今回は、千葉県木更津市にあった木更津遊郭に関する記事になります。千葉県には遊郭が六カ所あったわけですが、木更津はなんせ自衛隊の基地がありましたからね。
ただ、そんな木更津遊郭に関してはいろいろ調べていても花街や芸者に関する内容は出てきても、遊郭に関してはなかなか発見出来ずの状態。。ただ、遊郭があった場所など多少の情報は集まったので、その範囲で、今回はまとめて見たいと思います!!
木更津遊郭はどこにあったのか?
そもそも、先ほども書いたように千葉県には六カ所に遊郭が存在しました。それは、千葉市、松戸市、佐倉市、銚子市(松岸遊郭)、船橋市、そして今回紹介する木更津市。
もちろん、公的に売春が認められていた遊郭以外に私娼窟(非公認の売春街)もたくさん存在していたわけですけどね。
で、この遊郭がどこにあったかに関してはこちらの鳥瞰図(ちょうかんず)を見れば分かるわけです。この地図は、まだ全国の詳細な地図がなかった明治時代に、関東近郊の町の鳥瞰図を作成し続けた松井天山(まつい・てんざん)によるもの。
んで、こちらの地図は1929(昭和4)年の時のものなんだとか。この地図が、木更津市の町並みを描いた地図では一番古いもののようで、木更津の町ではお店によってはこの地図を展示しているというほど、街の人にも知れ渡っている地図のようです。
そしてこの地図に関していうと・・
1929(昭和4年)の時は、木更津の街の中心地はこんな感じになっていました。東京湾からすぐの場所には八幡神社の一の鳥居があり、そこから幅の広い参道が一本通っていて八幡神社に到達する。
その参道には、割烹旅館などとても人が多く賑やかだったのではないかと思わせるような感じです。ただし、この参道は今はありません。太平洋戦争が行われた1941〜1945年あたりに大通りに関しても大規模な区画整理が行われた影響でです。
そんな中、木更津遊郭があったのは参道から2本ほど通りを北に行った場所でした。上の地図の赤丸でくくったエリアですね。
これは推測ですが、メイン通りが八幡神社の参道であり、そこに遊郭は風紀上設置したくないため少し離れた場所に一廓を作ったかもしれません。ただ、この遊郭がいつできて、そして当初からこの場所にあったのか、それとも点在していた遊郭がなんらかの理由で一廓に集められたのか。。
まぁその辺は何かの資料に書いてない限りわからんですね。。
そんな遊郭があった場所を拡大するとこんな感じ。ちゃんと一廓に収められている形で遊郭が描かれていました。地図上の「遊郭」と書かれた文字の周辺には白塗りの四角い枠が四つ描かれていますが、これは妓楼の名前を記入するつもりだったんでしょうね。
ただここで一つの疑問が。。大まかな遊郭の場所は分かったものの、これだけでは厳密にどこだったかはわからなかったんです。というのも、今の地図と照らし合わせても、結構区画が変わっていたり、道路に関しても今とは配置が異なっているので。。
ということで、早速現地取材に繰り出したわけですが、まずは遊郭の場所が厳密にどこだったのかを現地の方に聞き込みするところから取材スタートっす!!
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80年続く日進食堂で聞き込み!
ということで、現地取材をすべく木更津駅前に到着。といっても、今回は電車ではなくレンタカーで来たんですけどね( ´ ▽ ` )ノ
木更津駅前は、結構衰退が進んでいるようななんとも言えない雰囲気でした。。駅前というのに人が全然いないし、付近の商店街はまさにシャッター商店街という感じですし。。最近地方ばっか行っててこういう光景ばかり見ているから、本当に「日本、大丈夫か?」と思ってしまいますわ。。
んで、先ほどの章でも述べたように、まずは遊郭があったと思われる場所の周辺で聞き込み取材をすることにしやした。
地図を見て探したところ、なんとなくこの食堂で聞き込みをしてみることに。と言っても、営業中のお店ということで忙しそうだったら話は聞けないと思うので、とりあえず昼飯を食べて、そのついでに話が聞けそうだったら聞いてみようという作戦に!!
なんとなくトンカツがお店の看板メニューっぽかったので、トンヒレ定食を注文。そしてこのトンヒレ定食がマジでうまいかったんですわこれが!!お母さんが作っているということもあり、お店で食べているというか家のご飯を食べているような味でした( ´ ▽ ` )ノ
トンヒレ定食は、大変美味しかったため一瞬で完食。食後には定食のサービスとしてコーヒーをいただきました。
そしてここでお会計のタイミングを見計らう事に。私が入店した時は、お客さんは私以外に3組いらっしゃいましたが、コーヒーを飲み終えかけてた時には私以外には1組に。少し店員のお母さんたちの手が空いてそうになったので、そのタイミングでお会計を!
