日本の近代化を支えた生糸の物語とは!?

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今回は生糸にまつわるお話です!

というのも、次の記事として横浜にあるシルク博物館の記事を書こうと思ったんですが、その前に「なんで横浜にシルク博物館があるのか?」「江戸末期から昭和まで日本を支えた生糸産業とは?」みたいなことをまとめておきたいな〜と思いまして!

ということで、今回は江戸末期から長きにわたり外貨獲得に貢献した生糸産業にまつわるお話を以下でまとめてみたいと思います〜( ̄▽ ̄)

本記事のポイント

・江戸末期から昭和まで、日本では生糸の輸出が盛んだった
・開港後、横浜には生糸商人や外国人商人が集まった
・絹の道、横浜線、生糸関係の博物館など、生糸の名残りは多数ある

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幸運だった輸出環境

生糸の原料となる繭

江戸末期から外貨獲得に貢献していたのが”生糸”だったんですが、それはいろんな偶然が重なっていたようなんです。

清で発生した太平天国の乱
引用元: https://bushoojapan.com/world/china/2016/01/11/67922

というのも、開港した当時は日本の生糸輸出環境は非常に恵まれていました。当時の蚕糸業の先進国はフランスとイタリアでしたが、そこでは微粒子病という蚕の病気が大流行して繭の生産量が減少していました。最盛期に比べると7割減。さらに、当時生糸の大輸出国だったのは清(今の中国)でしたが、イギリスとのアヘン戦争における敗北や太平天国の乱という一種の新興宗教の宗徒による反乱があったことで混乱し、輸出力が弱っていたのです。

そのため、横浜が1859年に開港して諸外国との交易が始まってから1933(昭和8)年に至るまでの75年間、生糸は一貫して日本の輸出品のトップの座にありました。これほどの長期にわたって輸出品トップの地位を保持し続けた産品は他にはなく、しかもそのシェアは30~40%と、極めて大きなシェアだったんですね!

では当時、生糸はどんな感じで取引されていたのか?

それは、開港によって集まった外国人商人たちとの間で交わされた居留地貿易だったのです!

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居留地貿易によって取引された

外国人居留地の商人たち

生糸を大量に外国へと輸出していたわけですが、取引の場所は通商条約により開港したところに設けられた「外国人居留地」にある外国商館でした。どこでも取引できたわけではなかったんですね。

まだ開港して間もない頃は、日本人からすると外国人は未知なる存在だったこともあり、トラブルなどを避けるために遊歩区域を定めで行動範囲を制限していました。そして行動範囲を遊歩区域で定め、居留地としては横浜の場合は山下町一帯が指定されていました。そのため、外国人に生糸を売りつけるための商人が横浜に集まったわけです。

この商人たちは、全国から生糸を買い集めて、それを居留地にいる外国人に売る問屋業をしていたことから”売込問屋”と言われていました。このような外国人居留地で行われていた取引を「居留地貿易」と言い、生糸はこんな感じで取引されていたわけです。

原三渓によって誕生した三渓園

生糸の売込問屋をするために周辺地域から横浜に集まった商人はたくさんいましたが、その代表格と言える人物は原善三郎(はら・ぜんざぶろう)でしょうな~。埼玉県児玉市に生まれた彼は、横浜で生糸の売り込み問屋をするために移り住み、『亀屋』という売込問屋を開きます。

その家業は婿入りした原三渓(本名:原富太郎)が継ぐことになるわけですが、彼は三渓園を造ったり、関東大震災が発生した際には横浜の復興に貢献したりと今でも名が残るお方。生糸がキッカケで横浜に携わることになった中では一番有名なのはこの方ですかね。

その他には中居屋重兵衛や野沢屋(横浜松坂屋)の元を設立した茂木惣兵衛も生糸がキッカケで横浜に集まった方々でした。

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一番地に建てられた英一番館

日本人の生糸商人に軽く触れたところで、外国人商人に関しても触れておきましょう!

開港後の横浜

1859年に開港した翌年、山下町一帯にあった外国人居留地は港の方から順番に番号(いわゆる番地)が振られました。んで、その一番地の場所をジャーディン・マセソンというイギリスの貿易会社が支社を開設し、その商館は英一番館と呼ばれることになります。上の赤丸で示した場所ですね!

