戦争を経て生まれた風俗街!千葉県「栄町」の色街物語を辿ってみた!!

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今回の記事は、千葉県にある大人の街に関するお話です。知の冒険を始めて色々な場所に取材を行い、その中でも「風俗街の歴史」というのに強い関心を持ってきた私。
神奈川県はそれなりに取材を行ってきているわけですが、東京湾を挟んだお隣の千葉県に関してはまだ調査し切れていない状態だったわけです。そんで、千葉県の色街というと千葉市の栄町という場所にある街がそれに該当するようなんですね!そんで2回にわたって取材を行いある程度材料が揃ったので今回記事にしてみました!
では、以下で紹介してきましょ〜!
本記事のポイント

・栄町の風俗街は、千葉空襲後の街の復興後に形成された
・バブル期は、キャバレーや120店舗ほどのトルコ風呂、多数のフィリピンパブがあった
・今現在は、ホテヘルやデリヘルの方が人気がありソープ店は減少の一途
・バブル期以後に、韓国人が多く住むようになり韓国料理店が増殖

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戦前の栄町は畑だった??

※「今昔マップ on the web」を元に作成
戦前の様子はそこまで調査していないので詳しくはわかりませんが、戦前というか明治時代後期はこんな感じだったようです。今現在の栄町は、何もない状態。この時は、千葉駅周辺よりかは千葉神社周辺が街として栄えていたようです。
ということで、今の吉原や川崎の南町などのように「遊郭街→赤線→ソープ(トルコ)街」という背景があったわけではなかったということです。

栄町の発展は戦争が関係していた!

以下で栄町に関して紹介する前に、この街がどのような経緯を経てきたかをいきなりざっくり書いて行きたいと思います。
※「今昔マップ on the web」を元に作成
そして、昭和になりたての頃はこんな感じになっています。千葉神社周辺から街はどんどん拡大していくものの、まだ今現在の栄町周辺はそこまで建物は建っていない感じですかね??

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終戦間近の千葉空襲で焼け野原に

そして、栄町の歴史を話すには太平洋戦争を話す必要があります。背景は省略しますが、日本は1941年12月8日に太平洋戦争に突入して行きました。序盤は優勢だったものの、ミッドウェー海戦あたりを境に日本は劣勢に立たされ、最後には本土にまで攻撃の手が及びました。
本土では至る所で空襲被害を受け、そんな空襲被害は千葉も例外に漏れずに千葉空襲で大きな打撃を受けてきたわけです。ちょっと以下で本土の空襲に関してを書いていきます!

様々な都市を襲った本土の空襲

▲名古屋に作られた100m道路
日本の様々な都市を襲った本土の空襲。B-29から焼夷弾が落とされたり、機銃掃射を乱射されたりして罪のない民間人を襲った終戦間近の悪夢。しかし、その被害を被った各都市では復興計画を作り街を再生していきました。
例えば名古屋なんかでいうと、100m道路という大幅な道路を作ったりしたわけです。道路の間には遊歩道が出来たり緑が植えられたりしています。その道路の真ん中には名古屋のシンボルである名古屋テレビ塔があったりもします。
▲戦後、米軍に7年間接収されていた横浜
その一方で、370万人が住む大都市である神奈川県の横浜市は、米軍に7年間もの間接収されたことから街の復興が遅れました。
そんな背景があって、人口が増えていったときに街を何とか人口増加に耐えうる街にするために、1965年に当時の横浜市長である飛鳥田一雄が六大事業構想をぶち上げるのです。それによってできたのが、横浜ランドマークタワー、横浜ベイブリッジ、横浜市営地下鉄線、港北ニュータウンなどが作られるわけです!!
その他にも、神奈川県では川崎市や平塚市、山梨県甲府市、埼玉県熊谷市、東京では浅草付近だけでなく八王子など、首都圏だけでも本当に多くの場所が空襲によって大打撃を受けた後、復興都市計画を立てて街を再生していったわけです。

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戦後に、駅移転などの復興整備が行われた

栄町
※「今昔マップ on the web」を元に作成
そんな背景がいろいろな都市にあったわけですが、千葉県もそんな感じで空襲の被害を受けた後に、千葉市は千葉市復興計画を立案して街を復興していくことにします。
その時の目玉となったのは、「千葉駅」「京成千葉駅」「本千葉駅」などの移転でした。そもそも、国鉄千葉駅は東京方面から南側へ行くにはスイッチバックする必要があるため、めっちゃくちゃ手間だったわけです。
▲旧千葉駅の場所に建っている碑
そんなわけで、千葉駅は元々の位置よりも西側(左側)に移転することになったわけです。旧千葉駅があった場所には、上の写真のような碑が建っている形になります。
ちなみに、京成千葉駅はもともと上の写真の千葉公園の場所にありました。今現在は、駅があったということを思わせる痕跡は一切残っていない他、ここまで引かれていた線路の跡すらも復興工事にとって無くなっている感じです。
そんな千葉公園には、戦災復興記念碑が建っています。千葉空襲は1945年6月10日と7月7日(七夕空襲)の2度の空襲がありました。この空襲によって、中心市街地の7割近くが焼け野原となり、1,595人もの死者を出してしまったのです。
空襲があった年には、被害にあった方々をたたえる記念碑が建っているものですが千葉市に関してはこのくらいですかね。あまり千葉空襲に関する施設や建物はないようで、なかなかそんな歴史があったとは伝わりづらい感じかと。。
※「今昔マップ on the web」を元に作成
駅の移転を整理すると、こんな感じになります。千葉駅と京成千葉駅は、共に西側(左側)に移転する形になり、千葉駅のスイッチバックは解消され、移転にともなって繁華街も西側に移っていくわけです。
そして、千葉駅と京成千葉駅を結んでいたハミングロードという主要な通りがあったわけですが、駅の移転に伴ってこの通りも人通りは少なくなっていくわけです。
ましてや、ただでさえ栄町の賑わいがなくなった今ですからね。。車の通りは多少はあるものの、人通りでいえば本当に少ないっす。
韓国料理店や無料案内所などが立ち並ぶ通りになっているだけでなく、テナント募集の張り紙も大変よく目にするわけです。人がどんどん出て行ってしまうのか、テナントが全然入ってくれないのか。。
今や韓国人が多くなり、風俗街にも近いということでますます日本人にとってはお店を構えずらい環境になりつつありますな。。
 
ハミングロードという愉快なネーミングがついていますが、千葉駅と京成千葉駅が以前の場所にあった時にはどのくらいの人通りがあったんでしょうかね。
続きはこちら!バブル期の栄町は凄かった!
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