今回は、千葉県松戸市にあった平潟遊郭(ひらかたゆうかく)に関する記事になります。松戸というと、今ではつけ麺がで一世を風靡した『中華そば とみ田』ってイメージがある人が多いんですかね??
私としても松戸って、徳川昭武(とくがわあきたけ)の戸定邸(とじょうてい)くらいしか思い浮かばないですけども。。ただ、そんな松戸にも平潟遊郭という遊郭が存在していたそうなんですね!!
本来は戸定邸に行くために松戸に行ったのですが、せっかくなのでそのついでということで平潟遊郭跡もちょろっと伺って取材してみました!平潟遊郭があった場所には果たしてどんな物語が眠っているのか??
舟運の発達で平潟遊郭は誕生した
千葉県には全部で六ヶ所に遊郭がありました。その中でも、銚子にあった松岸遊郭や本城遊郭は、利根川水運の発達によって、利根川沿いに遊郭が誕生したということで、平潟遊郭と少し背景は似ていますかね!!
↓今のところ千葉県の遊郭に関しては、松岸遊郭と木更津遊郭を記事にしていますので、以下の二つもよければ見てみてくださいね(*’▽’)
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平潟遊郭の栄枯盛衰
江戸川の舟運によって飯盛旅籠が誕生
ということで、さっそく平潟遊郭の跡地へと向かうことに。平潟遊郭があったのは、上の地図で赤く塗った場所っす!JR松戸駅からだいたい歩いて10分くらいの場所ですかね。
平潟はもともと江戸川の河川交通の要所であり、船乗りにとっての慰安街でした。最初は、陸に旅籠屋があったわけではなく、女性が碇泊(ていはく)船に漕ぎよせて、船の中の掃除や洗濯などをして、ついには一夜を共にするというもの。
それが、やがて陸の旅籠屋に定着していったという流れのようです。松戸宿の平潟河岸には1626(寛永3年)に一軒につき二人の飯盛女を置くことが許された飯盛旅籠屋が軒を連ねていました。
近くにあった松戸宿というは、水戸街道沿いに発達した宿場町だったんですね。松戸宿は水戸街道沿いということで人の往来も多く、28軒の旅籠屋をはじめ多くの商売の店が軒を連ねたわけですが、平潟というのはこの松戸宿からは独立した街だったようです。
上の地図を見ると、水戸街道沿いに松戸宿が発達しており、平潟遊郭はそこから少しだけ離れた場所にありますね。なので、松戸宿と平潟の飯盛旅籠というのは位置は近いものの、成り立ちは舟運と陸の街道がきかっけという異なった経緯によるものだったみたいです。
ただ、代官所からは平潟の飯盛旅籠屋を表通りの街道沿いへの移転が命ぜられていたそうですが、これを拒み続けていたという。
最初は旅人を誘致して稼業をしていましたが、次第に船頭船子はもとより、近隣の百姓らが対象になり、宿駅の風紀は乱れ、農事を怠るものも出てきた。
そのため、代官は平潟の飯盛女に対して、再三にわたって旅人以外の者に女を淫売・酒の相手として差し出さぬように通達していました。あとは、衣類は布木綿以外の紬(つむぎ)・太織りの着用禁止、髪型その他を質素にするとかとか。
その後、1872(明治5)年に人身売買が禁止されたことで貸座敷業と名を変え、1898(明治31)年に松戸三丁目と樋野口の同業者をこの地へと移転合併させて、平潟遊郭と呼ぶようになりました。
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関東大震災後に遊郭は最盛期に!
