東京の奥座敷といわれた「綱島温泉」の歴史に迫る!

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ういっす!

今回は、神奈川県にあった温泉街&花街に関する話になります。

神奈川県の温泉地、今でいえば箱根と湯河原が代表格かと思います。ちょっとマニアックな場所ですと厚木の方にある鶴巻温泉や飯山温泉、あとは七沢温泉とかですかね。

そして、今回の焦点はかつて神奈川県を代表する温泉郷だった「綱島」です。東急線の駅でもある綱島は、今でこそ大きなマンションがたくさん建つ住宅地ですが、ココがかつて温泉街だったとは本当に驚き(;’∀’)

となると、いったいどんな背景があって温泉街が誕生し、そして衰退していったのかがキニナルということでその辺を現地調査と図書館にあった資料をもとにまとめてみたので、以下で放出したいと思います!

本記事のポイント

・綱島の温泉街は大正中期に誕生した
・温泉街では花火大会が行われ芸者さんもたくさんいた
・1970年代頃から一気に衰退し、住宅街へと変貌した

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「東京の奥座敷」と言われた温泉街

東急線の駅がある綱島。渋谷からであれば20分ちょいで来れるほどのアクセスということもあり、今ではすっかり住宅地となっている町ですね。

すっかり住宅地になっている綱島

1959年の住宅地図をもとにかつての温泉街を歩いてみると、街がすっかり変わり果てているという印象です。駅の西口を歩いていると、いつもであれば昔から残っているお店とかに伺って昔の歴史を聞いたりするんですが、そういった店がマジでないんですよね。。

とはいえ、昭和4年創業の「綱島パン」とか「乃んき食堂」という食堂は開発が続くこの地で今も営業を続けていたものの、どちらも忙しそうで聞き込みができるような感じではなさそうでしてね。。

ということで、お寺の方とかに伺ったりはしたんですが、今回は神奈川県立図書館や横浜市港北図書館にあった資料を基に、綱島温泉街の歴史を掘り起こしてみようという魂胆でござんす!

横浜市港北図書館にあった資料

図書館で綱島温泉に関する資料はいくらか見つけたんですが、その中でも凄くありがたかったのがこちらの資料。『わが町の昔と今』というシリーズものの写真集なんですが、この資料に結構昔の綱島の様子が掲載されていて、その補足説明なども豊富に書かれているんですね。

綱島温泉に関して書かれたものはいくらかあっても写真が載っているものはこれくらいしか見つからなかったので、本当にありがたい。この写真集は、綱島で聞き込みしたお寺の方によると、綱島に暮らす年配者の方々から昔の写真とか昔話を訪ね歩いて集めたものとのこと。

なので、今回はこの写真集などの資料を基にしながら、綱島温泉郷の歴史をまとめていくって感じです。まずは、どんな経緯で温泉旅館が誕生したかという点から!

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井戸を掘ったら茶色い水が湧いた!

いつのころからかは不明ですが(おそらく明治のいつ頃からか)、ラジウム温泉は、昔より土地の人々から「赤水(あかみず)」と呼ばれ、田の灌漑用(河川や地下水、湖などから水を引き、農業物を育てるために田や畑へ人工的に給水をしたり排水をしたりする用)として使われていました。

しかし、灌漑用としてはあまり水質がよくないため、日照りで困ったとき以外は使わなかったようです。

というように、ラジウム温泉自体は古くから湧いていたようなんですが、温泉として使われだしたのは大正に入ってからでした。

鶴見川の堤防築堤がキッカケに

1914(大正3)年、鶴見川の堤防築堤に際して家を移転しなければならなくなり、「杵屋(きねや)」という菓子商を経営する加藤順三氏が新しく井戸を掘ったところ、飲用にできない茶色の水が湧いてきました。

そして、これを風呂水に使っていたところ、何と持病のリューマチが治っちゃったんですね!

そこで、内務省に勤めていた親戚のつてを使って内務省東京衛生試験所に水の成分分析を依頼。検査した結果によると、何とラジウムの含有量が鳥取県三朝温泉、山梨県増富ラジウム泉に次ぐ、国内で三番目に多い水だったのです。

源泉は、水温16~20度の冷鉱泉、色は茶褐色のナトリウム-炭酸水素塩泉。神経痛、疲労回復、切り傷、火傷、慢性皮膚病などに効くというもの。

こんな源泉が湧いたということで、地元の小島孝次郎氏は1917(大正6)年に「永命館」という温泉旅館を開業し、それとともに、鶴見川を利用して三日に一度舟にこのラジウム泉を積んで鶴見方面の銭湯に運んでもいたそうです。

