かつての城下町、小田原にあった遊郭跡の初音新地とは!?

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

スポンサーリンク

初音新地跡には名残りなし・・

以上のように小田原宿時代の飯盛女から初音新地が誕生して太平洋戦争の頃に無くなったと思われる小田原の遊廓史。背景を学んだところで、初音新地があった実際の場所へと行ってみますかね。

初音新地があった場所

改めての確認ですが、初音新地があったのは上の地図の矢印で示した場所です。小田原駅からは歩いて15分くらいの場所ですかね~~。

取材をしに来た日は天気は悪いし寒いしというなかなか条件が悪い日でちょっとテンション下がり気味でしたが、小田原駅から歩いて何とか到着!

ここや、ここがかつて初音新地として遊郭があった場所っすわ!

スポンサーリンク

かつては「大新馬場」と言われていた場所

到着してちょっとキョロキョロしてみると、こんなものを発見!

小田原には、旧町名が何だったかがわかるように、このような石柱が街中に建てられているんですね。初音新地があったすぐ近くには、上の写真の「大新馬場」と書かれたものがありましたわ!

ここは江戸時代には「下級武士の居住地だった」ということで大新馬場と称していたようです。まっ、これは余談ですけどね(笑)

初音新地の入り口

そしてここが初音新地の入り口だった場所っぽいです。今ではT字路になっていて向こう側に向かって道路が通っていますが、新地があった当時はT字路にはなってなく、まっすぐ向こうへ進む道路はなかったわけです。

1959年の地図を見ると、この入り口の箇所には新玉交番という交番があったみたいなんすわ。遊郭の入り口を取り締まるということで、今でも東京の吉原遊郭あ大阪の飛田新地にも名残りとして入り口に交番がありますが、それと同じ意味だったのかな~と思ったりしながらさらに周囲を散策してみることに!

周囲を見渡してみるとこのウグイス色の建物がやたらと目立つんですが、これは「神奈中スイミング小田原校」というスポーツ施設みたいです。ちなみに、私は泳ぐのが大の苦手ww

そんなデカい建物が建っているところもあれば、更地になっている場所もありました。この一角が遊郭一つ分だったんですかね~~。

スポンサーリンク

周囲は細い道路に囲まれていた

この辺りには遊郭だった建物が残っているわけではなく、歓楽街として飲み屋や風俗店があるわけでもなくごく普通の住宅街になっています。なので、初音新地がどこだったのかを探すのも結構わかりづらかったです。。

とはいえ、新地があった周囲は上の写真のような細い道に囲まれていたので、新地の範囲はおおよそ特定できるというのは先ほど申した通りっすね!

電柱に残る「初音」の文字

ただ、唯一の名残として挙げるとすれば電柱に残っている「初音」の文字ですかね。新地の周辺の電柱を見てみると、何本も初音と書かれていましたよ!

小田原の私娼窟だった抹香町の電柱にも「新開地」という文字が残っているように、電柱は昔の地名なりが残っていて結構頼りにすることがあるんですが、今回はかろうじてこの電柱に残ってましたか・・。

戦後はもう歓楽街として続いたわけでなかったようで、ここが賑やかだったことを記憶している方はもういないでしょうし、周辺には昔からのお店もなかったので、いつものように聞き込み調査をしたかったんですがそれはちょっと出来ませんでした。。

ということで、今回の取材はこれでおしまい!

抹香町は赤線として続いた

赤線廃業に関する神奈川新聞の記事

一方、小田原の私娼窟だった抹香町は、戦後に赤線となった後は売春防止法が施行され簡易旅館へと転業することになったようです。

この抹香町の誕生に関して、 『小田原史談 第172号』には下記のような記述がありました。

「その後、遊女屋で遊んでいた方々も、大門と塀で囲まれた初音新地では何か重苦しく感じられ、また遊興費も高くなったこともあって足の向かない人が相当出てきたことは想像にかたくない。」

