門司の繁栄を支えた三階建ての元料亭「三宜楼」の誕生から現在までの歴史とは!?

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

こんにちわ(*’▽’)

今回の記事は、前回の記事で書いた福岡県北九州市の門司港にある元料亭「三宜楼」に関する記事の続編になります!

↓前回の記事はこちら

交通の要所として戦前は大変栄えていたという門司港。そこには、木造三階建の三宜楼という巨大な料亭があり、今は一般開放され内部を見学できる状態になっているんですが、その成り立ちにはどんな背景があったのか?について、ちょっくら記事にまとめてみましたので、以下で紹介していきたいと思います!

本記事のポイント

・三宜楼は日露戦争の戦勝ムードにのって、1906年に誕生
・多くの著名人も入り浸り、芸妓と地元要人の関係は親しかった
・閉業後は多大なる寄付金によって改修され、内部は無料開放されている

スポンサーリンク

交通の要所だった門司

本州との玄関口である門司

本州と九州とをつなぐ玄関であり、海から言えば背後に瀬戸内海方面を抱える周防灘と、福岡や日本海方面に通じる響灘との出入り口であり、昔から政治、軍事、交通などの各面で重要な拠点だった門司。

そもそも、門司(もじ)という名称は入り口を管理、ないし取り締まる場所の意味なんだそうですね。

そんな門司が発展したのは、1889(明治22)年に特別貿易港に指定され、門司の築港が着工され、前年には九州鉄道が発足・着工した頃に始まります。

特別貿易港に指定されると、閑散としていた門司の街にどんどん建物が建てられ始め、平地が少ないということもあり建物は山の斜面をも侵食していくことになります。

門司は当時植民地だった朝鮮、満州、中国本土といった外地向けに、門司は新聞供給基地として拡大の最先端の役割を担ったとのこと。

スポンサーリンク

戦勝ムードで活気に火が付いた!

日本と革命前のロシアとの戦争に勝利し、日本国内には戦勝ムードが流れ戦争景気が軍港を燃え上がらせていました。門司港では、石炭仲士の数がピークに達して1万3,886人。炭坑景気で筑豊の各地では坑夫の誘拐が盛んに行われていたとか。

そんな賑やかで人口も増えてくると、1906年には門司電気鉄道が出願され、門司瓦斯会社が認可。さらには、人々が娯楽を求めるようになると劇場や福岡県下初の常設映画館の「電気館」も開業。1900年前後には、土地の狭い門司で建物がどんどん山手に上っていくようになり、「門司の一等市街地の地価は、東京日比谷公園の地価と大差ない」とまでいわれたんですって!

熊本県にある世界遺産「万田坑跡」

筑豊で掘り出された石炭は、初めは船でそのあと鉄道が取って代わって、下流の若松や門司などに輸送されることになります。運ばれた石炭は、船に人力で積み込まれる。輸出のためのものと、船自体の燃料源のものと、用途は異なっている。

ひとたび戦争ともなれば、港町はさらに変貌して人も物も石炭も重要度を増すことになります。この石炭を扱うのは中央資本の大手企業と財を成した地場の炭鉱夫や販売元。

三宜楼も、このような日露戦争前後の好景気の波に乗って開業を思い立ち、『「門司港」発展と栄光の軌跡』によると、三宜楼は1906年にできたとのこと。

「みなと祭」の三宜楼チーム
引用元:『「門司港」発展と栄光の歴史』

街が栄えると花柳界も誕生することになります。門司最初の料亭としては速門楼、山方面にある不老園があげられ、さらには木造四階建ての群芳閣はかつてのシンボル的存在の料亭だったそうです。

高級料亭や芸達者な芸妓が揃っていたこともあり、北九州各地の大会社の宴会は門司を利用することが多かったとか。

三階建ての豪華な料亭としては対潮楼、速門楼、三笠、菊の家、などがあった。双葉券番では最盛時に230名おり、このほかには公認の馬場遊郭があり、非公認の私娼は恵美須町、川端町、大坂町などに多数存在して船員や労働者を相手にしていました。

かつての門司港のイメージで言うと、石炭、鉄道、港湾、外国航路、支店経済、肉体労働者、そして花柳の街などが浮かんだのだという。

スポンサーリンク

多くの著名人が訪れた

三宜楼の百畳間

1906年に誕生した三宜楼には多くの著名人も通ったという。その中でも有名な方と言えば、百田尚樹氏の小説『海賊と呼ばれた男』のモデルであり、出光興産の創業者でもある出光佐三(いでみつ・さぞう)ですかね!