この「永命館」が綱島に誕生した最初の旅館であり、綱島温泉郷のはじまりになるわけですね。んで、これに続いて大正中期には温泉旅館が建ち並ぶようになるのです。

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綱島温泉街形成の流れ

「永命館」の誕生が綱島温泉街の元祖なわけですが、ここから温泉街が形成されることになります。

綱島温泉街形成の流れ
※「今昔マップ on the web」を元に作成

そんでちょっと地図を見ながら温泉街形成の流れを見ていきたいと思うんですよね。「永命館」があったのは、上の地図の緑で塗ったエリア、つまり綱島温泉駅から鶴見川をはさんだ対岸のエリアっす。ここに、永命館以外にも「琵琶圃旅館」「大綱館」などの旅館が開業して大正中期に温泉街が形成されていきます。

綱島温泉街形成の流れ

大正中期:駅から対岸に温泉街が形成
→ 綱島温泉元祖である「永命館」をキッカケに温泉旅館が建ち並んだ
昭和2年:駅の東側に温泉街が形成
→ 東急電鉄が駅の東側にも温泉街を形成するためのキッカケとして「綱島温泉浴場」を開業し、その後、温泉旅館が建ち並んだ。
昭和5年頃:駅の西側に温泉街が形成
→ 田園都市株式会社や地元有志によって区画整理が行われ住宅街や別荘地化するなか、1930年頃に水明楼と梅島館が開業したことを機に温泉旅館が建ち並んだ。

緑のエリアに温泉街が誕生した後、1926(大正15)年2月14日には、東京横浜電鉄神奈川線(現:東急東横線)が開通し、綱島温泉駅(現:綱島駅)が開業します。こうなると、東京からアクセスが良くなったことで、より温泉街が賑わうようになってきたわけです。

綱島温泉街形成の流れ
※「今昔マップ on the web」を元に作成

はい、またまたこの地図を見ていただきたいっす!

鉄道が通ったということで、 東京横浜電鉄は綱島温泉に、より賑わいを作るために開発を行っていくことになるのですが、まず駅の東口(上の地図の青く塗ったエリア)に目をつけました。ここに、駅が誕生した翌年の1927(昭和2)年4月に「旅客誘致及び土地開発の一助」(兼業認可申請書)として、「綱島温泉浴場」を開場することになります。

んで、これは駅の東口を温泉街化するための、そして旅客誘致の拠点にするためという狙いがあったんですね。

昭和2年創業の「綱島温泉浴場」
引用元:『わが町の昔と今8 港北区編』

その綱島温泉浴場、先ほど紹介した『わが町の昔と今』の資料に写真が残されていました。

この温泉浴場の入浴料は当初一日10銭の予定でしたが、東急グループ創業者の五島慶太(ごとう・けいた)の命により20銭に変更。ちょっと料金は上がっちゃったものの、東京横浜電鉄の往復乗車券所有者は入浴無料で、家族連れで終日賑わったそうですよ(*´▽`*)。

でもですよ、当初、綱島温泉は多摩川園(現在の東急多摩川線多摩川駅の近くに1924~79年まであった遊園地)にならって遊園地にする計画があっんです。ところが資金問題からそれは頓挫してしまい、そこで温泉浴場だけでスタートしたって背景が実はあったりします。

綱島温泉街形成の流れ
※「今昔マップ on the web」を元に作成

ということで、駅の東側は綱島温泉浴場を機に旅館が建つようになるわけですが、残るは赤いエリアである駅の西側ですね!

東側に綱島温泉浴場が誕生したあと、綱島駅西側の低湿地は、田園都市株式会社と地元の有力者の協力によって住宅街・別荘地化していくことになります。上の地図を見ても、駅の西側は四角く区画が作られている箇所があることがわかるかと思います。

んで、それに伴って1930年前後に「水明楼」「梅島館」が開業することになるんですね。この二つの旅館を機に、駅の西側も温泉街化が進んでいくことになります。

このような流れで、駅の対岸、駅の東側、駅の西側の三つのエリアが合わさって綱島温泉街は形成されたってわけです。

昭和10年頃の綱島温泉郷

ということで、昭和10年頃になると綱島温泉駅の周辺には47軒の温泉旅館が建ち並ぶことになります。

場所的に東京と横浜の間に位置していてアクセス面が悪くないこともあり、綱島は神奈川県下有数の大温泉郷になり、東京に近いこともあり箱根に次ぐ誘客を招いていたんですね。一時は横浜の箱根ともいわれ、昭和初期には「東京の奥座敷」として有名になるのです。

「東京の奥座敷」と言われた綱島温泉郷
引用元:『わが町の昔と今8 港北区編』

そんな綱島温泉へ訪れた方はどのような印象を持っていたのでしょうか。『横浜の史蹟と名勝』という資料にその回顧録が載っていたので、ちょっと抜粋してみますね!

