箱根富士屋ホテルが辿ってきた歴史とは!?

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うっす!

今回は箱根にある超有名高級ホテルである「富士屋ホテル」に関する続編になります。今回は開業から今まで富士屋ホテルが辿ってきた歴史をまとめようと思いますが、まずは、前回の記事における簡単なおさらいから!

本記事のポイント

・冨士屋の名は、外国人を呼ぶ戦略として名付けられた
・金谷ホテルや帝国ホテルなど名だたるホテルと関わりがあった
・立教大学観光学科も富士屋ホテルと関わりがある

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横浜遊廓の援助によって開業

明治11年に開業した富士屋ホテル

箱根の富士屋ホテルが開業したのは1878(明治11)年7月15日でした。

クラシックな外観をした建物は見所満載であり、リゾートホテルの草分け的な存在でもあるこのホテルですが、開業したころは横浜遊廓にあった神風楼と関わりがあったわけです。

横浜遊廓にあった神風楼
引用元『横浜市稿・風俗編』

神風楼との関わりについては前回の記事にて深くまとめております。が、かる~くおさらいしておくと、富士屋ホテルを開業した山口仙之助の父である山口久蔵は、横浜遊廓にあった神風楼を経営している人物でした。

この神風楼は、横浜遊廓にある妓楼の中でも名が知れて結構繁盛していたようなんですね。そんで、富士屋ホテルを開業するにあたっては新聞広告に「横浜高島町神風楼支店富嶽館」という記載があるように、神風楼の支店という位置付けで営業をしており、その後も、あくまで可能性ではありますが神風楼から資金的援助を受けていたという背景ですね。

↓↓詳しくはこちらの記事を見てみて下さいね(*´▽`*)

ということで、前回の記事では富士屋ホテルの歴史の中でも神風楼との関係を中心に、そして主に開業時に関してをまとめていましたが、今回は開業してから今に至るまでの歴史をまとめるという感じになります!!

では、それについてを以下でまとめますね。

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富士山が見えない富士屋ホテル

1878(明治11)年7月15日、箱根・宮ノ下に富士屋ホテルは開業しました。開業時の宮ノ下はまだ田畑が広がるのどかな寒村だったんですね。

ホテル内にあるバーナードの水彩画

富士屋ホテル内には、創業当時の宮ノ下と富士屋ホテルを描いた絵が残っております。この絵を描いたのは、創業時から60年以上にわたって富士屋ホテルの顧客だったイギリス生まれの貿易商であるC・B・バーナードという方でした。

山の斜面に沿って茅葺きの民家が建ち並び、手前には田んぼが広がっています。そんな茅葺き屋根の奥に洋館らしい建物がそびえ建っていますが、これが富士屋ホテルなんですね。

今の旅館の場所は、500年の歴史を持つ由緒ある旅館「藤屋」を買収しており、この「藤屋」を「富士屋」にしたのは仙之助のマーケティング戦法でした。

でもですよ、富士屋ホテルは富士山の方面には向いてないこともあり、ホテルから富士山は一切見えないんですね(;・∀・)

「えっ、場所は箱根だし、富士山が見えないのに何で屋号に”富士”をつけてるんやねん」

という話になるわけですが、それは「富士山は外国人のあこがれ」であるため、「”藤屋”という屋号だったら”富士屋”にした方が人が来るやろ!」と思ったから。恐らくね。

国立公園富士箱根案内図

まぁ今でこそ富士箱根伊豆国立公園がありますし、ガイドブックにも「富士箱根」というくくりで発行されているものもあるので、箱根にあるホテルに”富士”の屋号がつけられているのにそこまで違和感はないかもしれないですけどね。

でも、この国立公園が指定されたのは1936(昭和11)年2月1日なので、開業からだいぶ経ってるんですよね~~。なので、当時は違和感もった方は多かったかもしれませんけども。。

でもですよ、富士屋ホテルが全く富士山と縁がなかったのかというと、それはそうでもなかったんですな。ホテルが開業した明治の時代には、富士登山をする際に利用できる外国人向けのホテルが富士山周辺に無かったわけです。

なので、富士屋ホテルを拠点にして富士登山に向かった方は多かったんですね。

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親知らずにあるウェストン像

その中でも有名なのが、日本アルプスや上高地を世界に紹介し日本山岳会の設立に尽力したウォルター・ウェストン。

彼は、何度か富士登山をする際に富士屋ホテルを拠点にしていたとのこと!

