今回は、神奈川県小田原市にあった遊郭に関する記事になります。
最近は、ラジオに出たり地上波テレビに出る機会もあったりと本当に貴重な経験をさせていただけることが出来て日々感謝な今日この頃。最近は養蚕関連の記事も多く書いたりして、遊郭や赤線系の記事をあまり書いていなかったので今回の記事が久々っすね~!
神奈川県は結構いろんな遊郭・赤線・花街などの場所を訪問して記事を書いてきましたが小田原はまだ書いてなかったんですね。。
ということで、今回は小田原の遊廓があった初音新地について、以下で取材した内容をまとめようと思います!
見出し
西相模の要所だった小田原
小田原と言えば、観光名所としては小田原城が挙げられますし、食い物で言えばかまぼこが思い浮かぶ方が多いかと思います。とりあえず小田原行ったらその二つを消化すればOKってところですかね!
西相模の要衝としてそびえ立つ小田原城は、北条早雲(ほうじょう・そううん)が小田原に進出して以降、小田原北条氏によって5代100年にわたって関東で勢力を拡大してきました。
といっても、私はあんまり小田原城の歴史に関しては詳しくないので小田原城についてはまだまだこれから勉強しなきゃって感じなんですわ。。
小田原には、旧東海道沿いをはじめ、江戸時代に建てられた建物がまだ残っていたりと昔の面影がまだ残っている街なんですね。
そんな小田原は、明治以降になると著名人や文豪などの方々が別荘を構えるようになり、産業でいうとかまぼこやブリ漁、あとは早川や根府川辺りのミカン農家の方も遊びにきたりということで、歓楽街も大いに賑わったそうです。
では、初音新地の話に入る前に、そんな小田原にはどんな感じで歓楽街があったのか、という点から見てみることにしましょう!!
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小田原にあった歓楽街は四か所
まずは、小田原には何か所かにわたり歓楽街があったようなので、ちょっと地図にまとめてみてみることにしましょう!
小田原の歓楽街としては初音新地、抹香町、裏町、宮小路があり、地図にするとこんな感じですかね。今回の記事で紹介する初音新地は遊郭があった場所であり、その他の裏町(うらちょう)や抹香町は私娼窟っすかね。抹香町は戦後に赤線になります。あと、宮小路(みやこうじ)は芸者さんがいた場所で、料亭や見番もあった花街でした。
小田原は何度か訪問していてこの辺の歴史を調べており、初音新地に関しては多少なりとも図書館から資料を得られ、抹香町に関しては遺構がちょっと残っていて現地の方を取材することは出来たんですが、裏町に関しては詳細は不明。。
一方、抹香町はというとそれなりに情報はあったりします。
小田原の色街でいうと川崎長太郎の小説の効果もあってか抹香町(まっこうちょう)が割と知られているかと思いますが、ここは遊郭があったわけではなく私娼窟だった場所。 いわゆる国には認められていないモグリの売春地帯だったということです。
ただ、戦後は赤線になりますけどね。
抹香町に関しては三度ほど訪問しており、川崎長太郎の小説を読んだり、この街に暮らす現地の方から昔の話も聞いてきております。こちらは次の記事でまとめようと思いますので、少々お待ちいただければと思いますm(__)m
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小田原の遊廓史を学んでみる
上記のように、小田原には四か所に歓楽街があり、遊郭としての一画があったのは初音新地っす。場所を地図で確認したところで、小田原の遊廓史にはどんな背景があったのかについて、ちょろっと調べてみました!