桃の名所綱島温泉

横浜駅から金弐拾銭を奮発して東京横浜電車に乗れば、僅か十五分で綱島温泉に連れて行ってくれる。綱島の地は聞きゆる桃の名所、季節になれば広野見渡す限り桃の花毛壇、その間を点々と黄色い菜の花が彩っているさまを駅付近の高台諏訪の森から眺める光景は、中々筆紙に尽くしがたいものである。此の桃樹は明治二十七八年頃から栽培して、年々四万箱以上も産出するということである。

引用元『横浜の史蹟と名勝』

この回顧録に”桃”と書かれていますが、そうなんですよ、綱島は桃の産地として有名だったんですね。温泉街周辺には多くの桃の木があり、それがまた風情ある景観を生み出していたんだと思います。

幼稚園にも桃のマークが

綱島駅周辺を歩いていると、幼稚園に桃のマークが残っていたりしますでしょ(笑)

それに、綱島では今でも『綱島桃まつり』が開催されているように、その歴史は今でも垣間見ることができたりもするんですね。

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花火大会も行われ賑わいを見せる

1934年8月11日の横浜貿易新報

先ほど説明した経緯で温泉街が誕生した綱島。昭和10年には旅館が47軒も建ち、街は賑わいを見せて上昇気流に乗っていくことになります。

そうなると催し物も行われるようになり、鶴見川では納涼花火大会が行われていたという記述が1934(昭和9)年の横浜貿易新報に見られました。まぁね、ココ以外にも多摩川沿いにあった丸子花街もそうですし、相模川沿いにあった厚木花街なんかでも川に屋形船を浮かべて花火を楽しんでいましたからね。

綱島も、鶴見川があるんだったら花火大会が行われるというのは自然な流れだと思います。この花火大会は綱島温泉組合が主催し、東横電鉄などの後援によって実現。

将来は夏季綱島温泉の名物として全国的に名を上げようともしたそうです。

割烹旅館として最も古い桃仙閣
引用元:『わが町の昔と今1 港北区編』

こちらは「桃仙閣 」という割烹旅館の建物ですが、いいですね、めっちゃ風情ある建物ですね~。こんな建物がたくさん建っていたんでしょうか。。

綱島の芸者衆
引用元:『わが町の昔と今1 港北区編』

そしてこれだけの温泉街に発展したということで、そうなるともちろん芸者さんもいたわけです。

綱島では、昭和初期には150人ほどの芸者さんがいたそうです。『綱島音頭』や『綱島小唄』という民謡が作られているということもあって、温泉街にある旅館の大広間では、綱島音頭の曲にのって芸者さんが踊りを披露していた光景なんかも広がっていたんじゃないでしょうか。

綱島が自殺の名所に!?

温泉街として旅館が建ち並び、芸者さんもいて花火大会が行われるなどの賑わいを見せる綱島温泉郷。

イケイケドンドンの状態ではありましたが、暗い話題もあったようでですね。。それが1934(昭和9)年の横浜貿易新報の記事に書かれていたものでですね、、、

昭和9年9月7日の横浜貿易新報

それがこちらの記事。

タイトルには『見えぬ墓標が増える 桃の綱島温泉』と書いてあります。

綱島温泉にある旅館には、離れ部屋や家族風呂というようなプライベート空間があり、こうした空間を使って男女密会の場としての利用も多かったようなんです。そんで、今でいう不倫とか、よからぬ恋愛目的で綱島に訪れていた方々がこう言った場所で心中、つまり一緒に自殺してしまう事件が多発したのです。。

綱島はいわゆる観光とか湯地で訪れていた客ではなく、こうした訳あり客が多かったことも繁盛していた理由の一つだったようですが、こんな事件が増えて印象が悪くなるとお客さんが寄り付かなくなってしまうわけですわ。。そこで、旅館の経営者の中には離れ部屋や家族風呂を廃止した方もいたそうです。

キネマ旬報 No.437
引用元:https://zakixzakix.jimdofree.com/大磯-天国に結ぶ恋/

で、この綱島心中には一つのキッカケがあったようで、それが1932(昭和7)年5月におこった坂田山心中事件です。神奈川県の大磯でこの心中事件が起こった後、これを模した事件が相次ぐなど、社会現象に発展しました。

そして、事件が起きてからわずか一か月で作られた『天国に結ぶ恋』がブームになったりとかね。。

とはいえ、この事件があったとはいえ何で綱島で心中する出来事が多発したのか、あるいは他所の温泉街でも実は心中が起こっていたのか、、その辺は私もよくわからないっすね。。

というちょっと凹むような話題が出てきてしまいましたが、ここで一旦ページを区切ることにしましょうか!

次ページでは、その後再度浮上した遊園地計画の話から戦時下の様子、そして終焉えと向かったところまでをまとめておりますよん。

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