上大岡にあった大久保花街は「浜の箱根」と呼ばれてた!?

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どうも、こんにちわ~~!

知の冒険では、いろんな場所の遊郭や花街跡を取材してきましたが、今回の記事は横浜市の上大岡駅前にあった大久保花街についてまとめた記事になります!

上大岡は、京浜急行の駅の中でも快速特急が停まるとても栄えた駅ですが、かつては田んぼしかない場所で、昭和の初めの開発計画から発展してきた町なんですね~。

そんな上大岡という街には、いかにして花街が誕生し、そこにはどんな歴史があったのかに関してを結構時間をかけて取材してきたので、以下で紹介していきたいと思いまっす!!

本記事のポイント

・上大岡の開発計画により、大久保花街が誕生した
・大久保花街は「浜の箱根」とも呼ばれ近くに箱根通りもできた
・1960年ごろから衰退していき、現在は名残りが全く無い・・

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横浜には花街がたくさんあった

今回の調査対象である上大岡があるのが神奈川県横浜市。

※「今昔マップ on the web」を元に作成

今まで、知の冒険では横浜市にある花街はいくつか調査しておりましてですね。横浜の花街というと、明治の頃までは関内、関外、神奈川の三つの花街が有名でした。

これは、まだ横浜の街が開港した関内周辺に集中していたのが大きく関係すると思われます。

ところが、 1904(明治37)年7月15日に横浜の市電が開通し、また関東大震災で市の中心部が大ダメージを受けた関係で、人々の住居が市の中心部からその周辺に広がっていきました。そしてそれに伴い、花街も周辺にポツポツと誕生するようになります。

井土ヶ谷花街にあった検番の落成

日本橋、井土ヶ谷、弘明寺、上大岡、磯子などの花街が誕生し、一番多い頃には横浜市内だけでも20か所ほど花街があったんですね。

そして、今まで知の冒険では日本橋、井土ヶ谷、磯子の花街に関して調査して記事にしましたが、今回は上大岡にあった大久保花街に関して取り上げるって感じです!

↓調査した花街の記事はこちらですm(__)m

立派な住宅街となった上大岡

という感じで、横浜の花街に関して凄く簡単に説明しましたが、今回の調査対象はそんな背景で誕生した上大岡にある大久保花街です。

上大岡というと、今では上の写真のような街に発展しており、私のいとこの家族も暮らしている住宅地でもあるんですよね。もう大久保花街の名残は残ってなく、めっちゃ開発されまくった街ですが、この街がどんな歴史を経て誕生し、大久保花街にはどんな歴史がったのか。

その辺りを、紐解いていくことにしましょう!

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田んぼだらけだった上大岡

まずは、上大岡という街がどのように発展していったのかを見てみることにしましょう!!

中心部の南に位置する

ちなみに、神奈川県民とかじゃないと上大岡ってピンとこないと思うので、一応地図を出しておこうと思います。

市の中心部である横浜駅やみなとみらいがある桜木町駅からは南側に位置しているって感じですね。横浜からは京浜急行の快速特急で一駅ということもあり、アクセス面では悪くないので結構人気な住宅街だとも思っています!!

1900年頃の上大岡
※「今昔マップ on the web」を元に作成

そんな上大岡ですが、150年くらい昔、つまり明治の頃というのは丘陵地帯で複雑に入り組んだ谷戸だった場所のため、人々が住むにはケッコー暮らしにくい場所だったそうな。

戸数を見てみても、1828(文政11)年には51戸で1867(明治元)年には50戸ということで、暮していた方はごくわずか。彼らは農業をして上大岡でくらしていたそうです。

上の地図は1900年の地図ですが、もちろんまだ上大岡駅はなく大岡川が流れていて田んぼとかがあるだけって感じ。大久保花街があった場所も赤枠で囲ってみましたが、このときはまだ田んぼとか畑ですね。

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開発計画に練りこまれた花街誘致

1924年に誘致が決まった横浜刑務所

そんな閑散とした村だった上大岡は、昭和初期から発展していくことになります。その大きなきっかけになったのが関東大震災。この災害で、根岸にあった刑務所が全壊全焼してしまい、横浜刑務所を誘致して1924年に建設工事が始まったんですね。

