和歌山県串本町にあった「大島遊郭」の歴史を地元の住職と古老とともに掘り下げた!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今回は、和歌山県串本町にあった大島遊郭の調査記事になります。今まで、全国の遊郭跡を訪問していましたが、今回は初めて和歌山県の遊郭跡になります。
しかも、この大島遊郭というのは多くの文献などが残っていなく、串本町大島のどこにあったかもわからない。。ということで、図書館で数少ない資料をもとに予習をして、その後に現地取材へと繰り出すことにしました。
果たしてどれだけ情報を集めることができるでしょうか。。
本記事のポイント

・大島は、江戸時代に発展した西廻り航路により栄えていった
・名物遊女だったおゆきさんの菩提寺である「蓮生寺」にはお墓や位牌がある
・今では遊郭跡地にその面影は全く残っていない

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串本町大島はマジで何もない場所・・

今回の訪問地は和歌山県串本町です。場所でいうととってもわかりやすく、紀伊半島の一番南っすね!!ただし、アクセスがめっちゃ悪くとにかく行くのに一苦労( ;∀;)
串本へは、2018年の年末年始に行った和歌山遠征取材旅の工程に組み込んで訪問しました。しかし、この時期はめっちゃくちゃ寒いですし、和歌山県って南部になるとマンガ喫茶がほぼゼロなので、その辺は結構苦労しましたわい。。
んで、串本町といっても街はこんな感じになっているんですね。この街、一番南にあるということで、潮岬は初日の出とかで有名であり、あとはエルトゥールル号が難破した際に地元住民がトルコ人の船員さんを救出した話で有名。
串本にある大島にはそんなトルコ関連の見所として、トルコ記念館やトルコ船遭難慰霊碑があるわけですが、私が訪問したのは上の地図で「大島遊郭」と書かれた場所。ここにある港付近に遊郭があったはずですが、厳密な場所は不明。。
ということで、その大島浦の方へと向かうことに。串本から大島へ渡って、大島浦へと降りるまでは一切人気(ひとけ)無し(笑)
で、大島浦へと到着。が、ここは民家とわずかな民宿や旅館があるだけで、飲食店や売店的なお店がほっとんど無いんですよね。。果たして誰に聞き込みをしようかしら( ;∀;)

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大島の歴史を少し深掘りしてみる

ここで、現地取材へと行く前に大島はいかにして栄えていったのか、そして今回の調査対象である大島遊郭がなぜ誕生したのかという背景についてまとめたいと思います。

西廻り航路の開発によって大島は栄えた

この大島は、江戸時代の海運による寄港地でした。江戸時代には、幕府の命によって東廻り航路と西廻り航路が開発整備されることになるわけですが、特に西廻り航路では江戸時代の海運に偉大な貢献をした河村瑞賢(かわむら・ずいけん)という人物がいます。
河村瑞賢は、江戸幕府が安定して人口が増加するとともに、主食であるコメ不足が発生した時に、米どころの多い日本海側の西廻り航路を開発整備させた人物。それにより、もともと大阪方面から江戸への菱垣廻船や樽廻船だけでなく、東北地方などからの船も日本海側から下関→瀬戸内海→神戸→大阪を経て、大島を通過するようになったのです。
▲西廻り航路の通過点により大島は栄えた
そんな江戸時代の西廻り航路の発達によって、ひなびた一漁村に過ぎなかった大島浦が、急速な発展を遂げたわけです!!
大島の港は潮岬の風待ちの船が停泊していたことや、ようやくの思い出潮岬を残した船頭衆が、大阪から江戸までの第一の難所を残して一安心、この港で一夜、二夜を過ごすのが常で、中国・四国・大阪と江戸を結ぶ船路に従事する船が足を止めるのが常であったという。
阿波屋、讃岐屋、播磨屋、菱垣屋、御影屋、伝法屋などの船宿が海岸にそって軒を連ね、これらは旅館でありながらも芸者が置かれていた所もあったとか。さらには、ここには「おちょろ船」といういわくつきの船があったそうなんですわ。
▲私娼を載せたおちょろ船が出ていた
日が暮れて夜になると、厚化粧をして綺麗な着物に身づくろいをした女衆が、田代の浜から三艘のひらだに乗り込んで停泊している船へと向かう。そして翌朝、まだ暗いうちに船々から女衆を拾い、そっと外の浜につけるという形で売春が行われていたとのこと。
そう、ということで大島は遊郭ができる前は私娼窟だったわけです。港に私娼が存在し、江戸末期から明治初期の海上交通が頻繫になるにつれてその数も増し、一時は150名にも達したという豪勢さだったという。
ただし、このおちょろ船のようなモグリ営業に関しては時々手入れがあったそうです。

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明治39年に大島遊郭が誕生!

