上大岡にあった大久保花街は「浜の箱根」と呼ばれてた!?

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戦後は占領軍の慰安施設に・・

進駐によりかまぼこ兵舎が建つ

そんな大久保花街にも、太陽戦争後の連合軍の進駐により米軍が押し寄せることになります。

日本が敗戦したあと、厚木飛行場にマッカーサーが登場してから接収作業は次々と進み、横浜には第八軍の方々が駐留して、市内には彼らが暮らすかまぼこ兵舎ら建ち並び、様々な場所が接収されていきます。

それと同時に、市内では進駐軍兵士のための慰安施設を突貫作業で設けることになります!

引用元『神奈川県警察史』

そこで大久保花街(大久保二業地)を含め、横浜市内では曙町、新天地(西区)、楽天地(保土ヶ谷区)、入船私娼街(鶴見区)、蒔田二業街などで外国人向けの慰安施設としての営業が開始されることになります。

神奈川県警察史によると、大久保花街では1945年9月3日とポツダム宣言受諾から半月余りの時間で開業することになったわけです。。突貫ですな。。

大久保だけでなく磯子花街や綱島花街などでもそうですが、花街にある料亭として営業していた建物は、戦時中になると工員寮に転用されていたものが多く、それらは外国人専用として営業することになります。

ただし、慰安施設では性病が蔓延し、1946年1月には米軍の羅病率が一番ひどい部隊では68%にも及んだそうです。そのため、3月には慰安所への将兵の立ち入りを禁止することになり、慰安婦たちは生活のために街頭へと進出するようになるのです。

かつて浜の箱根と言われた大久保花街にも街娼の女性たちが佇んでいたのか、、その詳細な記録は今のところ見つかっていません。。

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日本橋の花柳界が一時移転

日本橋花街の跡地

そんな戦後の話としてはもうひとネタありましてですね、同じ横浜市内にあった日本橋花街が一時、大久保花街に移転して営業していたという過去があるんです!!

この日本橋花街とは、横浜市営地下鉄線の吉野町駅の南側にあった花街であり、藝妓置屋や料亭もかなりの数があり、市内の中では規模の大きい花街でした。

横浜大空襲の様子

ところがどっこい、この花街は太平洋戦争時の横浜大空襲によって大打撃を受けることになります。空襲で大半の置屋や料亭が焼けてしまい、営業が一時的にできなくなってしまいました。

そこでどうしたかというと、この場所で営業を再開するまでは大久保花街の場所で営業を再開することにしたのです!!

引用元『神奈川県警察史』

それは神奈川県警察史にも記録が残っており、「横浜市内における営業状況一覧表」という表の日本橋芸妓組合という列に注目していただきたいっす!!

この日本橋芸妓組合の備考欄には、「被災後は南区大久保に移転し同一営業所で営業中」という記述が見られますよね。

何で移転先が大久保花街に選ばれたのかに関して書かれた資料は見つかってはいませんが、大久保花街は空襲の被害を受けておらず日本橋花街があった新川町・二葉町から割と近かったことが背景にあったと思います。

詳しくは、以下の記事にまとめてありますので、よければこちらも見てみてくださいね~~(*’▽’)

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現在の大久保花街跡を散策

1957年の大久保花街

以上のような歴史を辿ってきた大久保花街ですが、戦後から花街はどのような経緯で終焉を迎えたのか?

その詳しい事情は分からないですが、図書館にあった一番古い住宅地図を見ると1957(昭和32)年の街の様子は確認することができました。この時の料亭の数は九軒ですね!

ただし、ここから急激に件数が減り花街は終焉を迎えたようです。

現在の大久保花街跡

そして今回の大久保花街の調査、いつものように現地に行って周辺をほっつき歩いたり現地の方に聞き込み調査をしたんですが、、、全然収穫はなかったんですよね。。

料亭の跡地はアパートとか住宅、あとは駐車場になっておりまして。。

料亭の建物は残っていないし、昔からある中華料理屋さんとか美容院とかもなくて聞き込みできそうなお店もない。。

近くにあったお寺「千手院」

近くのお寺にお話を伺うも、「小さい頃はあの辺は『はなまち』とは言ってたよ。あと、親からは『あの辺は外国の方もいるから、あの辺には寄らずに帰ってくるように』、って言われた覚えはあるけどね。」とは教えていただけました。