フルーツパーク富士屋ホテル

とはいえ、その後は芦ノ湖の畔(ほとり)に建設した箱根ホテル、川口湖畔に建設した富士ビューホテル、笛吹川フルーツ公園に開業したフルーツパーク富士屋ホテルなど、本当に富士山が見える場所にホテルを開業していきました。

この笛吹川フルーツ公園に開業したフルーツパーク富士屋ホテルは、新日本三大夜景にも指定されている勝沼の夜景が部屋から一望できるので、夜景好きとしては一回は泊りたいな~なんて思ってましたけどね(;’∀’)

まっ、それはどうでもいい話として、屋号である「富士屋」にはそんな背景があるって話でした!

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日本人を泊めないホテル

富士屋ホテルは1878(明治11)年の開業当時は、日本人も外国人も泊めていました。 ところが、仙之助には「ホテル事業は外貨獲得の手段だ!」という考えがありました。

富士屋ホテルは外国人の金を取るをもって目的とす。日本人の金を取るはあたかも子が親の金を貰うに等しい。自分は純粋なる外国の金貨を輸入するにあり。日本人の客は来てもらわずともよい

引用元『富士屋ホテル八十年史』

資料としては、『富士屋ホテル八十年史』にもそういった仙之助の意見が載っかっています。

そんな富士屋ホテルが、ガチの外国人専門ホテルになったのは1893(明治26)年のことで、奈良屋ホテルと交わした「宿泊営業に関する契約書」がキッカケだったんですね。

奈良屋は富士屋よりも先に外国人を受け入れていた旅館であり、富士屋ホテルよりも歴史は古いんですね。創業は江戸前期であり、江戸時代中期から後期には多くの大名が宿泊した本陣でもあり、明治天皇皇后両陛下が宿泊した過去もあるという歴史ありまくりの旅館でした。

そのすぐ近くで、明治11年に富士屋ホテルが誕生したこともあり、お互いはバチバチとライバル意識を持ち出したってわけです。

んで、色々あって無駄な争いによる損失も大きかったことから、明治26年に「宿泊営業に関する契約書」を交わし、富士屋は奈良屋に毎年、一定額の報酬を支払うことによって、富士屋は外国人専用、奈良屋は日本人専用になったんです。

この契約は大正元年まで続けられ、富士屋ホテルには20年ほど外国人専門だった時代があったわけですね!

宮ノ下駅近くにある「NARAYA CAFE」

ちなみに、そんなライバルだった存在の奈良屋ホテルですが、現在は閉業しているものの御子息の方が宮ノ下駅からすぐのところに「NARAYA CAFE」というカフェを開業しています。

足湯もあって、私が通り過ぎたときは結構お客さんがいて繁盛しておりましたよ!今度近くに行ったら、お店に入ってみようかしら(*´▽`*)

日光の「金谷ホテル」とのつながり

続いては、日光の超有名ホテルである「金谷ホテル」とのつながりについて。

金谷カテッジインだった建物
現:金谷ホテル歴史館

日光にある金谷ホテルといえば、その前身は日本初の外国人専用リゾートホテルである「金谷カテッジイン」であり、その建物は現在博物館になっています。

金谷ホテルは、現在も日光の地で営業を続けている老舗ホテルであり、富士屋と同様に日本のリゾートホテルの草分け的な存在なんですね。

仙之助は、長男の脩一郎がホテル経営に全く向かない人間だったこともあり、長女孝子にそれなりの人物を迎えて冨士屋を任せようとしており、そこで金谷の次男に目を付けたってわけですね。

正造(左)と兄の眞一(右)
引用元:「箱根富士屋ホテル物語」

1907(明治40)年12月、山口仙之助は日光・金谷ホテルから創業者金谷善一郎の次男である正造を、長女孝子の婿養子に迎えることになります。

こうして、富士屋と金谷という日本を代表するホテルはこのような親戚関係が結ばれることになるわけです。二人の結婚式は、「日光の立派なホテルから婿さんがやってくるらしいぜよ!」ということで、お祭り騒ぎだったようですよ!

その後、正造がホテルの経営を担うことになりますが、仙之助と正造は度々意見の違いで衝突することになります。

例えば温泉に関する考え方!

