小田原花柳界の栄枯盛衰を調査すべく宮小路の花街跡へ!

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今回は小田原にあった花街に関しての記事になります!

今まで三記事連発で小田原の歓楽街に関して記事を書いてきましたが、まだまだ終わらず宮小路の花街も記事にして四連発です(*’▽’)

小田原には宮小路(みやこうじ)という場所に料亭や置屋などがあり、花街として大変栄えていた過去があったそうなんですね。今は見番もなくなり飲み屋街となっている宮小路ですが、この街にはいったいどんな歴史があったのか?

結構資料を漁ったり地元の方に聞き込みして情報を集めたので、結構長めの記事にはなりますが、かなり頑張ってまとめたので読んでいただければ幸いです!

本記事のポイント

・宮小路には平成12年まで見番があり、多くの芸者さんがいた
・著名人、ブリ漁師、みかん農家などの方々が芸者遊びをしていた
・現在は閑静な飲み屋街になり、数軒の料理店も残る

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小田原にあった歓楽街は四か所

小田原の歓楽街の地図

以前の記事でもしつこく紹介してきましたが、小田原には四か所の歓楽街がありました。遊郭だった初音新地と、私娼窟だった抹香町に関しては以前に記事にまとめましたので、ぜひぜひ以下の記事を読んでいただければ嬉しゅうございます!

かつての花街「宮小路」

そして今回はかつての花街だった宮小路に関する記事です。宮小路は記事を書くために四度ほどは訪れたでしょうか。。

昔からの焼き鳥屋さんに呉服屋の古老、松原神社の関係者に図書館のお父さんや薬局屋の御主人さん、料理屋だるまの女将さんなどなど。いろんな方に話を聞き、図書館などいろんなところを漁ってそれなりに資料も得られたので、ようやく記事にするって感じです( ;∀;)

現在は閑静な飲み屋街に・・

今では閑静な飲み屋街になっているこの街にはどんな歴史があったのか。かつて賑わった頃にはどんな方々が芸者遊びをしていたのだろうか。。

まずは、小田原に芸者が初めて誕生したころからの歴史を学んでみることしましょう~!

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芸者は江戸時代からいた!?

そもそも、小田原にはいつから芸者がいたのか??

飯盛女に関しては、小田原宿に置くことを許可されたのは東海道の他の宿からは遥かに遅く、1806(文化3)年だったと郷土誌を漁ると出てきます。小田原宿の財政が大変厳しく、この打開策として再三嘆願された上での許可だったそうです。

一方、小田原にいつから芸者がいたかというのは『明治小田原町誌 中』に書かれている、「(小田原の)芸妓は元治年間(1864-1865)に女郎屋府川豊三郎にて江戸より老妓一人を抱えしを始めとし、追年増加し・・」とあることが一応始めとされているようです。

平安時代創設の松原神社

その後、1873(明治6)年1月、松原明神社の例祭に際し、戊辰戦争以来の混乱した世情からの立ち直りとして、各町はこれを盛大に祝うことを意図し、本町から六人の芸者を頼んで芸者踊りがあったそうで、このときには少なくとも六人の芸妓がいたことになります。

ということで、1864年頃なので江戸時代が終わる直前の時期に小田原の芸者が誕生したってことですね。

ちなみに、松原神社は今でも宮小路にあり、創立は久安年間(1145~1151)と伝えられている大変古い神社。

この記事のサムネイルにしている写真など、芸者さんが境内で撮られた写真も資料を漁ると出てくるように、ここの花柳界の方々はたびたびここに手を合わせに来たんでしょうな〜〜。

玉垣に残る料亭の屋号

松原神社の玉垣とかを見てみると、「小田原芸妓組合」と刻まれたものはなかったものの、料亭の屋号が刻まれたものは結構たくさんありました。上の写真に写る「清風楼」は今でも営業を続けているお店っすね!

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宮小路の概要を簡単に!