三宜楼で撮られた写真
出光佐三は前列の右から三番目

三宜楼では、そんな出光佐三、中野真吾、久野勘助たちが中心になって、門司港の背後にある高台の風師山(かざしやま)の名から取った「風師会」なる会合を月一回三宜楼で開いていたとのこと。

国鉄、税関など官庁の幹部、それに大手企業の支店長らが集まる会であり、佐三らには遊びの場であると同時にそれぞれに仕事の人脈を広げる営業的な思惑があったと思われます。

あるときには、「芸妓たちが病気や子供の養育などで物入りの時に救済できるよう基金を作ろう」ということになり、そこで料亭「ひろせ」の女将である千代菊は門司商工会議所会頭の木村悌蔵らとともに東京で大活躍中の出光佐三を訪ねることに。しかし、「そんな金はない!」と断られたものの、門司に戻ると入れ違いで出光からそれなりの大金が送られてきたという。

それだけ芸妓たちと地元要人の関係は親しく、身近だったようです。出光佐三が東京へひと旗揚げに門司を発ったときは、見送ったのは花柳界の人だけだったとも。

その他には、炭坑王と言われた上田清次郎(うえだ・せいじろう)や佐藤栄作(さとうえいさく)ですね。

元総理大臣の佐藤栄作も、結構この三宜楼には入り浸っていたようです。実のお兄さんであり、安倍晋三首相のおじいさんに当たる岸信介は早くから秀才と言われ東条英機内閣の商工相などを務めたことでA級戦犯容疑者になるも不起訴になり東京裁判で裁かれることなかったっすね。その後、戦犯たちの公職追放が解除されると国会に返り咲き、彼も首相も務めたんですよね。

そんな兄に対し、弟の栄作は門司で鉄道勤務でした。東京帝国大学(現東京大学)を1924(大正13)年に卒業した後は鉄道省に入り、6月には門司鉄道局に配属。そこから9年間門司に滞在し続けることになったわけですが、その期間、三宜楼に通い詰めたそうですよ!

まだヒラで月給100円くらいの時代にも芸者をあげての宴会に出ており、栄作の家計は火の車だったとか。。( ;∀;)

世の中変化に対応できず閉店へ・・

日露戦争が終わり、戦勝ムードで栄えた門司ですが、太平洋戦争が勃発すると、戦時中は警察庁の遊興規制が徹底されたことで三宜楼は営業ができなくなり、陸軍将校らの親睦団体である偕行社がその慰安所兼宿舎として接収。これは1943(昭和18)年頃から終戦まで続けられました。。

1944年2月ごろの二葉券番最後の記念写真
引用元:『「門司港」発展と栄光の歴史』

今回の記事で参考にさせていただいた『「門司港」発展と栄光の歴史』という書籍には、三宜楼の近くにある門司港の華であった二葉券番最後の記念写真があり、職場を失って地味な和装になった芸妓たち50〜60人が静かな雰囲気で写っています。

このように、戦時中に良いニュースも少ない門司は、太平洋戦争の終盤に空襲被害にも遭(あ)うのです。

三宜楼の調理場と従業員
引用元:『「門司港」発展と栄光の歴史』

1945年に太平洋戦争が終結することになり敗戦国になった日本。戦時中は営業を続けることができなかった三宜楼ですが、1950年の朝鮮戦争による特需景気や、石炭で儲けた地元経済や海運業界、あるいは門司鉄道管理局などの官界系の顧客を軸に順調に経営を進めていきました。

しかし、昭和30年代に入ると、石炭産業が斜陽化するとともに52年と58年の炭労の長期スト、60年の三池大争議などがあり三宜楼の経営は次第に厳しくなっていくのです。

その後の国民生活の変化も大きく影響。一般家庭でもテレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器が買えるようになり、所得倍増計画によって一般人の生活水準が向上。いわゆる、一位億総中流社会となっていったわけです。

それにより、一部の高級客に頼る料亭の経営は厳しくなり、サラリーマンなどの一般多数向けの飲み屋やバーなどが増えていくことになります。

三宜楼はこの1960年頃に閉店したのではとのこと。1906年の創業であれば、日露戦争後の戦勝ムードに湧いた頃から54年で、三階建ての巨大料亭は幕を下ろすことになったのです。