それから上大岡周辺の道路や排水管などのインフラ工事が進み、1927(昭和2)年には久保村だった上大岡が横浜市へ編入したことで色々な商売人が現れて町が発展していきます。

上大岡駅から大岡川をはさんだ大久保に花街が出現したことも、上大岡の発展には欠かせない出来事になりました。大久保はもともとは久保村という村であり、横浜市編入の際に名称が変更されました。久保村の小作農民の間では、第一次大戦後の好景気や震災の復旧工事で、農業をやめて日雇いに行く傾向が強かった。

日当で買った米を買った方が自分で作るよりも早いというわけ。地主層は土地の転用を考え、湘南土地株式会社と提携し、大規模な久保村の開発計画が出来たのです。

そんな開発計画の一つだったのが、花街の誘致だったようです!

ここから、花街誕生の背景に迫っていきたいと思うのですが、まずは大久保花街がいつから誕生したのかを見てみることにしましょう!

引用元『横浜市史稿 風俗編』

誕生時期に関しては『横浜市史稿 風俗編』という資料に記載されていました。

各地の検番の所在地と設立時期が書かれているんですが、大久保は大正の時代に設立したと記載されていますね。大正の時代 というだいぶざっくりな範囲ではありますけども( ;∀;)

大まかな誕生時期がわかったところで、その誕生にはどのような背景があったのか?

そこで、横浜市中央図書館で資料を漁ったところ、『THE・再開発-横浜市上大岡の記録』という資料に興味深いことが書かれていたのでちょっと抜粋してみますね!

この開発計画のひとつに花街の誘致があった。
弘明寺にあった花街は、1920(大正9)年、横浜高等専門学校(現:横浜国立大工学部)の開校に伴い移転することになり、それを誘致しようとしたのである。風紀面から反対の声もあったが、横浜刑務所を誘致したのと同じ様な理由で「土地発展のため」として花柳界は大久保に姿を現してきた。

THE・再開発-横浜市上大岡の記録

ここに書かれている「誘致しようとした」ってのが気になります。しようとしたけども、実際は誘致しなかったのか、誘致したのか。。その辺が読み取れないんですよね。。

その他の資料としては、『西区の今昔』という資料にも弘明寺花柳界のことが書かれていたので、またまた抜粋してみます!

関東大震災は横浜市全域を倒壊と火災がなめつくした時、幸いにも藤棚や久保町は焼け残ったことや、弘明寺から花柳街がそっくりここに移転してきたことなどにより一躍横浜の久保町として活況を見た。

西区の今昔

一つ前の資料では「1920(大正9)年に弘明寺の花街を上大岡に誘致しようとした」と書いてあり、二つ目の資料では「1923(大正11)年の関東大震災後に弘明寺花柳界がそっくり久保町に移転した」と書いてあります。。

ところが、『横浜市史稿 風俗編』という資料を見てみると、、、

引用元『横浜市史稿 風俗編』

あれ??

この資料には、弘明寺の検番が1921(大正10)年に蒔田へ合併したと書いてるんですよね。

まとめると、以下のようになりますでしょうか。

・1920(大正9)年の学校開校により弘明寺花街が上大岡へ誘致されようとした
・1923(大正12)年の関東大震災後に、弘明寺花柳街が久保町へ移転
・弘明寺の検番が1921(大正10)年に蒔田へ合併

ん?どういうこと?

弘明寺花柳界の芸者

弘明寺の花柳界、どんだけ移転してるんだって感じですがこれ全部あってるのか??

もしかしたら、上大岡では誘致して花街を作るとしたが、誘致は出来なかったので新しく花街を作ったのかもしれん。もうちょっと詳しく書かれたものがあれば良いんですが、これだけでは腑に落ちる結論にはならないっすね~。

また、今後何か見つけたら追記しようと思います!

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花街の下に炭鉱があった?

大久保花街の調査をずっと続けていた私ですが、横浜の図書館でひたすら神奈川新聞(旧:横浜貿易新報)を大正の時代から調べまくっていたわけですが、そんななか、結構面白い記事を見つけたんですね!