小田原のシンボル「小田原城」

松原明神社の門前町だった宮前町は戦国時代の小田原城下町の中心で、江戸時代に入っても本町と共に小田原宿の中心でした。明治に入ると宿で初めての芝居小屋が公許され、松原明神社の例大祭で賑わい、町の中心地にあって、当時小田原で最も活発だった産業の魚市場をすぐ近くに控えて繁華街へと発展していくのです。

宮小路の近くには、魚座横町と呼ばれる6軒の魚屋さんが軒を連ねて、小売りと問屋を兼ねて商売をしてい他場所があったり、宿屋や商人・職人なども多く住んでいて、活気にあふれた下町だったわけです。

明治の末期から大正にかけては東京・国府津・伊豆を結ぶ汽船や魚市場の荷揚げ場としても賑わっていたんですな〜。

ちなみに、宮小路は行政上の地名ではなく地域の通称であるため、その区画は判然とはしないみたいです。

とはいえ、近世の小田原宿の繁華地と言えば、旅籠屋や商店が軒を連ね、上り下りの旅人の通行の多かった東海道の通町(とおりまち)と呼ばれた町のうち高梨町から早川口あたりまでと宮小路でした。

今も残る料理屋「だるま」の板塀

宮小路は氏神松原神社の膝元にある小路で、大正時代は黒い板塀の料亭、待合、飲食店、芸者屋などが並ぶ小田原の花柳街でした。

前回の記事でも紹介した小田原生まれの作家である川崎長太郎の小説に出てくる主人公にはなじみ深い色街で、街並みにはまた諸々の小店が軒を連らね、日夜人通りが絶えない繁華街だったようです。

第一級の接待場だった藤館

宮小路周辺には多くの料亭や芸妓置屋などがあったわけですが、中でも荒久海岸にあった藤館が第一級の接待場だったそうです。宮小路では清風楼を筆頭に、春日、桝金などのお店がA級であり、箱根登山鉄道絡みで鉄道省が小田原に来たときには、一次会は藤館、二次会に清風楼などが使われていたそうです。一方、社員だけの飲み会には弥生、花菱、だるま、柏又などが使われたとか。

そして、三次会となると24時間営業の不夜城だった遊郭がある初音新地へ行き、バカ騒ぎをしたという。。

さらに、太平洋戦争の末期の本土空襲の被害もこの辺はあったようで、終戦後、戦時中も旅館を続けていた小伊勢屋はイギリス艦隊に接収され、春日は軍需工場の従業員の寮となっていましたが、進駐軍が来てからはアメリカ艦隊海兵隊の休養施設として接収されました。

宮小路の花街に関して、戦後までの流れを超簡単に書くとそんな感じでしょうか。。

料理屋と芸妓屋でのバトル勃発

そんな宮小路の花街ですが、かつて明治の時代に一大バトルが繰り広げられたそうです。それは明治42年6月、料理屋組合と芸妓屋組合との間で紛争が起き、小田原花柳界の大悶着として横浜貿易新報に報道され、連日のように紙面を賑わせました。

横浜貿易新報に載っていた記事

小田原の郷土資料館には、横浜貿易新報の記事の中で小田原に関する資料が切り出されているため、この一大バトルの様子の記事を割と簡単に見つけることができました!

明治42年 6月8日が第一報であり、内容によると料理屋組合が5月31日、郡役所隣の料理店天利で懇談会兼総会で決議し、芸妓屋組合に次の三か条を申し入れたようです。

芸妓屋組合への三か条
  1. 料理屋は芸妓の線香代をお客から勘定の下がった上で払うこと。
  2. 今後の線香代の刎銭を、これまでの三銭五厘を四銭七厘に、祝儀の刎銭一割二分を二割にすること。
  3. 今まで一昼夜四八本(二時間四本の割)の線香代を三六本(同三本)とし、刎銭一本につき四割とすること。

もしこれらの条件を聞かなければ、「料理屋組合で芸妓会社を建てて営業しちゃう」と言ったそうな。

これまで芸妓が料理屋に呼ばれて客から稼いだ代金は、その翌日に料理屋から芸妓屋に支払う決まりになっていました。ところが、客は料理屋に勘定を即金で払うわけではなく、後日の支払いが通常でした。