今も平屋の建物が残る抹香町

私娼窟である抹香町が誕生した背景には、大門があり遊郭というちょっと値が張る重苦しい場所じゃなくてもっと気楽に遊びたいということから出て来たみたいです。

そんな抹香町の私娼窟だった場所は、今でも平屋の建物が残っていますし、資料なども割と見られたので、次はここに焦点を当てた記事を書いてみたいと思います(*’▽’)

おわりに

かつてはどんな街だったんだろうか・・

名残りがなかったということで、図書館で資料を漁って見つけたものを紹介するくらいしかできなかったですけどね。。とはいえ、何も名残りはなく普通の住宅地になっている場所が遊郭があった一画だったというのは、時代の経過の凄さを感じずにはいられませんでした。

何も残ってないとはいえ、かつてどんな街だったのかを妄想しながら歩くというのも感慨深いものがありますよ(*’▽’)

小田原の色街に関しては、次は私娼窟だった抹香町を挙げる予定で、その次は花街だった宮小路に関しても載せていきますので、よかったらそちらも読んでみてくださいね!!

ではでは、今回は以上になります~~!

参考文献

↓よければクリックをお願いします

詳細・地図

住所 神奈川県小田原市栄町4丁目12付近
駐車場 なし
アクセス JR小田原駅から徒歩15分ほど

知の冒険TOPへ

↓↓twitterもよろしくです
※ほぼ毎日つぶやき中
こちらの記事もどうぞ!
この記事も読まれてます!
関連コンテンツ
関連コンテンツ



  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

  1. 金太郎の腹巻き より:

    こんにちは。楽しく拝見させていただきました。
    小田原の人間でもこれだけ詳しく調べた人は少ないんじゃないでしょうか?
    特に初音新地は私が高校生だった頃(40年前)にはそれらしい建物もなく現在の姿と同じでした。
    新開地(抹香町)、宮小路、裏町に関してはバブル景気前まではそれらしい趣きのある建物も在ったのですが今では姿を消してしまっています。
    新開地についてはお年寄りに聞くと話がまだ聞けるのではないでしょうか?
    写真の説明で”周囲は細い道路に囲まれたいた”と説明のある4枚の写真ですが上段2枚と下段左の写真の場所は堀の跡です。元々は小田原城の外郭にあった堀だそうで、今では蓋がされ暗渠となっていますが新開地(抹香町)の方まで続いています。
    この堀についてはNHK「ブラタモリ」小田原 〜江戸の原点は小田原にあり〜 の回に小田原市の史跡担当者からタモリさんが説明を受けているシーンがあります。
    新開地や宮小路も楽しみにしています。

    • 丹治 俊樹 より:

      コメントありがとうございます(°▽°)
      新開地に関しては、現役だった時代を知る方に話を聞くことができました。
      細い道路は堀の跡だったんですね。確かに地図で見ると抹香町までつながっているようでした。ブラタモリって小田原もやってたんですね〜。
      新開地も宮小路も楽しみにしていてください!!

  2. ロザーナ より:

    こんばんは。
    いつも愛読しています。
    初音新地については川崎長太郎の「消える抹香町」「移り変りの記」に触れられていて、廃業の理由らしきものについても書かれていたと記憶しています。両作とも講談社文芸文庫の『もぐら随筆』にはいっています。ご参考まで。

    • 丹治 俊樹 より:

      コメントありがとうございます!
      そして、いつもお読みになっていただきありがとうございます!

      >両作とも講談社文芸文庫の『もぐら随筆』にはいっています。
      これ、気になって購入しました。確かに、初音新地のことが書かれていますね!
      ちょっと時間できたら、記事を更新しようと思います!

  3. 小田原の女童 より:

    こんにちは(*’▽’)
    とても楽しく拝見させていただきました。
    90代後半の祖父に初音新地のことを聞きましたが、3階建ての木造建築があったとだけ聞きました。ギリギリ建造物が見れた世代なのかもしれませんね。
    あと、神奈中スイミング(緑のビル)の裏手に大きな蔵とお稲荷さんが敷地にあるお宅が今もあるので、もしかすると敷地跡なのかも・・・と思いました。

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です