八王子と横浜を結ぶ日本版シルクロードの「絹の道」を徹底調査!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今回は「絹の道(シルクロード)」という道に関するお話になります。シルクロードというと、ユーラシア大陸を横断する長〜い道のことを思い浮かべるかと思いますが、日本にもシルクロードと言われる道が存在するわけです。んで、その道は八王子から横浜までを結ぶ道でして、その道を通して絹が運ばれていました!
ということで、その絹の道に関して色々と歴史などを織り交ぜて紹介していきます!
本記事のポイント

・絹の道は、八王子から横浜を結ぶ道であり、横浜港に運ぶために絹が運ばれた
・八王子は生糸の集積地であり、鑓水という場所に商人が誕生するなどして絹の街と言われることに
・最後には、横浜線の鉄道輸送によって絹の道は廃れた。。

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八王子は絹の街として栄えた

八王子というと東京の西部を代表する場所ですが、この街はどのようにして栄えたか?
元々は、甲州街道の宿場町として誕生した八王子。その後は、幕末の開港によって絹が日本の主要な輸出品目になったことが大きく関係しているのです。
元々、幕末前の八王子では四と八の日に市があり、生糸を中心に商品の取引が行われていました。今でも八日町の地名が残りますが、それはそんな事情があったから。
▲1859年の開港から栄えた横浜の街
その後、1859年に横浜が開港。多くの外国人が横浜に居住するだけでなく、多くの西洋の文化がなだれ込み、ガス灯が灯ったり、キリスト教が入ってきたり、そんなことで横浜には多くの発祥の碑が建っていたりもします!
そして、日本にある格安な生糸を求めて多くの外国船が横浜港へ殺到。そして、各地の生糸の集積地であった八王子から横浜までを結ぶ道が、絹の道として賑わうようになったのです。

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生糸が盛んであったことから「織物の店」も多い

▲ユーミンの実家である「荒井呉服店」
そんなことから、八王子には織物・着物の店も多くあったようです。今現在も八王子駅前にはいくつかの呉服屋さんがありますが、国民的歌手である松任谷由実ことユーミンの実家も八王子駅から数分の場所にあります。旧姓は「荒井」ですからね!!
▲名曲「雨のステイション」の舞台である西立川駅
ユーミンの歌には、夫である松任谷正隆さんに実家の八王子まで車で送ってもらった際の光景を歌にした「中央フリーウェイ」、軍事道路と言われた国道16号線をテーマにした「悲しみのルート16」、JR青梅線の西立川駅を舞台にした「雨のステイション」など、八王子周辺を舞台にした歌をいくつか歌われているのですね!!
「雨のステイション」に関しては以前に記事にまとめましたので、以下をご参照してみてください( ´ ▽ ` )ノ

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絹の道が誕生した経緯

※「今昔マップ on the web」を元に作成
そもそも、絹の道はどのような経緯で誕生したのか?
元々は八王子に宿場町ができた時は、八王子からは江戸へと運ばれていたのです。八王子に集められたり、八王子で作られた生糸は幕府と取引するのが常だったわけです。そう、横浜が開港するまでは!!
そして1859年に横浜港が開港します。そして、外国船は日本の安価な生糸を欲しがり日本の生糸が主要な輸出品目になっていくのです。そうすると、八王子に運ばれた生糸も横浜港へと運ばれることになるのです。
※「今昔マップ on the web」を元に作成
そして、横浜まで運ばれるルートは「江戸を経由するよりも直で横浜まで運べばよくね??」となるわけです。そこで、八王子の遣水の商人たちがそこに目をつけて、生糸を八王子から町田を通って横浜へ運ぶルートで絹を運ぶようになったのです。つまり、絹の道はいわば裏街道的な存在で幕府の目をかいくぐって通られたルートなのですね。
▲相模川も絹を運ぶルートとして使われた説も
ただし、絹の道は多くが町田経由で運ばれていたというだけで実はそのほかにも様々なルートを使って運ばれていたようです。その他には、相模川の水運を使ったというルート。相模川を船で降って厚木方面へと進み、その後陸に引き上げて生糸を運ぶという方法。まぁそんな感じで色々な人が考えて色々なルートで運んでいたようですよ!

絹の道へと向かう!

▲絹の道の碑の最寄駅である「八王子みなみ野駅」
今回のネタである絹の道。もちろん実際にその道に向かったわけですが、そこはあまりアクセスがいい場所ではないんですね。実際に地図で見るとその行きにくさがわかると思いますが、周辺に駅はあるものの、どの駅からも微妙に遠いという。。。
ということで、仕方ないので一番最寄駅だと思ったJR横浜線の八王子みなみ野駅から歩いて行くことに。
実際に絹の道まで歩いたルートはこちら。そんなに複雑なルートでないにもかかわらず当日はちょっと道を間違えながらで何気に時間がかかってしまったというね。。
そして取材当日はまさかの雨。知の冒険で取材をする際は、カバンにカメラやら資料やらを詰めるだけでなく片手にノートPC(MacBook Air)を持っているので荷物は結構な量なわけです。
ただ、雨の日は傘を差さなけれないけないので両手がふさがるんですよね。。ってことで雨の日は取材しにくいんですが、車があればいいんですがね。。金ないんでしょうがないってことで( ;∀;)
しばらくすると住宅街に突入してきます。取材した時期は夏ということもあり、朝早い時間であるものの、なかなかの気温。体中が汗だくになってきて、さらに辛さが増す。。知の冒険は体力と気力の戦いなのです!
住宅街を歩いて行くと、ここで階段が見えてきました。ここを上ると絹の道の碑がある大塚山公園へとたどり着くわけです。何分歩いたか忘れましたが30分くらい歩いたか?
そして、ようやく絹の道に到着。この鑓水峠付近が絹の道の端となっており、ここから横浜にある吉田橋まで鑓水の商人たちが絹を運んだ道が「絹の道」と言われていました。この道は、いわゆる正式名称ではなく多くの人が絹を運んでいたためそう言われていたという道です。
まだ早朝ということと、雨が降っているということもあってか誰もいなく私の独占状態でした(笑)

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大塚山公園に建つ「絹の道」の碑

▲絹の道があったことを示す「絹の道の碑」
こちらは、元々あった絹の道を示す象徴である「絹の道の碑」です。1957年に橋本義夫さんという方が建てた碑なんだそうです。まさに絹の道がここにあったことを示すシンボル的な存在となっているようです!

大塚山公園にかつてあった「道了堂」

▲消失したため、跡しか残っていない「道了堂跡」
絹の道の碑の横にある階段を上っていくと、その奥にはかつて道了堂があった跡が垣間見えます。この道了堂は、1875年に浅草花川戸にあった道了大薩埵(どうりょうだいさった)を勧進して創建しました。鑓水商人であった八木下要右衛門や大塚徳左衛門らの尽力があってこの道了堂は出来たようです。
このお堂は、当時栄えた鑓水の富の象徴として建てられたようですが、残念ながら焼けてしまって今では跡だけが残っている状態になっています。
続きはこちら!絹の道に秘められた多くの歴史を掘り起こした!
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