そして、お金を払いながら「ちょっと木更津の街のことを調べていまして。この辺りに遊郭とか花街とかがあったと思うんですが・・」と告げると店員のおばちゃんが親切に教えてくれました( ´ ▽ ` )ノ
いや〜、ありがて〜〜^ ^
遊郭に関しては、「あ〜そうそう、遊郭はこの人ブロック先に行ったところにあったよ。今は大きなマンションが建っているけどね。」とのこと。この時、先に木更津市立図書館でコピーしていた1958年の住宅地図を持っていたため、それを元に、遊郭だけでなく花街に関しても詳細な場所を教えていただきました。
ということで、日進食堂のおばちゃんの話をまとめると、木更津駅周辺の色街図は上の地図みたいな感じになり、その中で木更津遊郭があったのは上の地図で赤く塗ったエリアになりました。ただし、年代は完全に無視しているので同時期にこれらがあったかは不明。。
そんで、この色街は全て駅の西側に集中していますが、木更津駅周辺は東京湾から舟運の影響で、海側である西側が栄えていました。木更津駅ができたのは1912(大正元)年8月21日であり、その後少しづつ東口も開発されてきているって感じですね!!
日進食堂のおばちゃんは、遊郭だった(もしくは赤線時代の特殊飲食店の時の建物だった可能性もありますが・・)建物に入ったこともあるらしく、その建物は10年くらい前に取り壊されてしまったそうです。
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木更津遊郭があった場所を取材
日進食堂のお母さんから聞いた話をもとに、遊郭があった場所へ行ってみることに。ただ、もう痕跡は何もないとのことなので、本当に行っただけで終わりそうですが。。(⌒-⌒; )
そして、日進食堂から歩いてすぐの場所にあるここが木更津遊郭があった場所。先ほどのお母さんがおっしゃっていたように、左側には大きな新しいマンションが建っていますな。
ここで、松井天山の鳥瞰図から考えると、ここが木更津遊郭の入り口であり、ここから伸びる道がメイン通りだったのではないかと思われます。メイン通りといってもすぐに突き当たる短い道ですけどね。。
さらには、遊郭というと入り口には大門があるというケースがよく見られますが、木更津遊郭にも門があったんでしょうかね?最初に紹介した鳥瞰図には、門らしき絵は描かれていませんでしたが。。
そして、遊郭跡を調べてみたものの予想通りで名残はマジでないです。。この辺になっている建物はどれも新しく、さらには公園になってもいました。あとは電柱だとか気になる事には目を配らせてはいたんですがね。。
ただ、唯一の名残と言えるかもしれないのがこちらの未舗装の道路。なんか変な場所に電柱も立っているし、きちんと区画が整理されておらず未舗装の道に沿って家が建っていたりしています。
もちろん、「未舗装の道路=遊郭や私娼窟の跡地」とは限らないですけども。
この未舗装の道は、細長く続いていたんでなんか気になったりはしましたが、昔の地図を見る限りこの変はいかがわしい店はなさそう。
一通り跡地を見たとことで木更津遊郭があった場所の拡大図を。1958(昭和33)年ではこんな感じになっていたようで、遊郭があった場所を赤く塗っています。が、この範囲に関してはあくまで予想なので、もうちょっとエリアは大きかったかもしれませんけどね。。
この時の地図を見ても、遊郭の名残的なのはそう多くは見られませんでした。もしかしたら、幸楽旅館とかは遊郭だった建物だったかもしれませんが、この辺の旅館はいわゆる連れ込み旅館ではなく、仕事関係で木更津に来た方が宿泊したビジネス旅館だったそうです。
なんかビリヤードは、そういう歓楽街的な名残のような気がしますが、バーやスナックなどの飲み屋、さらにはここにはトルコ風呂などの風俗店もなく、遊郭(赤線地帯)だった後は、すぐに住宅街に変貌していったっぽいです。
木更津遊郭の取材に関して、今回はこれで終了です。もう何も痕跡は見つかんなそうですし。ということで、早々とこの地を去って、私はtつ先の取材先である千葉県館山市へと移動したのでした!!
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おわりに
以上が、木更津遊郭に関して今回調べた限りの情報になります。今回の調査を行うにあたり、千葉県立図書館と木更津市立図書館はスタッフの方にも手伝ってもらって資料を発掘してみましたが、こんくらいしかわかりませんでした。。
ただ、木更津に関して言うと遊郭よりも花街に関する内容は結構集まっています。名物の木更津甚句があったり、さらには今現在も現役の芸妓さんがいるということでもありますので。
ということで、この記事の続編的な感じで花街バージョンの記事もこれから作成するのでそちらの完成まで少々お待ちいただければと思います。
以上、木更津遊郭についてでした〜〜!
参考文献
詳細・地図
住所 | 千葉県木更津市中央3丁目6の周辺 |
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アクセス | JR木更津駅から徒歩10分ほど |