この商館は今でも語り継がれる結構有名なもので、ジャーディン・マセソンの創業者であるウィリアム・ケズウィックが日本の生糸の品質の高さに目をつけて1871(明治4)年に開設した建物でした。この商館は今の鹿島建設創業者である鹿島岩吉によって建てられ、日本に進出した初の外資系企業だったとか。

ところがこの建物、今の横浜スタジアムの場所にあった港崎遊郭を焼けつくした豚屋火事によって焼けてしまい、再建されるも1923(大正12)年に発生した関東大震災によってこれまた焼失。。

跡地には碑が建てられていますよん♪

その後、この跡地には横浜開港百周年を記念して1959(昭和34)年にシルク博物館が建てられることになります。今でも、この場所には「英一番館の跡」の碑が建っており、その背後に生い茂っている桑の木は、相模原方面の津久井郡から開港時に移植されたものなんですね~。

開港から実に160年が経過した今でも、この場所では生糸の歴史が残されているんですな~。

日本にあったシルクロード

続いては、関東甲信越地方で生産された生糸が横浜にどう運ばれたかというお話。

輸出環境は良く、生糸の値段も国内の二倍以上で売れましたが、これにより国内で生糸を使う織物業者や国内の絹織物の消費者は困りました。そのため、幕府は外国に売るために横浜に糸が集まってしまうと国内に生糸が流通しないことから生糸などの五品目は、江戸を通った物しか輸出してはいけないという「五品江戸廻送令」という命令を出し、産地から横浜へと直売することを禁止したのです。

絹の道のルート

しかし、外国には高く売れるということでその五品江戸廻送令を̪シカトする方が続出し、それらの生糸は八王子から横浜までを結ぶ絹の道によって運ばれていました。

この道は「絹の道」と言われ、出発点は八王子市にある鑓水(やりみず)という場所。ここで甲信越地方から生糸を買い集めた鑓水商人たちが裁いたことで、ここの商人たちはかなり儲けたようです。

基本的に外国人は遊歩区域外から出られなかったですが、八王子の方までは遊歩区域内ということもあり、外国人商人も鑓水まで生糸を買い求めに来たとか!

絹の道の出発点の場所には今でも碑が建っており、かつての古道の様子をうかがうことができます。

さらには、この碑からすぐ下った場所には「絹の道資料館」もあり、ここでも絹に関して、主に鑓水の商人に関する物語などを学べる博物館もあったりしますよん。

町田にある「絹乃道」の碑

ちなみに、この絹の道によって発展したのが町田です。今ではJR横浜線と小田急線が通る場所で栄えている町田(当時は原町田)ですが、ここは八王子と横浜の中間くらいの位置だったこともあり中継地点として発展しました。今でも、小田急線の町田駅近くには「絹乃道」と書かれた碑がひっそりと建っているんですよね!

↓この「絹の道」に関しては、以前にブログでまとめているのでよければこちらも見ていただければありがたいです~!

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富岡製糸場の意義とは!?

そして国内だけでなく外国に売れまくるということで生糸の生産が爆発的に増えたのですが、ここで政府が頭を悩ます問題が浮上しました。

繭から生糸を巻き取る座繰り器
(写真左)

生糸は儲かるということで、「俺も、俺も!」と、農家の副業として蚕を飼う方が続出。当初は座繰り(ざぐり)という方法で繭から一本の生糸を巻き取っていましたが、それによる粗悪品が出回っていたのです。いろんな人が作るので製品である糸の品質にばらつきが出ちゃっていたんですね。。

そこで、1873(明治6)年には「製紙製造取締規則」を制定して生糸の荷ごとに印紙を張り付けて、その印紙に製造者の住所氏名を書かせることを義務付けて粗悪品の一掃を図ったのです。

世界遺産の富岡製糸場

そして品質向上策の切り札として登場したのが官営模範工場である富岡製糸場の設立でした。人手に頼っていた日本に、フランスの技術を取り入れたこの工場。

なぜ群馬県富岡市という場所にできたのかというと、以下の四つの点が考えられるとのことです!