そんな私娼窟であった大島。しかし、そんな大島に遊郭が誕生することになりました。
もともと、明治30年代の頃に公娼制度を試行していなかったのは群馬県と和歌山県のみ。しかし、その後の1906(明治39)年には県下で新宮(浮島遊郭)、串本(大島遊郭)、日高郡白崎(糸屋遊郭)の三か所に遊郭設置が認可されることになります。
▲料亭の建物が残る田辺新地跡
一応書いておくと、遊郭は三か所ですが公的に認められていない私娼窟は湯浅新地(湯浅町)、阪和新地(和歌山市)、天王新地(和歌山市)、田辺新地(田辺市)、海南新地(海南市)など数か所ありましたよ!!
ただ、「なぜ大島に遊郭が誕生したのか?」に関しての明確な理由は、和歌山県立図書館の資料を漁ったり地元の方に伺ったりしたものの不明。。
新宮市史には「公娼制に踏み切らせ、新宮に遊里を作り一儲けしようという連中が、時の県知事清棲家教、東牟婁郡出身県議田原斎二、山口敏亮等を動かし、猛運動の末実施の運びとなった」との記載があるんですが、この辺は私娼がはびこって風紀上の問題があったというのが一番有力なんじゃないかと私は思っています。。
この辺は他の都道府県の遊郭でも、資料によって様々な理由が書かれていて決め手となった理由はわからないこともあるので、今回に限ったことがないですがね。

現地住人への聞き込みを開始!!

▲お店がなく誰に取材すべきか・・
大島遊郭に関しての背景はそんなところにして、早速地元の方に遊郭の事を聞くために調査を開始!で、誰かに聞き込みをしたいところではあるんですが、ほとんど民家しかないので誰に聞こうかという状態に。。( ;∀;)
地元の公民館も今日が大晦日ということで閉館しているし、喫茶店とか何かの売店でもあればその人に聞きたいところですが、そういうお店もこの辺には一切なし。ひとまず、あるいて現地人を探してみることに。。
早速、猫ちゃんに遭遇。。猫ちゃん、大島遊郭のことについて何か知ってる??(笑)
そんなふらふらしていたとき、早速一人のおばちゃんを発見。もう誰もいないのでとりあえず話を吹っ掛けてみることにしました( ;∀;)
大晦日の日にすみませんね・・。
が、この方は生まれが大島というわけでもないということで、遊郭については何もわからないとのこと。しかし、さすが地方。周辺のネットワークがあるため「××さんだったら、じもとのかただからわかるかもしれないわ。ちょっと行ってみましょうか。」といって、わかりそうな方を案内してくれることに!!
▲詳しそうな方の家に行くも無念の不在
「××さ~~ん!」と声をかけてみるものの、どうやら不在の様子。無念。。しかし、都会にいる私からしたらとっても新鮮な光景だったんですが、地方って近所の家に伺う際って呼び鈴鳴らさないんですね( ;∀;)
いきなり戸を開けてもオッケーというのは、皆が顔見知りであるからこそなんだとは思いますが!!
その後、もう一人のおばちゃんも参戦するも、「遊郭ね~、確か田代口の方にあったとか聞いたことがあるけど、詳しいことまではわからんね~。」とのこと。
「お兄ちゃん車で来たの?ここに下りてくる途中に田代口ってところがあるのよ。その辺に行ってまた誰かに聞いてみたらいいわよ。それか交番かお寺の方に聞いたらいいかもしれないわね。」
遊郭の話が分からないということで、話は遊郭以外の話題になり、「大島から串本へは、かつて巡行船やフェリーが通っていた」「大島の高校生は二つの自転車を駆使して串本の高校へ通う」など、その他の大島の話をしてくれました。
ということで、おばちゃん達にお礼を言って早速交番へと向かうことに。ん~やはりそう簡単にはいかないな。。
▲交番に伺ってみるも残念ながら不在・・
さきほどのおばちゃんの話をもとに交番に伺ってみることに。田代口の場所を聞くことと、万一遊郭関連の話を何か知っていればという期待も込めて。でも、さっきのおばちゃんが「この交番は結構お巡りさんの入れ替わりが激しいから知らんかもね。。」とのことだったので、期待は薄いですけどね。
まぁでも、それ以前の問題でした。。( ;∀;)そもそもお巡りさんはパトロール中のため不在orz
ということで、最後の頼みの綱として近くにあるお寺へと足を運んだのでした。
続きはこちら!お寺の住職と古老と遊郭を掘り下げた!
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