京浜工業地帯にあった工場労働者の楽園「鶴見入船カフェー跡」にはどんな歴史があったのか!?

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今回は、神奈川県横浜市の鶴見区にあるかつての青線に焦点を当てます。
鶴見って関東にいる人は知っている方が多いかもしれませんが、全国的にはさほど有名ではない地名かもしれないですね。でも、ここはJEF(旧:日本鋼管)や旭硝子などの工場がある工業地帯であったり、それによる出稼ぎによって沖縄の方や多国籍の方が暮らすなど結構ネタが豊富な街であります。
その付近に、知られざる青線、いわゆる私娼窟が工場地帯のそばにあるということで精力的に調査をしてきたので、その記録を以下に放出したいと思います(*’▽’)
本記事のポイント

・鶴見には、三業地とは別に工場労働者が押し寄せた青線があった
・1970年頃が最盛期で、バー、小料理屋、連れ込み旅館が多数あった
・現在はバーの建物跡が見られるのみで、お客は川崎駅前に流れた

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鶴見周辺には多数の歓楽街があった!

▲京浜工業地帯にある昭和電工
鶴見というと、大正頃に実業家で『明治のセメント王』といわれた浅野総一郎(あさの・そういちろう)が中心となって誕生した京浜工業地帯があります。
昭和電工、旭硝子、JFEスチール(旧:日本鋼管)などなど様々な企業があり、それによる恩恵も多く得ている街。それだけたくさんの工場があり、工場労働者が働いているわけですから、彼らたちのために多くの歓楽街も誕生しているわけです!!
鶴見の工場地帯の近くにある歓楽街はこちら。鶴見というと、京急鶴見駅のそばに三業地だったエリアがあり、その場所は今でも飲み屋や数店の風俗店が軒を連ねるエリアとなっています。少し時代を感じる建物も多く、私は鶴見という歓楽街はここだけだと思っていました!!
が、鶴見は三業地だけではなく工場地帯に近い所に、今回の調査対象である青線の「入船カフェー跡」もあるんですね。
▲日本を代表するソープ街「堀之内」
さらには、すぐ隣の川崎駅、京急川崎駅にも超有名ソープ街である堀之内や元川崎遊郭のエリアだった南町もあるわけですよ!
堀之内というと、日本を代表するソープ街でもあり、「技の堀之内」なんて異名が作られただけでなく、小説の舞台にもなったソープランド『白亜館』があったりとネタが豊富な色街になります。
この辺の取材でも、「東芝の方々は、夜勤明けに給料袋をもって飲みに来た!」「日本鋼管の方が朝にソープへ来るときは、朝食としておにぎりとみそ汁を作ってあげていた!」と聞くように、京浜工業地帯などの工場で働く方々はこれらの歓楽街にお世話になってきたわけですね(*’▽’)
↓堀之内や南町に関する内容は、以下の記事をご参照くださいm(__)m



そのように、この辺りには多くの歓楽街が存在したんですね。多分バブルの頃なんてのは、どこのお店も工場労働者で一杯だったんだろうな~~。なんて思いを馳せつつ、ではでは、さらっと鶴見・川崎あたりの歓楽街を紹介したところで、今回の調査対象である「鶴見入船カフェー跡」の調査記録へと参りましょ~~!!

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さっそく現地取材へ!