でも、それ以外のことは特に覚えていないとのこと。。

近くにある青木神社

あと、花街の痕跡を探るうえでよく尋ねるのが神社。奥の花街跡の周辺には青木神社という神社があって、玉垣とかに料亭の名が刻まれてあったりと何かしらの痕跡があるかと思ったんですが、結構探したものの痕跡はなし。。

さらには宮司さんもいなく、聞き込みもできない。。

その他のお寺だったり、酒屋さんなどに話を聞くも知らないとのことでした。そもそも、料亭自体は50~60年近く前に無くなってしまった様なので、生まれてからこの場所に今も暮している70~80代くらいの方でないと記憶にはないでしょうね。。

大久保花街のBefore & After

ここがかつて「浜の箱根」と呼ばれていたとはな。。60年も経つと街はがらりと変わってしまうわけですね。。

上の写真は、戦後間もない頃の写真の左側にあるのが料亭『叶家』と『富久』野板塀のようで、今の風景と比較するとこんな感じです。恐らく場所は同じだともいますが、70年も経てばここまで街は変わるもんなんですね!

料亭『久良岐』の跡地

ただ、強いて残っている痕跡としては料亭『久良岐』の跡地に建つマンションの屋号にかろうじて見られました。

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『久良岐』の屋号が残る

今は『カーサ 久良岐』というマンションになっているようですね。

まぁこの上大岡はかつて久良岐郡だったこともあり、屋号からではなく昔の地名が由来じゃ~~と言われたら、すみませんって感じですが。。

料亭『君の星』の跡地

料亭の跡地というと大きなマンションが建ったり、更地になって駐車場になったりとケースは様々ですが、たま~~に駐車場のパーキング名にも屋号が残ってたりするんですよね。

駐車場名が味気ない・・

こちらの駐車場は「」という駐車場。。

住所がそのまま名付けられているというね。。区別するにはわかりやすいけども、何だか味気ないな。。こういう時に『君の星パーキング』とかになってたらテンション爆上がりなんですけどね・・( ;∀;)

という感じで、現地調査を行いはしたものの今回は惨敗。

消化不良であるものの、これ以上は厳しいかな~。とはいえ、この花街に関して詳しい方が現れたりしたら追加取材をしようと思います!

おわりに

ここが「浜の箱根」だったとは・・

どうでしたでしょうか??

今では住宅街となり昔の面影が無くなってしまった上大岡の街ですが、昔は「浜の箱根」とも言われ、炭鉱もあり、温泉も湧く花柳界が存在したなんて想像もできないですよね。。

とはいえ戦後まで存在しており、その後は住宅開発などで姿を消していったわけです。

もう跡形もないというのはとても切ないですが、時の流れがある以上仕方ないことですね。。

これで横浜市内の花街に関しては四か所ほど記事化したことになりますが、まだまだ掃部山、本牧、鶴見、久保町、蒔田など市内には花街があったので、調査できたところから紹介していきたいと思います~!

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市港南区大久保1丁目16の付近
駐車場 なし
アクセス 京浜急行線上大岡駅から徒歩6分ほど

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コメント

  1. 読者 より:

    京急では快速特急ではなく快特が正式名称です

    また、「それから上大岡周辺の道路や排水管などのインフラ工事が進み、1927(昭和2)年には久保村だった上大岡が横浜市へ編入したことで色々な商売人が現れて町が発展していきます。

    上大岡駅から大岡川をはさんだ大久保に花街が出現したことも、上大岡の発展には欠かせない出来事になりました。大久保はもともとは久保村という村であり、横浜市編入の際に名称が変更されました。」という文章も、上大岡駅まで含めて大久保という地だったのかそうじゃないのかどっちとも読めます
    もう少し推敲してから記事にしていただけるとありがたいです

  2. hirokova より:

    この界隈に住んでる者です。
    この地について全く知らなかった情報ばかりで大変勉強になりました。
    一つ情報を。
    大久保2丁目界隈は「笠原」さんという方(昔の大地主?)の名字の大きなお家が点在してます。
    私が住んでるマンション(79年築)も、笠原さんの大きな土地を分割して数棟のマンションが経ってます。(相続時に地歴を確認)
    千手院さんのお話と併せて取材すると何か出てくるのかもしれませんね。
    失礼しました。

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