1948年発行の神奈川新聞の記事

その記事を見てみると、なんと大久保花街の地下には炭鉱が存在したという!

記事によると、この炭鉱の発見は所有者の丹羽氏がたまたま花柳界に遊びに来てその帰り道のこと。ちょうど降りしきる雨水に溶けて亜鉛水が地面に染みでていたのに目がついたことが発見につながったんだとか。

埋蔵量は推定五十六トン程度で従業人は14名。戦時中の空襲で常磐炭の輸出が途絶えた時には、後を引き受けて横浜の指定炭鉱として浮かび上がったこともあったそうです。

ここは都心に近く交通条件の恵まれていることで、坑口から市道までわずか1分でした。採掘したその日のうちに、配給元に届けられたそうです。

1920年頃の上大岡
※「今昔マップ on the web」を元に作成

昔の地図を探してみると、1920年頃の上大岡駅周辺の地図には「あたん」と書かれた炭鉱が書かれておりますね!!

と言っても、あくまで亜炭なわけです。”亜”と付いているように、石炭の中でも炭化度が低いものだったので、発熱量はそれほど高くなく質は良くなかったものだと思われます。。

昭和初期に繁栄を極めた

戦後は米兵たちも集まった有名料亭「一力」

誕生背景について触れたので、次は大久保花街がどのような街だったのかについてまとめてみることにしましょう!

としたいところなのですが、この辺の詳細はいろんな資料を当たったもののなかなか見つからなかったという感じっす。。

花街の写真に関しても、お隣の弘明寺花柳界に関しては二枚ほど見つかっているのですが、大久保花街の料亭や芸者さんを写した写真は残念ながら見つかりませんでした。。

1935年1月1日の広告

とはいえ、横浜貿易新報のアーカイブを漁ってみたら大久保花街の広告が出てきたのでちょっと載せますね!

こちらは1935(昭和10)年の1月1日に刊行された横浜貿易新報に載っていた広告。これ、大久保花街の広告に間違いないですが、「大久保」ではなく「横濱湘南三業組合」と書かれていますね。

後に大久保花街になるわけですが、もともとは横濱湘南三業組合という名前だったんでしょうか。。上大岡なのに”湘南”とついているのがちょっと疑問ですけどね。。

1936年1月1日の広告

さらに横浜貿易新報を漁ってみると、翌年の1936(昭和11)年1月1日にも大久保花街の広告が載ってました。

前年の広告には全部で29軒(二業:15軒、藝妓屋:14軒) で、この年には全部で39軒(二業:19軒、藝妓屋:20軒)なので、一年間で10軒増えているんですね~。

この1936年の頃は大久保花柳界が大変賑わっていた頃のようで、『THE・再開発-横浜市上大岡の記録』には以下の記述が見られもします。

1936(昭和11)年の「更生新聞」1月1日号は、「大久保花柳界の発展は、ビックリする程である。さすがに伸び行く横浜の新箱根とは、うまい名をつけたものである」と書いた。店も40軒近くになり、芸妓は200名を数えた。

THE・再開発-横浜市上大岡の記録

とはいうものの、戦時体制が強まる中で営業は停止されてしまい、大久保花街は終戦後まで明かりが灯ることはなかったそうです。

「浜の箱根」と名付けられた花街

日本中に「××銀座」という通りが出来たり、夜景で有名な温泉地である熱海が「東洋のナポリ」とも言われるように、憧れの地名を用いて名称がつけられるというのは全国的に行われていることだと思いますが、上大岡でもそれは例に漏れなかったようです。

引用元『上大岡・歴史よもやま話』

それは大久保花街につけられたもう一つの呼び名のことであり、1936(昭和11)年には既に”横浜の新箱根”という呼び名がついていて、のちに”浜の箱根”といわれるようになったんですって!