繰り返された飯盛女の設置嘆願
小田原宿に飯盛女が設置されたのは、他の宿よりもずっと遅く、文化年間(1804~1818)になってからのこと。小田原宿は東海道の宿駅の中でも交通の要衝地として重要な位置を占め、繁忙を極めた宿駅でした。
ところが、年々赤字が累積し、宿駅維持のために累積赤字対策の必要性に迫られていました。
そこで、どの宿でも浮上したのが飯盛女の設置であり、宿の活性化を図るには多くの旅行者を誘致して逗留させることにあると考えるわけです。ところが、どの宿場でも設置には紆余曲折があり、設置嘆願が何回も行われ、その結果、期限付き、あるいはなんらかの規制下で「許可」あるいは「黙認」するというケースが多かったようです。
そこで、小田原宿では1802(享和2)年に本町の名主が町の窮状を訴える歎願書(たっがんしょ)を藩に提出することになるのです。
その歎願書の提出のあと、1806(文化3)年に小田原宿の町年寄・問屋・一足肝煎らは、宿財政赤字をこのまま放置できず「これ以上宿財政の赤字を放置しておくことは宿運営に支障をきたす」ということで、飯盛り女設置許可の請願書を再び提出することになります。その結果、同年五か年間の期限付きで設置が許可されることになります。
近代における娼妓は検黴(けんばい)は強制的で、定期的に受診しなければならなかった。当時、小田原には黴毒病院がありましたが、1888(明治21)年に十字町西海子(さいかち)へ移転し、そこで娼妓たちの定期検査が行われていました。
1873(明治6)年に小田原町には27軒の「寄留貸座敷」営業が許可されていましたが、1881(明治14)年には54軒と大幅に増加。明治後期になると、小田原の貸座敷は整理され、「松本楼」「金昌楼」「菊本楼」「東海楼」「叶楼」「いろは楼」「蓬莱楼」の7軒に絞られることになります。
大海嘯により内陸部へ移転
遊女屋が旧東海道が通っていた本町、宮前町、高梨町辺りに散在していましたが、他の宿場町と同様にこういう店が散らばっているのは風紀上良くないということで、特定の区画内にのみ営業許可を出すという形をとることになります!
その場所は、当初は現在の「丸う田代総本店(神奈川県小田原市浜町三丁目)」辺りの場所に指定されたんですが、1902(明治35)年に発生した小田原大海嘯(かいしょう)の影響により海岸近くの地を避けるということで、新玉四丁目という内陸の方に移転する形になったのです。
海嘯というのは、「満潮時に高い波が河をさかのぼる現象」ということで、地震によって発生する津波とはちょっと意味が違うんですね。この出来事があった関係で、初音新地を作る場所として海岸はヤバイってことになったみたいなんですな!
そしてこれは遊郭だけには例に漏れませんでした。小田原には伊藤博文、森有礼、野村靖など文豪や著名人が海岸沿い辺りに別荘などをたくさん構えていたんですが、この大海嘯で海岸沿いの街が高波にやられ水没した影響で、別荘などの建物も内陸に建てられていくことになるのです。小田原にはそんな自然災害があったんですね。。
ということで、初音新地の場所が決まった背景にはこのような物語があったみたいっす!
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大門や稲荷神社もあった初音新地
そんな明治後期に誕生した初音新地とはどのような場所だったのででしょうか?
それは、大正二年の案内図に大まかな感じではありますが記載してありました。
移転時には遊女屋の数は七軒。 新地の入り口には大門があり、この門を入ると正面北側には七軒の遊女屋があり、門の西側にはすし屋、飲み屋、射的屋などが軒を連ねていたという。
東西70間(約126m)、南北25間(約45m)、周囲に堀を巡らし高い黒塀に囲まれていた遊郭の地は「楼閣」を持つひときわ目立つ建物だったとか。
入り口付近には検番である貸座敷事務所があり、週一回は医師による検診がありました。夜になれば、照明が田んぼの水面に映り、この一画はまさに不夜城といった雰囲気だったそうです。 現在はこの周辺は住宅街になっていますが、移転当時は周囲には田んぼが広がるだけで、遊郭の一画だけが輝いていたんですね!
そんな初音新地に建っていた建物。図書館やらいろんな場所を漁って見つけたのが上の三軒の写真っす。入り口に石柱があったり、屋根が唐破風(からはふう)だったり、本当に見ごたえある建物に感じますわ!
もうタイムスリップしてみに行きたいほど( ゚д゚)
その初音新地があった場所は現在の地図と照らし合わせるとこんな感じです。
ただ、現在は新地だった場所には、真ん中あたりに新しい道路ができている関係でぶった斬られている状態なんですよね。。 とはいえ、周辺は細い道路に囲まれているようで、新地の範囲が上の赤い四角だったんじゃないかとは想定できます。
さらに、現在の地図と初音新地だった様子をもうちょっと詳しく建物まで重ね合わせてみるとこんな感じでしょうか。ただ、事務所に関しては本当に青い四角で示した場所にあったかは怪しいですが、他はだいたいあってるんじゃないかと思ってるんですけどね。。
おそらく、菊本楼か松本楼の箇所が道路でぶった斬られていると思われます。
新地の端には稲荷神社もあったようで、ここで働いていた女郎さんたちはここでいろいろなことを願っていたんでしょうね。。
いつまで営業は続いたのか?
