日本初の外国人専用ホテルの博物館『金谷ホテル歴史館』の誕生した歴史とは!?

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

今回の記事は、栃木県日光市にある超老舗ホテルに関する記事になります。

日光というと、東照宮や輪王寺、さらには猿軍団に中禅寺湖や華厳の滝など多くの観光名所が存在する場所であり、日本人のみならずたくさんの外国人客も訪れる場所ですね!!

そんな日光には、日本初の外国人専用リゾートホテルである「金谷カテッジイン」というホテルがあったんですね。

今では金谷カテッジインの跡地に「金谷ホテル歴史館」という博物館があり、今回はそこを取材したわけですが、その博物館の紹介は次の記事にするとして、まずは日光と金谷カテッジインの歴史に焦点を当てたいと思います!

金谷カテッジインは日光という街でどのような歴史を歩んできたのか。以下にまとめてみましたよ!!

本記事のポイント

・創業者は金谷善一郎であり、日光東照宮で楽人をしていた
・ヘボン博士の助言によって日本初の外国人専用ホテルが誕生した
・2015年から、金谷ホテル歴史館として一般開放されている

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日光東照宮の楽人の家系に生まれる

日光というと、やはり日光東照宮が真っ先に思い浮かぶ方が多いんじゃないですかね。現在でもカラフルで豪華春蘭な建造物が並ぶ東照宮ですが、ここは徳川初代将軍である徳川家康を御祭神に祀った神社。

若かりし頃の金谷善一郎
引用元:『金谷カテッジイン物語』

そんな日光で外国人専用ホテルである金谷カテッジインを開業したのは金谷善一郎という人物でした!

そして、江戸から鬼門の方角に当たる場所に建てられたわけですが、東照宮は今回紹介する金谷カテッジインの創業者である金谷善一郎と深い関係があるんですね!

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1765年の四軒町周辺の地図
引用元:『金谷カテッジイン物語』

というのも、金谷家の祖先は日光東照宮の楽人(がくにん)だったのです。楽人とは、舞楽や雅楽を神前で奏でる役割を担っていた方々。

金谷カテッジインが開業したのは現在の住所でいうと日光市本町、旧町名でいえば四軒町という場所ですが、ここは日光東照宮の雅楽を演奏する楽人(がくにん)が居住していたところだったそうです。最初は家が四軒あったことからついた町名だとか。

そして、金谷善一郎は14歳の時に金谷家を相続することになります。この時すでに父である永徳は55歳になっており、病弱だったことから早めに家督を譲っていこうとしたのかもしれません。

16歳の時にそれまでの幼名である利雄から善一郎と改名。この当時、男子は生まれてしばらくの間は幼名を名乗り、成人を期して改めて名を名乗るという風習があったのだとか。

神仏分離により日光大変革

神仏分離令に揺れた日光東照宮

金谷家とゆかりがある日光東照宮ですが、江戸から明治へと元号が変わるとここで大きな大変革が起こることになります。

それが明治新政府による神仏判然令(神仏分離令)。男体山を開山した勝道正人によって発展してきた日光山ですが、ここは神仏混交の場所。そんな日光は、日光山の神仏分離により東照宮の処遇で揺れることになったのです。

鳴き龍が描かれている本地堂

んで、どうなったのかというと東照宮は仏教要素が取り外され、神社として落ち着くことになります。とはいっても、東照宮には天井に鳴の龍が描かれ薬師如来が祀られている本地堂(薬師堂)や五重塔など仏教要素は残っているんですけどね!

楽人20人もそのまま存続が認められ、善一郎も従来通り楽人の一員として勤めることにはなったものの、東照宮の経済状況は江戸時代のような満ち足りたものではなく、楽人たちの収入も減ってしまったのです。。

そんなわけで、楽人だった金谷善一郎の給与も結構は区急だったそうなんですわ。。ただし、そんな最中にとある外国人が善一郎の前に現れ、大きな転換を迎えることになりました!

その外国人は”ヘボン博士”という人物だったのです!