富岡に官営模範工場が出来た理由
  1. 富岡や周辺地域が古くからの養蚕地域で原料繭の確保が出来た
  2. 動力源である石炭が近くの高崎から調達できた
  3. 近くを流れる鏑川から多量の水が確保できた
  4. 広い敷地が確保できた

明治5年竣工の東繭倉庫

この工場には明治の大企業家であり、2024年には一万円札にもなる渋沢栄一も大いに寄与しています。彼はこの工場の重要さを認識していたんですね。

そしてこの工場の目的としては、繭から糸にする作業を機械化して大量生産するということもあるっちゃあるんですが、主な目的なのは”模範工場”って点なんですわ!!

座繰り製法では、農家によって品種や座繰りのやり方などが違い品質にばらつきがあったわけなんです。んで、ヨーロッパから最新機器や技術を取り入れて模範工場とし、その技術を日本各地に普及させていこうという目的があって誕生したんですね~。

『富岡日記』を書いた和田英

そして富岡製糸場で操糸技術を学んだ工女は、全国各地の製糸工場で操糸技術の先生となり技術を広めていきました。その例として有名なのが、実際に富岡製糸場での工女としての思い出を綴った『富岡日記』の著者でもある和田英(わだ・えい)さん。

彼女は富岡製糸場で一年三か月の修練期間を経て故郷の長野県松代に帰ってからは、隣町にできた西条製糸場で操糸技術の指導者として活躍しました。このような指導者となった女性は多数存在し、富岡製糸場が日本の製糸技術の発展と普及に果たした役割は非常の大きいものがあったんですね!

富岡製糸場はまだまだ書きたい内容も多いので、また今度、富岡製糸場に焦点を当てた記事を書こうと思ってます~。

大量の生糸が横浜港から運ばれた

以上のような流れで、大量に作られた生糸が横浜に運ばれ、取引された製品は横浜港から外国へと出荷されていきました。生糸の積出港として、日本一のシェアを誇っていたのが横浜港だったんですね。

一旦は1923(大正12)年に発生した関東大震災で横浜港は壊滅的なダメージを受け、その代わりを神戸港が果たしたそうですが、それでも横浜復興後は再び横浜港がメインの積出港になりました。

生糸の運搬も行っていた氷川丸

ちなみに、山下公園に停泊していて、今では博物館として内部が公開されている氷川丸も生糸の運搬の役割を担っていたんですよ!

検査所の跡地に建つ横浜第二合同庁舎

あとは横浜生糸検査所ですかね。現在の横浜第二合同庁舎がある場所には、かつて「横浜生糸検査所」がありました。もともとは本町通りにありましたが、1923(大正12)年の関東大震災により被害を受けたためこの場所に二代目の建物が建てられることになりました。

「キーケン」という愛称で親しまれていたそうで、この庁舎は検査所と同じ原寸大。

伝統の横濱スカーフ
引用元:https://www.kanagawa-kankou.or.jp/eat/kougei/16.html

あと、横浜には「横濱スカーフ」というブランドがありまして。横浜で生糸を輸出していたことから誕生したようなんですが、今でも高級ブランドとして関内辺りのお店で購入することが出来るようです。

まだまだ横浜には生糸関連の名残があると思いますが、私が知ってるのはこのくらいですかね~。今後も探していこうかな。

と言う感じで、横浜港から大量に出荷されていた繭は農家の現金収入源として貴重なものでした。そのため。蚕は「お蚕さん」とも呼ばれており、それは今の時代でも使われている言葉なんです。東京の西側にある檜原村や神奈川の相模原、山梨などに取材に行ったときも、現地の方と話すときにはよく「お蚕さん」という言葉が飛び交っていましたからね!

