に急遽波野村の上記で紹介した場所でサティアンの建設工事が開始されました。
住民との衝突も度々あり、オウムに入信した子供に会うべくサティアンの入り口まで来て子供を返すよう懇願する親も。そんな状態だったため、村の住人は恐怖におびえ、家に鍵をかけるようになったり、「宗教勧誘お断り」というステッカーを貼るようになったり。また、村では山梨ナンバーの車も通るようになり、山梨ナンバーには気を付けるようにしていたという。
村の議員にでもなって村が乗っ取られるのではないかという不安もあったと、阿蘇神社にいる方は話しており、今現在阿蘇市になっているのもそれが背景ではないかという話もあるようです。今の波野村は、隣の2つの一の宮町、阿蘇町が合併して2005年2月11日に阿蘇市になっています。しかし、波野村の隣にあった産山村は合併せずに残っていますが、これは村側が合併を拒否したとのこと。しかし、波野村は以前にオウムが来たという背景があり村での存続よりかは合併した方が安心だから合併したということを地元の方から聞きました。
まぁ最終的には、村が9億2,000万円を支払いもう何としてでもオウムを追い出そうということで追い出したらしい。。
碑に書かれていた竣工者に電話取材した
そして、最後に気になっていた点ですが、先ほどの写真に登場した白い碑。この碑の下側には竣工者名が記載されているのです。写真では、草木に隠れて見づらいかもですが、書かれていた文字は「後藤造林」という文字。
今、その会社があるかとGoogle検索したところ、阿蘇に「有限会社 後藤造林」という会社があることが判明。何かしらここの物語が聞けるかと電話取材をしてみることに!!
・・プルルルッ・・プルルルッ・・プル・・ガチャ!
後藤造林:「はい!」
私:「すみません、~~ということで話が聞ければと思い電話をさせていただきました」
後藤造林:「あ~あれですね。」
後藤造林:「あそこは、うちの土地の林だったんですよ。建物を壊すときに、大きな車が通れる道がなかったのでうちの土地を売ってあそこに道を作ったからうちの名前がある感じです」
回答としては、以上の事でした。ということなので、後藤造林さんはここにオウムがあったことで色々関わったというよりかは、ただ単に跡地の隣が後藤造林さんの林だったというだけ。丁寧に答えてくれて大変ありがとうございました!!
おわりに
以上が、波野村のオウム拠点調査結果でした。もっと時間をかけて現地の方に話を聞くと当時の事を聞けるかとは思いますが、跡地を訪れる限りで出来ることはこのくらいでした!
一方、こちらはオウム真理教で有名になった山梨県の旧上九一色村。こちらも村の名前も市町村合併により住所は変わっています。ここにも碑が建っており、ここに刻まれている文字は「慰霊碑」。
そして、2018年07月06日に、ついに麻原彰晃の死刑が執行されました。これでオウム事件に終止符が打たれたのか。ただ、まだ遺族の方の傷は癒えないでしょうし、後継団体のアレフも存在しているので完全にとはいかないでしょうが・・。
参考文献
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詳細・地図
住所 | 熊本県阿蘇市 |
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リンク | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E9%87%8E%E6%9D%91_(%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C) |