仙之助:「温泉の効用を積極的にPRするのは好かんな~。下手に広告すると、富士屋が病人の療養所になるんじゃないの??」

正造:「いやいや、せっかくの自然の恵みなんですから、積極的に利用すべきっすよ!」

正造が作った温室

そんな意見衝突があったわけですが、正造は勝手に温泉を使って温室を作ってしまいました。正造は花が好きだったようです。勝手に作っちゃったものの、仙之助は温室に咲いた植物を見て、「おー、いいじゃねえか!」と、割と好意的だったそうです(*´▽`*)

これで仙之助がブチ切れてたらどうなってたんだろ。。(;’∀’)

この温室、宿泊客は進入禁止の様ですが、今は客室やダイニングテーブルの上を飾る花も、すべて温室で栽培されているものを使用しているそうです。

これは胡蝶蘭かな??

外からこっそり撮らせていただいたんですがこれは胡蝶蘭っすかね??

正造は蘭を特に愛していた花のようで、サクラソウや珍しい食虫植物など豊富な種類をここで育てていたようです。食虫植物も見たかったな~~。

この温室は正造が初めて自分の意見を富士屋で反映させた場所であり、ココから 正造の夢が冨士屋に反映されていくのです。

自動車事業にも手を広げた

富士自動車の乗合自働車
引用元:「箱根富士屋ホテル物語」

続いて、正造が手掛けた新規事業は自働車でした。

自動車が公共交通機関として一般化してくるのは明治末期のこと。この頃から、仙之助が敷いた国道一号線を使って自家用自動車でやってくる外国人の姿が見られるようになっていました。

箱根にあったチェア
引用元:「箱根富士屋ホテル物語」

それまで箱根山で一般的だった乗り物は、人力車とチェアでした。チェアとは、上の写真にもありますが四本の担ぎ棒を取り付けた椅子のこと。 今見ると、アナログ感半端ないっすね。そして兄や友人に掛け合って資金を集め、1914(大正三)年に冨士屋自動車株式会社を設立。

最初は貸し切り自動車専門でしたが、大正八年からは乗合自動車、つまり今のバスの運行も開始。目立たせるために赤く塗った自動車は好評だったようで、その形から「富士屋の弁当箱」と呼ばれたとのこと。

そしてこの富士屋自動車は、名前を変え、今も運航を続けている箱根登山バスとなっているんですね。今の箱根には、いろんな形で正造の痕跡が残り続けているわけです。

東京帝国ホテルとの繋がり

先ほどは、富士屋ホテルには日光の金谷ホテルとの繋がりがあると書いたわけですが、富士屋は東京の超有名ホテルである「帝国ホテル」とも、つながりがあるんですね。

それは、大正11年のこと。1890(明治23)年に開業した帝国ホテルは、明治末期から新館の建設が急がれていました。ところが、工期や予算を大幅にオーバーしてしまったほか、大正八年と大正十一年の二度にわたり火事が発生。。それにより、大倉喜八郎が辞任し、当時の支配人だった林愛作も去ってしまうんですね。

そこでです、白羽の矢が立ったのが正造だったんですね。

へぇ~こういった有名ホテルにもこんだけつながりがあったんすな~。正造が支配人を務めたのは十か月。その間に新築されたライト館は、栃木県産の大谷石とスクラッチタイルが複雑に組み合わされており、1967(昭和42)年に解体され玄関部分は愛知県の明治村に移築されています。

昭和五年建築の「ザ・フジヤ」

その後、正造は初めての大掛かりな建築として食堂の建築を竣工させました。ここは現在もフランス料理が提供されるレストラン「ザ・フジヤ」としてバリバリ活躍しているんですね!

洋風な雰囲気がちりばめられている富士屋ホテルの建物ですが、正造はこの建物をキッカケにして和風の意匠をテーマにした建築を次々と展開していくことになります。

天井はとても高く社殿建築を思わせる格子状となっており、その一つ一つには高山植物が描かれているなど、見渡すと様々なこだわりが垣間見えます。

ビリヤード場だったバー

「ザ・フジヤ」がある建物ですが、一階は上の写真のようなバーになっています。ここはもともとはビリヤード場だったようですけどね。

昭和四、五年ころになると、ホテル業界はもとより旅館業界においても「ホテルマンを教育する機関が欲しい」という声が高まってきます。そこで、カリキュラムをきちんと組んで教育をする富士屋トレーニングスクールが発足。

このスクールは十年ほどで一旦役目を終えましたが、その意志は実は立教大学の観光学科に残っているんですね。実はこの学科は正造が亡くなった後、葬儀で集まった香典が立教大学に寄付される形で誕生した学科なんです。

へぇ~、こうやって一つのホテルについて調べてみると、いろんな話につながっていくのがすんごく面白い。これぞ、歴史調査の醍醐味ってやつでしょうか!!