しかし、そんなイケイケだった蚕糸業界にも戦後の好景気によって後退の時代がやってくるのです。

生糸産業の衰退

戦後の高度経済成長が始まり、日本人の所得が増大して着物需要が大幅に増加。そこで、生糸産業は外需だけでなく内需までもが増大することになります。

しかし、生糸の輸出は1974年が最後となり、生糸産業は衰退の一途をたどってしまったのです。。その一番の要因は外国との価格差なんすね。国産の生糸よりも外国産の方が安くなってしまったため、国外だけでなく国内の織物業者も安く手に入る外国産を使うようになったのです。

「運の虫」とも言われたカイコ

というのも、生糸産業ってのはとにかく人件費がかかるんですね。蚕って昔は「運の虫」とも言われ、気温に敏感で育てるのが非常に難しい生き物なんです。

清涼育が編み出された田島弥平旧宅

そこで、群馬県にある田島弥平旧宅では、難しいカイコをどうにかして毎年安定して育てられるように試行錯誤して「清涼育」という方法を確立。その他の場所では、同じ群馬県にある高山社で清温育という方法が考案されることに。この二箇所は、その功績が認められ世界遺産にもなった場所ですね!

富岡製糸場では繭から糸にする工程を機械化していましたが、カイコから繭を作る工程はそうはいきませんでした。気温に敏感なカイコを育てるのには人の手でやるしかなく、この工程はとにかく人件費がかかるんです。そのため、高度経済成長によって賃金が上昇した日本では、中国やブラジルなど人件費が安い国には値段の面で勝てなくなってしまったんですね。。

以上のように、明治時代の激動の時代に日本の殖産興業の支え、「生糸が軍艦に変わる」とまで言われていた生糸は以上のような運命をたどってきたわけです。そして、そんな生糸産業の名残というか片鱗は今の時代でも残っていたりするんですな~。

今も残る生糸産業の名残り

生糸の運搬が目的だった横浜線

まず挙げられるのは、JR横浜線ですかね。

横浜線は、1904(明治37)年に原善三郎が設立した横浜鉄道によって八王子-東神奈川間に敷かれ、1908(明治41)年9月23日に開業しました。

この八王子と横浜というのは、絹の道に沿ったルートでもあり。繊維産業が活発だったために生糸を横浜へ輸送する目的で作られた路線でした。今後は2027(令和9)年に橋本にリニア中央新幹線の駅が出来るということで、利用者は増加するのかな?

生糸関係の博物館

あとは博物館関連ですかね~。神奈川県の西部に行けば、相模原の田名にある「相模田名民家資料館」、相模湖にある「吉野宿ふじや」、埼玉県の熊谷にある片倉シルク記念館、あとはこの辺の古民家に行くと「昔は二階でお蚕を飼ってたよ!」みたいな話をよく聞くんですよね!

知られざる田島武平旧宅

さらには、群馬県に行けば誰もが知る富岡製糸場、さらには高山社跡や田島弥平旧宅、荒船風穴などがあり、埼玉県や長野県などにも生糸関連のスポットは多いっすからね。富岡製糸場とかは、2014年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」に登録されているので、知名度はちょっとばかりは高いかもしれませんけどね~~。

これだけ明治時代から昭和の間までは生糸が日本を支えており、その大半を外国に輸出していたのが横浜港だったんですね!

シルク博物館の館内

そしてそして、開港から100年が経ったときに横浜開港100周年を記念して建てられた博物館が、日本大通りにある「シルク博物館」なわけです。

私はこの博物館の存在を知った時に生糸に関する知識が全くなかったこともあり「横浜に何でこんな博物館があるんだ??」って思ってたんですが、こんな背景があったんですな。社会人になって歴史に興味をもって初めて生糸がこれだけ日本を支えていたってことを知りましたよ!!

生糸に関する背景をざっと書いたとこで、次の記事ではシルク博物館に関して書きたいと思いますよん!

おわりに

英一番館跡に建つ「シルク博物館」

ということで、次の記事は英一番館跡に建つシルク博物館を紹介したいと思います。何も知らずに訪問するとあんま印象に残らないかもしれないですが、横浜と生糸の歴史を学んだあとに行けば、得るものは大きいかと思いますよん!

ではでは、次の記事までしばしお待ちいただければと!

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市中区山下町1番地(シルクセンター2階)
営業時間 09:30~17:00 (入館は 16:30 まで)
入館料 大人500円、小中高生100円
休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日) 年末年始(12月28日から1月4日) 臨時休館有り
駐車場 なし
電話番号 045-641-0841
アクセス 日本大通り駅下車3番出口徒歩3分
リンク http://www.silkcenter-kbkk.jp/museum/

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