スポンサーリンク

レトロな街へと発展していく門司港

三宜楼が幕を下ろした後の昭和56年頃、先端的で豪華に建設した門司港の建造物は次第に老朽化していき、それぞれの所有者の事情から取り壊しが進められており、こうした対応に街は迫られていました。

解体にストップをかけて保存しようにも、当時の常識では大正の建物というのはまだまだ文化財といった評価以前のもので、とても大金をかけて保存するといった雰囲気ではなかったという。 。

今では立派に改修された三宜楼も例に漏れず、改修前は結構ボロボロで建物のセキュリティも甘く、入り口からでも普通に侵入出来てしまうほどだったとか。。そのため、館内に侵入した大バカ者によって盗難にもあっていたという。

レトロな街並みを活かしていった

しかし、1987(昭和62)年になると、門司港が「レトロ retro」計画に乗り出すことになります。前年、北九州市長に就任した末吉興一(すえよし・こういち)は、北九州市が門司、小倉、若松、戸畑、八幡という、それぞれに個性ある都市として発展してきた五市によって形成されてきたことを尊重して、どの地域にも同じ施設などをおくといった均一的な手法は取らず、それぞれの都市が特徴を打ち出せる街づくりが必要と考えたのです。

門司港の場合は、それが「レトロ」だったわけです!

レトロな風貌の旧門司三井倶楽部

歴史的な遺産が多く残され、海峡という観光資源に恵まれ、その特徴を生かしつつ歴史を再現するところに魅力を倍加できると考えたのです。

門司港の象徴「三宜楼」復活へ!

復活した三宜楼

そして、そのレトロな街づくりの中での大きな挑戦が三宜楼保存だったのです。民の側から「レトロ基金委員会」が作られ、2000年頃から建築物保存を所有企業に請願したり、門司港地区の建造物見学会を持ったり多様な活動を展開し始めました。

それと同時に、「三宜楼の保存を考えるフォーラム」がレトロ基金委員会などによって開催され、翌2006年には「三宜楼を保存する会」が誕生!

一方、三宜楼の土地などを入手していた合資会社星島社団が、この土地232坪を売りに出し、1,265件もの寄付者により2,045万円もの寄付金が集まり土地を購入して北九州市に寄付したのです。

2014年にオープンとなった

その後、北九州市の手で2012年10月に建物の補修工事に着工。債権ののちにはレトロ生活博物館、日本舞踊や邦楽ホール、地域作家のギャラリー、喫茶休憩室の場などの活用が想定されました。

そして、工事はかなり難航したものの、2014(平成26)年4月26日に今の三宜楼がオープン!

現在は、史資料展示の場、各種イベントや会合ができ、テナントの料亭は、創業者の三宅アサが働いたことがるといわれた、対岸の下関市にある料亭「春帆楼」の経営です。

春帆楼は日清講和会議の締結が行われた場であり、ふく公許第一号のお店ということで、春帆楼は日本のふぐ料理発祥の店でもあるわけです。私も気絵画ればここで食べてみたいが、そうそうそんな機会はなさそうだ。。

三宜楼の受付

そんな感じですかね。ざっと門司の発展の歴史と三宜楼の歴史を合わせてまとめてみましたが、三宜楼には上記のような歴史があったそうですよ!

とは言ったものの、今回の記事ではすんごく簡単にかいつまんだだけですし、門司には三宜楼以外にも多くの面白い見所スポットがあるので、福岡県に行く機会があればぜひ門司へ観光にでも行ってみてはいかがでしょうか??

おわりに

以上のような歴史を経て、門司港レトロのシンボルでもある三宜楼は見事に蘇(よみがえ)ったのです!

歴史に”if”は禁物ですが、門司港が”レトロ”な街づくりを行わなければ三宜楼は解体していたかもしれないってことですかね。。

以上、三宜楼誕生から現在までの簡単な歴史についてでした~!

参考文献

↓よければクリックをお願いします

詳細・地図

住所 福岡県北九州市門司区清滝3丁目6−8
営業時間 11:00~17:00
休館日 月曜日
駐車場 なし
電話番号 093-321-2651
アクセス JR門司港駅から徒歩で10分ほど
リンク https://www.shunpanro.com/location/sankirou/

知の冒険TOPへ

↓↓twitterもよろしくです
※ほぼ毎日つぶやき中
こちらの記事もどうぞ!
この記事も読まれてます!
関連コンテンツ
関連コンテンツ



  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です