レストラン「ザ・フジヤ」が昭和五年に建てられましたが、その後も富士屋ホテルはどんどんデカくなっていきます!

昭和11年建築の花御殿

こちらは1936(昭和11)年6月10日に建てられたバス付客室を中心とする新館の花御殿(フラワーパレス)が完成。この設計を手掛けたのも、正造です。

43の客室には、客室番号の代わりに花の名前が付けられており(今は番号も併用されている)、客室のドアにはその花が飾られ、部屋の鍵にも同じ絵が描かれた木製の巨大なキーホルダーが使われていたなど、様々なこだわりがあったようです。

花御殿の地下にはプールもある

さらに、花御殿の地下には温泉を用いた室内プールも作っちゃいました!

その後は、富士五湖湖畔に富士ビューホテルが開業したほか、箱根ゴルフ及銃猟倶楽部として発足し、その後、富士屋に引き継がれた仙石原ゴルフ場も手掛けることに。

昭和10年代になると、太平洋戦争が勃発し日本は敗戦。そこで、多くの旅館やホテルと同様に富士屋ホテルも接収させることになります。そしてそれだけでなく、戦時中の1944(昭和19)年2月には富士屋ホテルの手掛けた正造が亡くなったんですね。

正造の後を継いだ堅吉

正造のあとは、仙之助の次女貞子の婿として養子に入った堅吉が継ぐことになります。

賢吉は、「俺が俺が!!」ってタイプではなかったようで、仙之助、正造が作ってきた富士屋ホテルをひたすら受け継いでいくスタイルでした。

戦後には、富士屋ホテルに進駐軍がやってきて接収されたものの、富士屋は進駐軍を好意的に迎えたホテルだったようでした。富士屋ホテルの日本情緒あふれる独特の建物やレベルの高いサービス、運営管理にも一目置くようになっていった。正造の時代から、掃除には人一倍気を使っていたことから、衛生面でも指摘を受けることは少なかったという。

俺が俺がタイプの正造だと、また違ったことになったかもしれませんが、堅吉は接収を受け入れ進駐軍にも温和に接したことで、大きなハプニングはなく接収を終えたようです。

一般営業再開を告げるポスター

その後、1954年7月6日に八年八か月に及ぶ接収が終わり、一般自由営業を再開。ところが、堅吉の胸は不安でいっぱいだったようです。戦後の新しい体制の中で連絡がつかない方も多く、またお客さんが戻ってくるのか・・ということですね。

苦戦した日々はあったものの、1958(昭和33)年になると、富士屋ホテルが創業80周年を迎えたこの年ころから一転し、経営の方向性が見えて来たんですね。この前年くらいから欧米で日本観光熱が高まり、世界一周豪華客船が相次いで日本に寄港するようになり、乗客の多くが箱根へと足を延ばしました。

その後、色々お家騒動みたいなことはあったようですが、富士屋ホテルは今も営業を続けており、2018年には大規模リニューアルということで二年間の工事期間を経て、2020年7月に再び営業再開となったわけです。

現在の富士屋ホテル

という感じで、ざっくりと富士屋ホテルがたどった歴史を簡単にまとめてみました。記事を書いている2020年で、富士屋ホテルは創業142年目。これからも、富士屋ホテルは歴史をつないでいくことでしょう!!

おわりに

富士屋ホテルが歩んできた歴史に関して、理解していただけましたでしょうか!

前回の記事では、富士屋ホテルが横浜遊廓にあった神風楼の支援があって開業した話を、そして今回の記事では創業時から富士屋ホテルが歩んできた歴史をまとめてみました。

という感じで二つ記事を書いてきたわけですが、富士屋ホテルに関してはもう一つ続編の記事を書く予定でございます!

実際に宿泊してきました

これだけ色々調べたとなると、高級ホテルとは言えども実際に泊まってみたくなるというのが私の性でしてね!!

んで、実際に大金をはたいて宿泊してきたので、次回はその宿泊体験記になります(*´▽`*)

では次の記事まで、少しお待ちいただければと思います<m(__)m>

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県足柄下郡箱根町宮ノ下359
駐車場 無料
電話番号 0460-82-2211
アクセス 箱根登山鉄道 宮ノ下駅より 徒歩7分 小田原厚木道路小田原箱根口ICより 20分
リンク https://www.fujiyahotel.jp/

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