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医療伝道宣教師であるヘボン博士

ヘボン博士夫妻

ヘボン博士は医師であり宣教師でもあるお方。ただし、その傍らではヘボン式ローマ字を考案したことでも知られています。皆さん、ヘボン博士って聞いたことあります?この方の名がどのくらい知られているのかはわかりませんが、私は知の冒険を始めるまで全く知りませんでしたけどね( ;∀;)

ヘボン博士の功績は今でも残っており、英語塾として開いたヘボン塾ではヘボン夫婦が教鞭を務め、この塾が現在の明治学院大学であり、女子教育として独立した学校が現在のフェリス女学院なんですな!

ヘボン夫妻は1862年12月に横浜居留地39番、今でいう横浜のマリンタワー裏の横浜合同庁舎前に移り住むことになります。この場所にはヘボン博士の邸宅だけでなく礼拝堂やヘボン塾の教室も兼ねていました。

それだけ横浜で多くの貢献をしてきたということで、その跡地には1949(昭和24)年10月に記念碑が建てられて今に至っています。

ヘボン博士、日光へ行く!

外国人が行動できた遊歩区域

そんなヘボン博士が日光へ初めてやってきたのは1870(明治3)年7月中旬でした。まだ横浜が開港して間もないこの時期は、横浜に暮らす外国人たちに対して遊歩区域が設けられていました。この区域から出ちゃダメってことね!!

この頃は八王子の辺りも神奈川県だったのでこんな形になっています。高尾山の神奈川寄りの方も区域に含まれていたため、高尾山まで登りに行った外国人が多かったそうですが、山で迷って区域外の反対側に降りてしまい追い返されるという事態も多発したとか(笑)

こういった区域が設定されてはいたものの、例外として公使や領事など外交団やお雇い外国人には、職務上の特権として居留地外での居住と国内旅行が認められていたのです。さらには、療養や学術研究での出願でも許可がされたという。

ヘボン博士は外交官でもお雇い外国人でもなかったので、おそらくは学術研究の目的で日光旅行の許可が下りたと思われます。

春蘭豪華な東照宮

なぜヘボン博士が日光に行ったのかというと、それはハリー・パークスという方の紹介でした。パークスは日光で東照宮などを見学した際、極彩色あふれる絢爛豪華な建物が点在する姿に、日本文化を見下していたパークスも日本人の美意識や高度な建築技術などに度肝を抜かれ感激。東京に戻った際に、知人であるヘボン博士に日光訪問を進めたのはその表れかと思われます。

そのヘボン博士が日光へ行った際、善一郎がまだ18歳のときに博士を自宅に止めたそうなのですが、これが金谷カテッジインが誕生するキッカケになったのです。

ちなみに、なぜヘボン博士が善一郎の家に泊まったのかに関しては、「ヘボン博士が泊るところがなくて困っていた」「事前に、誰かが博士を止めるよう善一郎に依頼した」など色々説があるようです。でも、博士が善一郎宅に宿泊したのは間違いないようです!

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ヘボン博士がキッカケでホテル開業へ!

ヘボン博士の助言によりホテルを開業

ヘボン博士は、金谷家に宿泊できたことで思い出深い日光旅行が出来たようです。そこで博士は、「やがて明治政府の外国人に対する日本国内旅行の制限も解かれ、今後多くの外国人が日光へやってくるだろう」と考え、善一郎なら外国人が快適に宿泊できる宿を開いてくれることを期待したと思われます。

そこで、ヘボン博士は善一郎に「開業した暁(あかつき)には、横浜や東京在住の外国人にも宣伝するから、ぜひやってみないか!」と、善一郎に宿の開業を勧めたと考えられるという。

そんな背景があり、金谷善一郎も日光が将来国際観光都市に発展していくとだろうと考え、さらには東照宮の楽人の収入だけでは生活が苦しかったこともあり、1873(明治6)年6月に居留地以外で初めての外国人専用旅館である『金谷カテッジイン』を開業したのです。

この後、金谷カテッジインは外国人の来泊が多くなり、善一郎の通り日光には多くの外国人が訪れる地となっていったのです。

中禅寺湖沿いの英国大使館別荘

金谷カテッジインからさらに奥へ入り、いろは坂を上った先にある中禅寺湖には、イギリス外交官だったアーネスト・サトウによって建てられた英国大使館別荘などもあります。私も金谷ホテル歴史館など日光で取材していた時には多くの外国人、とくにヨーロッパ系の観光客が多かったっすわ!