▲入船カフェー跡の最寄り駅「鶴見小野駅」
ということで、早速現場へと足を運ぶことに。最寄り駅である鶴見小野駅は、JR鶴見線というこれまたネタが豊富な路線に乗ってたどりつけるわけですが、私の住まいが川崎市というわけで、さほど遠いというわけでもない!!
家からドアtoドアで一時間はかからなかったっすわ(*’▽’)
向かう先は、上の地図で青く囲った場所ということで、最寄り駅はJR鶴見線の鶴見小野駅ですね。ということで、駅を降りてから10分ほど歩いて取材現場へと向かいます。

バーや小料理屋が軒を連ねたメイン通り

駅から10分ほど地図を頼りに歩いていき、ようやく現場に到着。今では飲み屋街というよりかは住宅街になっているようです。ここは、のちに詳しく書きますが、一番栄えていたと思われる1970年頃には多くのバーや小料理屋が軒を連ねたメイン通りだった場所。
地図で示すと、黒丸で囲った通りです。上の写真で撮った場所は末吉湯という銭湯があった北側。まずは、そこからメイン通りを通って南側に進んでいきます。

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▲手前は看板すらなくなったバーの遺構
で、早速こんな感じの建物が姿を現しました。四件の飲み屋の建物跡ですかね。このような景色は日本中の至る場所で見てきてはいるものの、廃れ具合がなんとも切ない。最盛期はここで工場労働者の男たちが仕事の憂さ晴らしなどをしていたんですかね。。
建物の上部には何かネオンの看板でも取り付けられていたんでしょうか??骨組みだけが残っていますな。
左側の店は「ニュー九州」。この辺は他所(よそ)者も多いと言っていたおっちゃんもいたのですが、九州からやってきた方のお店だったのだろうか。。
▲バー、小料理屋、連れ込み旅館の遺構
その反対側にもなかなか見応えのある遺構が生き残っています。道路側もそうですが、写真の右側にある車の脇には遊郭跡などでよくみられる細い通りがあり、その通りの両側にもバーや小料理屋が軒を連ねていたそうです。
そして、上の写真の車の脇にある建物は、1970年頃からあった連れ込み旅館である『青森家旅館』の遺構だと思われます。
青森家旅館の入り口は多分これ。さらにその先の細い通りにも、このように入り口のドアが残っております。こういう表からは見えない路地にあるお店ってなんか怪しい匂いを感じますわ。
▲かつて飲み屋が軒を連ねた跡地
それらの遺構の先には、このように駐車場が広がっております。が、実はここもかつては飲み屋が軒を連ねていた場所でした。駐車場の真ん中には奥に向かって細い通りがあり、その両側には四軒づつ飲み屋の建物があったそうな。
地図で示すと、上の黒丸で囲ったエリア。今ではもうその名残を示すものは綺麗さっぱり、何も残っておりませんでした( ;∀;)
▲開発が行われる中で生き残っている鳥居
その駐車場の脇にはこのような鳥居がありました。どのような経緯でここに鎮座することになったのかは全くの不明で、神社の名前すら不明。。
遊郭があった場所には、よく大鷲神社(おおとりじんじゃ)があり女郎さん達の心の支えとなってはいたというのは、吉原遊郭跡、永真遊郭跡、平塚遊郭跡など様々な場所で見られましたが。。
でも結論からいうと、この青線には関係はないっぽいですけどね。昔の地図を見ると、この通りに飲み屋が出現する前からこの神社はすでに存在していたようなので。
ここは1970年代には射的屋さんだった建物。一階には何やら怪しげな扉がありますが、80年代頃からはバーとして営業していたそうです。
そして、通りの端にまでやってきました。こちらの建物は、よく遺構として紹介される建物です。とても怪しいですが実際に旅館ではなかったそうで、これが売春に関係がある遺構なのか何なのかはよくわかりませんでしたわ( ;∀;)
ただ、建物の一階には変な形で白い建物がめり込んでいますが、これは「ニュー道代」というバーの遺構です。

