今回の記事は、私が暮らす神奈川県川崎市にある超レトロな商店街である「小向マーケット」に関する記事になります。
私の家から一時間もかからない場所にあるこの商店街。私は全国の珍しい場所を巡っているくせに、こんな近くにある商店街を知ったのはここ一ヶ月くらい最近というね。。灯台下暗しってやつですな( ;∀;)
ってなわけで、そんな近くにある商店街に行って、今でにそこで営業しているお店にも取材してこの商店街の実状を調べてまいりましたので、以下で紹介したいと思います!
労働者の街「川崎」にある商店街
東京湾沿いにある京浜工業地帯を中心に、高度経済成長期から労働者の街として発展した神奈川県の川崎市。
川崎というと工場地帯というイメージが強いように感じますが、数十年前までは雰囲気はいいとは言えず、仕事を終えた労働者たちが癒しを求めて大変多くの飲み屋や歓楽街などがあった街でもあります。
今回紹介する小向マーケットもそんな川崎市にあるわけですが、小向マーケットがあるのは川崎駅よりは結構離れた場所なんですよね~。
最寄り駅はJR南武線の鹿島田駅になるんだとは思いますが、どの駅からも遠くて結構アクセスが悪い場所だったので、行くのちょっとめんどかった・・(笑)
でもちゃんと私は鹿島田駅から歩いていきましたよ。というのも、私は結構な貧乏性で絶対にタクシーは使わないという性格でしてね。高いじゃん(笑)
じゃあバスで行けよって話ですけどね・・。まっ、帰りはバスで帰りましたけどね( ;∀;)
そしてJR鹿島田駅から歩くこと30分ほどでようやく到着。住宅街の中に突然こんな建物が現れる光景にはちょっと驚きましたわ( ゚Д゚)
とはいえ、まだ商店街が現存していてヨカッタ~(*’▽’)
ということで、早速小向マーケットの中に潜入してみることにしましょう!
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凄まじいレトロ具合の商店街・・
いや~~こりゃすげぇですわ!!
中を覗いてみてそのレトロっぷりには圧倒されました。訪問したのは土曜日の13:00。日曜日は商店街のお店が休みということで、何とか土曜日に時間を作っての訪問っていう流れですわ!
とはいうものの、ほとんどシャッターが下りてしまっており、凄まじいレトロっぷりっすね。
表面がホコリやら何やらで汚れている感じやこの字体。字体は再現できても、何年も経過して劣化した様は何十年もの長い時間が経っているからこそ観れる景色。
末廣堂、第一屋洋品店などは当初からここにあったお店の名前。この商店街はほとんどお店が入れ替わることなく続いていたんだろうな〜。
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かつてはここの二階ではお店を出していた方が皆ここに暮らしていたんだろうな。。今でも営業しているお店の方はまだこの商店街で暮らしているみたいですけども。
ちなみにここは駅近などのアクセスが良い場所ではなかったということもあってか、東京都立石にある立石デパート商店会(現:呑べえ横丁)や横浜にある都橋商店会のように飲み屋が入ることなく今でも個人商店が入ったまま。
横浜市磯子区にある浜マーケットなんかは商店街の規則があり、飲み屋の店舗は入れないっていうケースもありますけども、ここはどうだったんでしょうね。。
↓立石デパート商店会と浜マーケットの記事はこちらですm(_ _)m
川崎というのは元々川崎に住んでいる方もいれば、京浜工業地帯で働く家族が越してきたり、旭硝子の労働者として沖縄の方が多数移住してきたりと周辺の工場による影響が大変大きい街。
まだ高度経済成長機やバブルの頃のように大型スーパーやコンビニエンスストアがはびこっていない時代は、ここも多くの周辺住民が日用品を求めて買い物に来たことでしょうな。。
隅々まで商店街を観察
片方の出口の上部にはこんな光景も見られました。50年近くが経過しても、まだまだペンキは剥がれずに残り続けていますわ。ここの特売日は8月18日と28日だったんですかね。正式名は「小向マーケット商店街」になるのかな?