ヘボン博士は、生涯で四回ほど金谷カテッジインを訪問。しかし、1892(明治25)年10月21日には、妻クララの病気療養のためアメリカに帰国。ヘボン博士は、生涯において金谷ホテルに発展に貢献したことは一切残さなかったという。

イギリス人女性のイザベラ・バード
引用元:『金谷カテッジイン物語』

ヘボン博士のほかにも、金谷カテッジインの発展に大きく貢献してくれた外国人は何人かいまして。その一人がイギリス人女性であるイザベラ・バードという女性なんですね。彼女が記した著書『日本奥地紀行』は欧米で好評を博し、その中には旅の途中に滞在した金谷カテッジインが詳しく記されたことで欧米人にその存在を知らしめたからです。

イザベラ・バードが滞在した部屋

イザベラバードは、すでに金谷カテッジインに宿泊していたヘボン博士と旧知の仲でもありました。『日本奥地紀行』には、金谷家の家族のことや庭の様子、家の造り、客室のしつらえ、食事、客の応対の様子など、欧米人に興味深い日本の民宿の様子が記されているそうです。

今でも、金谷ホテル歴史館の二階にはイザベラ・バードが宿泊した部屋が公開されていますよん。

多くの外国人によりホテル大繁盛!

開業当初の母家は広い屋敷の割にはこじんまりとした建坪約26平方メートルで、カテッジイン(小さな旅館)にふさわしく、造りは当時としては珍しい二階建てでした。

日光紹介のガイドブックを書いて日光を広めたアーネスト・サトウも『明治日本旅行案内(A Handbook For Travellers In Central& Northern Japan)』の中で「快適な旅館」と紹介しています。

今ではインターネット、テレビ、雑誌などいろんな広告媒体が存在しますが、明治時代はガイドブックの宣伝効果がかなり大きかったというかそういうのしか知りえなかったわけです。

それだけではなく、明治新政府は江戸時代から引き継ぐようにして外国人の日本国内旅行を制限していたが、1874(明治5)年に明治政府が居留地に住む外国人の病気療養などのために許可した五か所の許可地に日光が入っていたこともお大変大きかったようです。

いろんなレジャーが楽しめる中禅寺湖

さらに、東照宮や華厳の滝がある場所からいろは坂を上った場所にある中禅寺湖は、多くのレジャーが楽しめ、湖畔の風景がイタリアのコモ湖の湖畔などヨーロッパの湖畔に似た景色が広がっているということもあり、欧米人には多変人気のある場所になりました!

中禅寺湖の湖畔にあるイタリア大使館別荘

中禅寺湖を中心とする水系は、1902(明治35)年にイギリス人のトーマス・B・グラバーなどによりアメリカ・コロラド州からカワマスの卵が輸入、孵化され、その稚魚が放流されて以来、スポーツフィッシングの場になるほか、登山やボート遊びなどのレジャーが楽しめる最適な避暑地となり、明治後期には奥日光に欧米角国の大使館別荘などが建てられ、多くの欧米人が避暑にやってくるようになるのです。

左部分は増築したらしい

そういった背景によって多くの外国人が日光に訪れたことで、創業後の10年を経過すると利用客も増えたことから増築の必要性に迫られました。1885(明治18)年に建物に向かって左側の部分の増築に着手し、1887(明治20)年に完成し現在の姿となったのです。

天井がやたら低い・・

そんな金谷カテッジインは、別名「金谷侍屋敷」と呼ばれて親しまれました。これは、明治期にこの屋敷に宿泊した外国人が「SAMURAI HOUSE」と呼んでいたことに由来します。刀を上段に構えられないように天井が低く、押し入れのように見えるふすまの奥が階段や抜け道になっているのがここの特徴とのこと!