当初から青線地帯として栄えた一角

メイン通りを一通り見終えた後は、もう一つ飲み屋とかが固まっていた場所に!
地図でいうとここです。この領域、ちょっと上の地図は小さくて、特にスマホだと見づらいかもしれませんが、大きな通りに面している場所だけでなく一角には細い路地がT字の形で存在しており、その路地に多くの飲み屋が軒を連ねていたそうです。
▲かつて細い路地があった名残りがある
今現在は駐車場となっているものの、その名残は今でも確認することができます。上の写真を見ると、中央から奥に向かって柵があるのがわかるでしょうか?
この柵と建物の間が、かつての青線だった時の細い通りになると思われます。左側は今は建物はすべてぶっ壊され駐車場になっていますが、かつては飲み屋などが軒を連ねていたんですね!!
そして、こここそがかつて1958年に売春防止法が完全施行される前に青線だった場所。今の駐車場になっている場所に飲み屋などが連なっていたそうです。
ちなみに、この青線エリアがいつから出現したか詳しくはわかりませんでした。ただ、1929(昭和4)年頃に内務省が出していた私娼窟リストにはここの記載はなかったので、戦前か戦後辺りに出現したのではないかと思われます。
▲ここにも細い路地だった名残が・・
駐車場の奥に進むとこんな光景が。一部だけ道になっているような名残がありますが、恐らくこれも細い路地の名残かと。右側には遺構が残っていますが、左側にも飲み屋の建物が連なっていたんだと思います。
▲なんだかすごく怪しい建物・・
扉がトタン板でふさがっており、その先には階段で二階に上がれるようになっています。が、これめちゃくちゃ怪しい。。この建物は飲み屋だったはずなのですが、なんか連れ込み旅館にかんじるんですが、一体何だったんでしょうか。。
T字の先を抜けると、また別のスナックの遺構が残っていました。奥にある「スナック チビ」はちょっと看板が新し目なんですが、もしかしたら現役の飲み屋かも。。
▲どぎつい色合いの遺構
さらにはこちら!これも、ここの入船カフェー跡ではとても有名な遺構。もう見た感じで遺構だとわかる建物で、何といっても二階にある緑のタイル状がなんとも異彩な雰囲気を放っております(‘Д’)
この建物もかつて一階がバーだった建物。ただ、右側の建物の二階はみなと観光という旅行会社か何かの事務所だったようです。。今では個人の住宅になっているんでしょうかね?
この建物の両側には飲み屋や連れ込み旅館があったものの、もう建物は新しく建て替えられてしまっています。この遺構も近いうちに取り壊されてしまうかもしれないですね。。

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その他の遺構跡などなど

メイン通りと旧青線跡を調査した後は、その周辺もぶらっと歩き回ってみました。
すると、ポツポツと飲み屋の建物を見かけることができました。いや~このスナック怪しいわ。。そして、このハートのネオンはまさに昭和という感じ。
ネオンがついている状態も撮影してみたい。。
この先は、細い路地になっていて最盛期にはこの細い路地の両側にもバーや小料理屋が軒を連ねていました。今では新しい住宅があるだけになっていますが、その中でも「小料理 まりも」の看板だけが残っているんですね。。
ここの角はかつて「みのわ旅館」「たつや旅館」という連れ込み旅館があった場所。今では新しいマンションが建っていてその遺構があったことすら全く感じさせない雰囲気に。。
▲酒屋さんだった「甲州屋」
あとはこんな建物も。このお店は「甲州屋」という酒屋さんだった建物。今ではシャッターが閉まっており現役のお店なのかわかりませんが1950年代から存在していたそうなのでかなり歴史があるお店だったそうです。
今では建物の前が自転車置き場になっているようです。。名前からして山梨県とかから移住してきた方が開いたお店だったとかでしょうか??
▲かつては映画館だった場所
この京急ストアがある場所はかつて「映画劇場 第一鶴映」という映画館があった場所。この映画館は1950年代には存在しており、1970年代にはなくなってしまい、今ではスーパーに。ただ、このお店も2018年12月にはお店を閉めてしまうそうです。
この辺りには、映画館以外にも雀荘やゲーセン、パチンコ屋などの娯楽施設も存在しており、工場労働者たちの憩いの場となっていました。
続きはこちら!当時を知る地元の方に突撃取材!
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