住所や電話番号も書かれていますけど、この電話番号に電話したらいったいどこのお店につながったんだろ?マーケットの事務所とか?
一部を拡大しますが、時計と配電盤も絵になりますな~~。時計は7時間近くずれているというかそもそも動いてないのかな??(笑)
その隣には配電盤があるんですが、なんかむき出し状態で時限爆弾みたい。。
避難通路表示板には、かつての商店の屋号が書かれていました。避難通路って言っても、火事か何かあったら両側の出口に逃げ出すしかないわな( ;∀;)
商店街の中に今でも火災報知機はきっちり取り付けられておりますぜ。商店街って消防法とかその辺の規則がどうなっているかはわかりませんが、こんだけの築年数の建物だし木造だし火災報知機は取り付けておかないとあかんかもな~。
上を見上げると天井もなかなかイケてる感じですわ!
トタンでカバーしてあり日が射すだけあって昼間でも明かりは確保できていますが、一部トタンが剥がれていて雨の時はちょっと辛いっすな。。これ、登って修理すんのもメチャクチャ大変そうなので、ずっと放置されそうな気がしますな~~。。
外から見てみると、一部では既に取り壊されている箇所もあったり、、
さらに外から外壁を見てみるとなんか微妙に左に傾いているようにも見えるんですが、実は写真そのものが微妙に傾いているようにも見える・・( ;∀;)
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なぜここに商店街ができたのか?
次のページで商店街のお店を取材した内容は書きますが、フライングしてこのネタをここで書こうと思います。そもそも、この小向マーケットがある川崎市幸区は、太平洋戦争が終戦した頃まではまだそこまで住宅が広がっている場所ではなかったようです。
上の今昔マップを見てもわかるように、真っ白な部分が割と見られますよね。ただ、この辺には大正時代頃から「古市場」という地名があることから、何らかの市場はあったっぽいです。。
ところが、高度経済成長期になり人口が増加したことや、川崎市は結構広範囲に渡って空襲の被害を受けたことから住宅地がその周辺に拡大したのかもしれません。あくまでこれは推測ですけどね。。
小向マーケットの周辺が昔どんな街だったのか、それを探るためにもう何十回も訪問している神奈川県立図書館で見つけたこの辺の一番古い住宅地図は1971年。
こちらを参照すると、小向マーケットの周辺は東芝の小向工場が一番象徴的ではありますが、その他には市営住宅や工場(こうば)がたくさんあったみたいなんですわ。
そんな感じでこの場所に人が多く住むようになったときに露天商が一角に集められたのがこの小向マーケットって感じなんですかね〜。この辺の誕生の歴史はもうちょっと図書館で調べてみて、収穫があれば追記しようと思います(⌒-⌒; )
ではでは、次のページでは今でも小向マーケットで営業を続けているお店へ突撃取材した様子を書いていきたいと思います~(*’▽’)
コメント
私は地元の人間ですが小向マーケットを取り上げていただきありがとうございます。
幸区は手酷く空襲にあい焼け野原、小向マーケットができたのは恐らく終戦直後だと思います。70年くらい前でしょうか、私は50代半ばですが小学生の頃はまだまだマーケットは元気でした。入口辺りににピンボールを置いた店がありよく遊んでいました。ここら辺は東芝小向工場もありますが川崎競馬の小向厩舎もありスーパーが出来るまでは需要がありました。こちらの豆腐屋さんはおいしいですよ、昔懐かしいラッパを吹きながら自転車で売りに来てくれます、雨の日は蓑笠姿で売りに来てくれます。あとアクセス方法ですが川崎駅から土手回りというバスを使うと5分くらいで来られますよ。
コメントありがとうございます。
こちらの地元の方でしたか!!
>ここら辺は東芝小向工場もありますが川崎競馬の小向厩舎もありスーパーが出来るまでは需要がありました。
なるほど、確かにスーパーはライバルですもんね。
そうしたお店ができると、よほどの常連客ジャない限り離れてしまいますもんね。
豆腐屋さんもラッパを吹きながら売りに来てくれるんですね。
地元なら出羽の貴重な情報、ありがとうございました。