金谷カテッジインは1973年の開業から20年間は、外国人専用民宿であり、1893(明治26)年に現在も営業を続けている金谷ホテルを少し離れた神橋の近くに開業して、現在に至ります!

モース博士もやって来たんだぜ!

大森貝塚を発見したモース博士

こうしたガイドブックなどが発行されると、日光を訪れる外国人も増えたわけですが、あの大森貝塚を発見したことで有名なモース博士ことエドワード・モース氏も日光を訪れており、『日本その日その日』というガイドブックを出しており、鈴木旅館を取り上げていました。

1877(明治10)年6月に腕足類の標本最終のために日本に来日したモース博士は、来日二日目、横浜から新橋駅へ向かう汽車の中から、崖に貝殻が積み重なっているのを発見、のちに発掘調査をして貝塚であることを実証した方。

モース博士が金谷カテッジインに宿泊したかどうかは定かではありませんが、明治の頃に訪れた外国人の中には、モース博士のように日光に訪れた方は非常に多かったんじゃないですかね!

2015年に一般開放へ!

国の登録有形文化財にも指定

金谷カテッジインの建物は、金谷ホテルの本館・新刊・別館と共に2007(平成19)年11月30日、経済産業省が公表した地域活性化のための「近代化産業遺産群33」に「外貨獲得と近代日本の国際化に貢献した観光産業草創期の歩みを物語る近代化産業遺産群」として認定され、2014(平成26)年4月には国の登録有形文化財となりました。

NHKの『ブラタモリ』でも紹介された

そしてそれから8年後、2015年3月に金谷ホテル歴史館が開館しました。現在も営業を続けている金谷ホテルの前身であり、金谷カテッジインの建物の様子を現在に伝えるものとして、築後四百年近い建物を歴史的に忠実に改築・修復しました。

日光市文化財課の意向も踏まえ、岡田義治氏(栃木県文化功労者、元栃木県建築士会会長)の指導のもと、アガ設計工業に施行をお願いしたようです。開館後はNHKの人気番組である『ブラタモリ』でも紹介されたんですって!

日光には多くの有名な観光地があるので、ここはそこまで知られている場所ではないかもしれませんが、今の日光の繁栄の歴史には欠かすことができないスポットっす!

ぜひぜひ、皆さんも日光に行った際には金谷ホテル歴史館を訪問してみてくださいね(*’▽’)

おわりに

金谷ホテル歴史館の館内

以上のような背景を経て、金谷カテッジインが誕生し、今では金谷ホテル歴史館として一般開放されているんですな!

ではでは、金谷ホテル歴史館の背景を学んだところで、次の記事では館内の様子などを紹介していきたいと思います!!

ということで、次の記事までしばしお待ちくださいm(__)m

参考文献

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詳細・地図

住所 栃木県日光市本町1−25 資料館棟
営業時間 <歴史館> 3~11月 9:30~16:30 (最終入館16:00) 12~2月 10:00~15:00 (最終入館14:30 <レストラン> 3~11月 9:00~17:00 (ラストオーダー16:30) 12~2月 10:00~16:00 (ラストオーダー15:30) (年間を通して15:00以降はスイーツとお飲物のみになります <ベーカリー> 9:00~17:00(通年)
入館料 大人 500円、子供(小学生)250円
休館日 <歴史館> 3~11月 無休 12~2月 月2~3回 休館日あり <レストラン> 3~11月 無休 12~2月 月2~3回 休業日あり <ベーカリー> 3~11月 無休 12~2月 月2~3回 休業日あり
駐車場 無料(レストラン前 8台、国道を挟んで向かい側 8台)
電話番号 0288-50-1873
アクセス 車だと日光宇都宮道路日光ICから神橋方面へ 神橋と平行する橋を渡り信号を左折 田母沢御用邸前信号の手前右側
リンク http://nikko-kanaya-history.jp/

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