そのため、料理屋は芸妓屋に立て替え払いになり苦しいので、客の支払いを受けてからの勘定に変更したかったようです。

ところが、料理屋がこういった要望を申し入れたものの、芸妓屋は納得がいかない。。

まとめると、料理屋は「客が払ってからじゃないと芸妓屋に支払うのは厳しいし、客が支払ったうち、料理屋の取り分をちょっと多くしてほしい。。」というものの、芸妓屋は「いやいや、そもそも料理屋の料理代が高いし、そもそも料理屋はお店で料理を作らず仕出し屋から料理を出前してるからその分値段が高くなってる。商売不振はお宅らのせいで、芸妓がいるからこの商売が成り立ってるんじゃい」とうわけです。

このバトルは長い間続き、訴訟や両組合の役員人事や料理屋の実力者とその手先、あるいは反対者との軋轢、組合脱退者がでるなどかなり激しくやりあったとか。。

ところが、最終的には料理屋で和解の宴が開かれ、料理屋組合から芸妓屋に請求した三か条は撤回することになったそうです。めでたしめでたし。

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別荘ブームで著名人が集結

そんな争いが繰り広げられていた小田原花柳界。ではでは、そんな小田原の、つまり宮小路の花街にはいったいどんな方々が遊びに来ていたのでしょうか?

その一つが、小田原へ住まいを構えるようになった著名人や文士たちでした!

相模湾と箱根の山々に囲まれる小田原

小田原には何度か別荘ブームだった時期があり、その発端となったのは1887(明治20)年に新橋-国府津間に東海道線が開通し、その翌年には国府津-小田原-(箱根)湯本間に馬車鉄道が開通したことによるアクセス面の影響があったようです。

廃藩置県のあと、十字町を含む小田原全体は小田原県を経て現在の神奈川県へと改称されることになります。これらの変化を受け、それまで十字町界隈にあった武家地から多くの武士が小田原を離れることになり、空きの出た屋敷を政治家や官僚、財界人たちが購入するという動きが活発になるのです!

著名人の別荘や邸宅が多かったエリア

荒久海岸から御幸の浜海岸近辺はそんな方々が暮らすことになったのですな~。その最初の別荘ブームで著名人が住みだしたのが上の地図の丸で囲った辺りっすね!

伊藤博文の邸宅だった滄浪閣

その代表格ともいえるのが、かつて四度も内閣総理大臣の座に就いた伊藤博文。
彼が1890(明治23)年、御幸の浜に滄浪閣(そうろうかく)を作り、これが小田原にとって一つのプラスになったことで十字町界隈に移り住む者も次第に多くなってきました。

森有礼の別荘だった藤館

その後、森有礼が藤館(さっき紹介しましたね)を建設した後、長州藩士の野村靖(のむら・やすし)が神奈川県令(今でいう県知事)に就任して小田原に居を構えることになりました。

野村が小田原の多くの物件を紹介したからか、この後が小田原と著名人たちの関係において重要な転機でもあったわけで、漢学者で外交官、また帝大の教授でもあった竹添進一郎(たけぞえ・しんいちろう)、貴族院議員の松本剛吉(まつもと・ごうきち)、みずほフィナンシャルグループとなる安田銀行の創始者である安田善次郎(やすだ・ぜんじろう)などなど、多くの著名人が小田原の海岸沿いに暮らすことになるのです。

海岸沿いにある白秋童謡館

文士の方々でいうと北原白秋、志賀直哉、坂口安吾などの方々が小田原にゆかりがあったようです!

北原白秋(きたはら・はくしゅう)が天神山に赤い瓦の洋館を作った時に小田原の芸妓を手子舞にして練り歩かせたほか、雑誌『白樺』で文壇に出た志賀直哉(しが・なおや)は、20歳代後半の明治末期にしばしば箱根、小田原付近に来遊していました。

このような情勢の中で花柳界は次第に発展の道を辿り、明治から大正にかけては芸者全盛時代を迎え、名妓が輩出していたんですな~。

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