江戸川の平潟河岸に大門を構え、堤から上って入る妓楼の情景は江戸の吉原を模しているとの評判をもしていたらしい。西側(上図の左)が江戸川に面しているのでこちらが正門だったそうです。東側(上図の右)は裏門だったという。
このように、平潟遊郭の入り口の東西には大門があり、てっぺんには外灯が着いていました。各々の妓楼は和風と洋風に大別でき、福田家と百年が外見上洋風だったそうです。
遊郭の主力は、内藤新宿系らしく、叶家、百年、浜名家や九十九楼(後の三井家)などが1923年9月に発生した関東大震災前にここへ進出してきたそうです。
関東大震災前に内藤新宿から来て、1929(昭和4)年頃に三井家に改名。楼主が吉原にも負けない立派なものという意気込みを込め、唐破風の玄関、張り出した二階である堂々とした建築だった。
福田家
一見洋風で、一番の売り上げの店。遊郭の東側外れには、当主が釣り好きということで、福田屋の当主が経営していた釣り堀がありました。
宝家
三井家の支店。戦時中に廃業したが、戦後に他の経営者が再開した。
第一鶴宝莱
1915(大正4)年に蓬莱家の鶴さんと開業。1926(大正15)年には、花若を買収し、第二鶴宝莱とする。
江戸川の舟運によって栄えた平潟遊郭でしたが、大正期には、利根川・江戸川筋の汽船事業は廃止されることになります。そう、鉄道の誕生です。1896(明治29)年の12月25日には、日本鉄道の田端・土浦間が開通し、松戸駅が誕生しました。ちなみに、この常磐線は福島方面からの石炭を輸送する目的で誕生しています。
この鉄道の誕生によって舟運は衰退していきましたが、平潟遊郭はまだまだしぶとく栄え続けたという( ;∀;)
舟運は衰退しても、男の性欲は衰退しなかったようです(笑)
その後、1923年9月1日に関東大震災が発生。この震災によって、多くの人が密集して暮らしていた東京は廃塵と化し、神奈川県や千葉県の郊外に住宅が広がっていくことになります。
平潟遊郭があった松戸市は、それにより人口が急増。この人口増加によって松戸の町村は昭和に入ると鉄橋建設や道路整備など都市の性格を持つようになり、平潟遊郭もこの頃に最盛期を迎えたとのこと。
お客さんは江戸川を使って移動していた船乗りが途中で遊びがてら寄ったというケースが多いんじゃないかとは思います。舟運が衰退したあとは、船乗りは減ったでしょうが松戸には1919(大正8)年に陸軍工兵学校が出来たりと軍隊もいたことで、軍関係の方も多く来客されたのではないかと。
ただその他には、三井家(九十九楼の後の遊郭)は堂々たる建物だったので、東京で遊びに飽きた人が田舎の空気を好んで芸者(松戸には三人いた)を上げての遊興をしたなんて方もいたんですって!
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平潟遊郭で働く女郎たちの暮らし
女郎さんたちは、週に一回日曜の午前中には、全員おばさんに連れられて松戸診療所へ花柳病の検診に行っていたという。軍隊が近くにあったということで、特に性病に関しては厳しかったそうな。
また、巳の日には松戸市役所の近くにある池田弁財天へとそろってお参りをし、下の病気にならないよう、またお客が来るように祈ったという。
ちなみに巳の日とは、日本古来からある暦の中で、十二支が巳に当たる日を言います。なので、12日ごとに巳の日はやってくるわけです。
さらに、ここで働く女郎さんたちの出身地はどこだったのか?
昭和初期は不景気で、特に1934(昭和9)年の東北大凶作はかなりひどかったとか。したがって、娼妓に売られてくるのは平潟遊郭でも秋田・山形・岩手出身の17~8歳の女の子で、親の借金の肩代わりとして、四年契約の年季で、周旋屋につられてきたようです。
平潟遊郭についての歴史はこのくらいにして、続いては平潟遊郭跡を訪問した記録をまとめていくことにしますね!!
コメント
この年配の女性と同じように仰る方は、昔の松戸には大勢居ました。
その弁護士の家もいままだ松戸に変わらずにあるのが不思議です。
私は昭和39年~41年まで遊郭の建物(元宝家)に住んでおりました。
幽霊が出るなど諸々いわくつきの家でしたが、懐かしく拝見いたしました。
有難うございました。