「箱根越え」の麓に位置する三島の色街史を、遊郭時代から現在まで掘り下げた!

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今回は静岡県三島市の色街史に関してです!三島といえば、三嶋大社が有名だったりしますが、この地は交通の要所だったりして江戸時代はかなり栄えた街だったようです。
ということで、遊郭もあったということなのでその辺りの歴史から今までの色街史をザックリまとめましたので以下で紹介しまっす( ̄▽ ̄)
本記事のポイント

・三島宿は、箱根の麓であり交通の要所であったことで栄えた
・かつては1956年まで三島遊郭があったが、その後は住宅街へ
・今はピン〇ロ数店とソー〇ランドのみで、よそ者客を相手に営業を続けている

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三島市って・・どこ?

まず、三島市がどこにあるかっていうと、上地図の場所です。静岡県はくっそデカイですが、神奈川県民の私にとっては箱根越えをするとすぐに三島市に入るということで、何度も通っていたりするわけです。
ただ、西日本や静岡県の他の市に取材に行くことが多かったため、三島市自体を散策することは今までなかったという。。
そんで、今現在はピン〇ロが数軒建っていたりもするし、遊郭もあったのでその辺りを時系列でまとめていこうというのが、今回の目的っす!

交通の要所だった「三島宿」

では、まずは三島宿が出来た背景からいきましょう!
▲三嶋大社の前を通る旧東海道
日本が江戸時代になった時、江戸幕府となり東京が日本の中心となりましたね。そんで、五街道という主要道路を家康が作るように命じ、そのうちの一つが東京から西日本への主要道路である東海道になるわけです。
全部で五十三もの宿場町が作られるわけですが、三島にも東海道の宿の一つである三島宿(みしましゅく)が作られました。そんで、何でここに宿場町ができたのかというと主に2つの理由があるようです。
三島に宿場町が出来たわけ

理由1:交通の要所だった
理由2:東海道の難所である箱根のふもとにあった
では、それぞれについて説明していきます!!

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理由1:交通の要所だった

▲町田が絹の道の通過点だったことを示す碑
だいたい街が栄えるには、「交通」という点が絡んでくる事が多いです。神奈川県の藤沢宿は、江の島に向かうための江の島道の始点であったり、町田なんぞは八王子と横浜を結ぶ絹の道の中間地点だったことが栄えた一因だったりします。
で、三島宿は静岡県の中でも伊豆半島への入り口であったことや、山梨方面へのアクセスも可能だったんですね。単に東海道が通っていただけでなく、伊豆半島へ向かう下田街道の起点だっただけでなく、山梨方面への道である甲州道の起点だったりもしたわけです。

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理由2:東海道の難所である箱根のふもとにあった

三島は箱根を静岡県側に下るとすぐにたどり着くわけですが、この箱根は東海道随一というか最大の難所であったため、上るための前に休む(または宿泊)場所だったわけです。今では車ですぐに超えることができますが、当時は徒歩でしたので相当過酷だったと思います。
私は、高校時代に友達と自転車で2回箱根を越えたことがありますが、ウルトラ鬼きつかったです( ;∀;)
マジで、車をつかえる現在の凄さに感動しました!そして、箱根駅伝でここを走る方々の凄さにひれ伏すばかりです。
▲今も残るかつての箱根越えの旧道
そして、今では国道1号線が整備されていますが、江戸時代はこちらの石畳の箱根旧街道を歩いていたわけですからね。冬なんかはすんげえ寒さでしょうし。。
▲川崎宿の成因に関わる多摩川
ちなみに、神奈川県にあった川崎宿もわりと似たような成因でした。川崎の先には多摩川が控えており、今現在は橋を渡れば速攻で行き来できますが、江戸時代は多摩川は何度も暴れる川で、渡るのは容易ではなかったのです。
そんで、西側から来た人々は川崎宿で休息をとってから多摩川を渡ったわけです。

三嶋女郎衆が有名となった三島の歴史

三嶋には、東海道沿いに旅籠が74軒ほどあり、各旅籠では泊り客に飯盛り給士をしたり売春をしたりする女(食売女、飯盛女郎ともいう)を抱えていた旅籠を飯盛旅籠といいました。
幕府は、このような飯盛旅籠で売春をする女性を置くことは風紀を乱すということで女郎屋を廃止するように促しましたが、宿場側からの激しい反対により、一軒に二人までの食売女を置くことを許可しました。ただ、このような女性以外にも、「辻君(つじきみ)」「夜鷹(よたか)」と言われた私娼もかなりいたという。
▲今も多くのソー〇店が軒を連ねる吉原
また、三島には吉原の女郎が移ってきたこともあったとか。吉原遊郭は40回以上も火事にあっていたという歴史がありますが、吉原遊郭が大火で全焼した時には大量に三島に流れてきたことがあったという。
「伊豆の三島に長居はおよし、縞の財布が空になる」という言葉もあったように、三島は旅籠一辺倒の町であり、三島宿は女郎さんたちによって支えられていたといっても過言ではなかったわけです。
▲元々は三島駅であった現在の「下土狩駅」
そんな女性たちであふれていた三島ですが、日本は明治時代に開港して鉄道が敷かれるようになると、人々は徒歩ではなく鉄道で移動をするようになります。東海道線は、箱根の山々があるせいで三嶋大社の周辺には駅が作られず、足柄や御殿場線を経由したため(今現在の御殿場線のルート)三嶋大社の結構北西側に三島駅が作られてしまいます。
そのため、三島宿周辺は衰退していってしまいます。今現在は三嶋大社付近に新しい三島駅が出来て、旧三島駅は下土狩駅と改名して今では御殿場線の駅となっています。
続きはこちら!背景を知るため、遊郭跡やピン〇ロ店への取材を敢行した!
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