上の画像は1950(昭和25)年に発行された『京浜急行沿線案内パンフレット』の切り抜きですが、このパンフレットには”箱根”と言うように温泉が湧いていたようで、「大久保温泉郷」という温泉街として紹介されていたそうです。

神奈川県西部にある有名観光地であり温泉地でもある箱根は、非常にネームバリューがあったんでしょうね。

今は住宅だらけの上大岡に温泉郷があったとは。。考えれん。。

東京・神奈川西部に湧く黒湯

東京や神奈川西部には黒湯という独特の湯が沸き、今でも横浜市内にある「いなり湯」「永楽湯」などの銭湯で黒湯につかることができるんですが、大久保温泉郷でも黒湯が沸いていたんだろうか。。

ちなみに、”箱根”という名前を使っていたのは大久保花街だけではなく、すぐ近くの井土ヶ谷花街でもそうでした!

引用元『郷土の民謡小唄集』

上大岡から二駅しか離れていない井土ヶ谷にあった花街でも「箱根気分の・・」ということで、箱根のネームバリューを活用していたようです。

それだけ、箱根への憧れが強かったんですかね~。。

そんな「浜の箱根」と名付けられた大久保花街の影響は、その周辺にも影響を与えていくことになります。

浜の箱根通り商栄会発足式
引用元『THE・再開発-横浜市上大岡の記録』

戦後の1947(昭和22)年1月には、駅前から久保橋に至る商店主たちが集まって、「浜の箱根通り商栄会」が発足することになります。この名称は、”浜の箱根”といわれた大久保花街の別名からとったものだったんですね~。

引用元『上大岡・歴史よもやま話』

そして、駅から大久保花街へと続く道が「箱根通」呼ばれる通りになり、その入り口には通りの名称がつけられたゲートも構えられたようですね。

しかし、当時の市電の終点はお隣の弘明寺までであり、上大岡駅から花街へ通じる道は夜になると真っ暗だったそうです。

そこで、花街の方々はこの道に何とか街路灯をつけたいと考えていたんですね。

戦後間もない頃の「浜の箱根」の街並み
引用元『上大岡・歴史よもやま話』

花街では何とか街路灯をつけたいと考え、街路灯の費用は全て花街もちで、街路灯にはお金を出した花街の料亭名を入れ、さらに駅からの道を「浜の箱根通り」と名付けることを条件に設置されたそうです。

ただ、道路には明かりがついたものの、田んぼのあぜ道に毛の生えたような道で雨が降るとぬかるんで歩けなくなる。それをどうにかしようと、大岡川から砂利をとってきて道路に敷いていたそうです。この当時は、箱根通りにホタルもいたんですって(*’▽’)

今は街も発展して多くの商業施設や住宅が建ち並ぶ街になった上大岡ですが、こんな景色が広がっていたとはな。。

箱根通だった「パサージュ上大岡」

「箱根通り」の名称は1963(昭和38)年に「上大岡中央商店街」へと変更され、「箱根」の呼び名も消えてしまいました。 。

今では立派なアーケードが架かる商店街になっていますが、ここが箱根通と呼ばれていたとはな。。

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コメント

  1. 読者 より:

    京急では快速特急ではなく快特が正式名称です

    また、「それから上大岡周辺の道路や排水管などのインフラ工事が進み、1927(昭和2)年には久保村だった上大岡が横浜市へ編入したことで色々な商売人が現れて町が発展していきます。

    上大岡駅から大岡川をはさんだ大久保に花街が出現したことも、上大岡の発展には欠かせない出来事になりました。大久保はもともとは久保村という村であり、横浜市編入の際に名称が変更されました。」という文章も、上大岡駅まで含めて大久保という地だったのかそうじゃないのかどっちとも読めます
    もう少し推敲してから記事にしていただけるとありがたいです

  2. hirokova より:

    この界隈に住んでる者です。
    この地について全く知らなかった情報ばかりで大変勉強になりました。
    一つ情報を。
    大久保2丁目界隈は「笠原」さんという方(昔の大地主?)の名字の大きなお家が点在してます。
    私が住んでるマンション(79年築)も、笠原さんの大きな土地を分割して数棟のマンションが経ってます。(相続時に地歴を確認)
    千手院さんのお話と併せて取材すると何か出てくるのかもしれませんね。
    失礼しました。

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