あと気になったのが、初音新地は一体いつまで営業を続けてたのか??
抹香町は赤線として戦後も続いていたし、宮小路は花街として平成の中頃まで芸者さんがいたとかいろんな記載は見つかるんですが、初音新地に関しては最後どうなった的な話はなかなか見つからず。。
んで、『折にふれて 足柄歴史随想』という地元の古老による回顧録によると、「初音新地は昭和初期に営業を終えている」という記載を発見。昭和初期というと、花街だった宮小路は栄えていたし、抹香町だって1958の売春防止法までは続いていたんですけどね。 。何があったんでしょうか。。
んで、本当に昭和初期に営業は終了したのかどうか、そしてそれは具体的に何年だったのかが気になって、神奈川県立図書館に行って『神奈川県統計書』を漁ってみたりもしました。昭和初期のあたりの数を見てみると、以下の感じですね。
貸座敷(遊郭) | 娼妓 | |
1928(昭和3)年 | 7軒 | 52人 |
1932(昭和7)年 | 6軒 | 43人 |
1940(昭和15)年 | 5軒 | 15人 |
遊郭は公的に警察で数を管理しているので、県の統計書に数が載っているんですよね。先ほどの資料には「昭和初期には営業が終了」と書いていたものの、実際は県の統計書によれば1940年の時点では5軒残っていたみたいです。
ただ、神奈川県立図書館では1941年以降の統計書が置いてなかった関係で、こっから先がどうなったのかがわからないんですよね。。なので、今の時点では「1940年の時点では5軒残っていた」としか言えないっすね!
そのあとは太平洋戦争が関係したか何かで遊郭をたたむ事情でもあったのか、消滅の理由について書かれた資料は見つけることができませんでした。。無念。。
コメント
こんにちは。楽しく拝見させていただきました。
小田原の人間でもこれだけ詳しく調べた人は少ないんじゃないでしょうか?
特に初音新地は私が高校生だった頃(40年前)にはそれらしい建物もなく現在の姿と同じでした。
新開地(抹香町)、宮小路、裏町に関してはバブル景気前まではそれらしい趣きのある建物も在ったのですが今では姿を消してしまっています。
新開地についてはお年寄りに聞くと話がまだ聞けるのではないでしょうか?
写真の説明で”周囲は細い道路に囲まれたいた”と説明のある4枚の写真ですが上段2枚と下段左の写真の場所は堀の跡です。元々は小田原城の外郭にあった堀だそうで、今では蓋がされ暗渠となっていますが新開地(抹香町)の方まで続いています。
この堀についてはNHK「ブラタモリ」小田原 〜江戸の原点は小田原にあり〜 の回に小田原市の史跡担当者からタモリさんが説明を受けているシーンがあります。
新開地や宮小路も楽しみにしています。
コメントありがとうございます(°▽°)
新開地に関しては、現役だった時代を知る方に話を聞くことができました。
細い道路は堀の跡だったんですね。確かに地図で見ると抹香町までつながっているようでした。ブラタモリって小田原もやってたんですね〜。
新開地も宮小路も楽しみにしていてください!!
こんばんは。
いつも愛読しています。
初音新地については川崎長太郎の「消える抹香町」「移り変りの記」に触れられていて、廃業の理由らしきものについても書かれていたと記憶しています。両作とも講談社文芸文庫の『もぐら随筆』にはいっています。ご参考まで。
コメントありがとうございます!
そして、いつもお読みになっていただきありがとうございます!
>両作とも講談社文芸文庫の『もぐら随筆』にはいっています。
これ、気になって購入しました。確かに、初音新地のことが書かれていますね!
ちょっと時間できたら、記事を更新しようと思います!
こんにちは(*’▽’)
とても楽しく拝見させていただきました。
90代後半の祖父に初音新地のことを聞きましたが、3階建ての木造建築があったとだけ聞きました。ギリギリ建造物が見れた世代なのかもしれませんね。
あと、神奈中スイミング(緑のビル)の裏手に大きな蔵とお稲荷さんが敷地にあるお宅が今もあるので、もしかすると敷地跡なのかも・・・と思いました。