東京の奥座敷といわれた「綱島温泉」の歴史に迫る!

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大遊園地計画、鶴見川の大洪水

前ページで書いたように綱島心中という暗い話題もあった温泉郷ではありましたが、それでも綱島はさらなる盛り上がりを見せていきます!

1935年7月5日の横浜貿易新報

1935(昭和10)年7月5日に、再び遊園地計画が浮上するんですわ。

この深部の記事によると、温泉と桃畑のみでは近代人の感覚には物足りないだろうちうことで、さらに多くの大衆を引き付けるべく遊園地化しちゃいましょう~というのが狙いとのこと。

各種の運動場や劇場、さらにはいろんな娯楽施設を含む計画だったようですが、これ、結局ここから何も進展せずまたまた頓挫してしまったっぽいです。。

たびたび氾濫を起こした鶴見川

発展を見せる綱島温泉郷ですが、昭和に入った時に一つの災難が降りかかることになります。それは1938(昭和13)年6月30日に、温泉郷を流れる鶴見川が氾濫してしまうのです。。

氾濫した鶴見川の様子
引用元:『わが町の昔と今1 港北区編』

それにより、温泉街、桃畑、菖蒲園がものの見事に水没。これまで何度も水害を受けてはいるものの、この災害により綱島温泉は一時全くの医業不能状態に陥り、損害額もかなり甚大になったそうです。

綱島温泉はそういった幾多の自然災害をも乗り越えて営業を続けていたわけですね。

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戦時下に突入し旅館営業一斉廃止へ

1941年8月7日の横浜貿易新報

昭和も初期を過ぎていくと、世の中は1937年の日中戦争の勃発から戦時下へと突入していきます。すると、遊客本位の歓楽境としてにぎわっていた綱島は、その伝統を捨てて健全保養地、工場都市の住宅地への転向を図ることになったのです。

それにより芸妓屋組合とは完全に絶縁。歓楽街として遊客を入れていた温泉旅館は下宿旅館へと変わっていくのです。

そして、1941年12月8日に日本軍がハワイの真珠湾を奇襲したことで太平洋戦争が勃発。1943(昭和18)年8月には近藤県知事の命令で旅館営業は一斉に廃止させられることになります。

さらにさらに、1944(昭和19)年10月20日、駅名が「綱島温泉駅」から「綱島駅」に改称されてしまいました。

温泉浴場は、東芝が寮(保養所?)として買収。戦時中は軍需工場へ通う人たちの寮となったり、軍関係の宿泊施設になり、臨時の小学校として使用されたりもしたのです。

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戦後に再び歓楽境として復活

1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾して太平洋戦争は終戦していくわけですが、戦後、綱島には旅館は64軒あり、アメリカ兵の慰安所として徴用され流ことになります。

そしてこの徴用が解除されると、再び「東京の奥座敷」と言われて賑わいを取り戻すことになります。さらには「関東の有馬温泉」とまで言われたこともあったそうですよ!

まぁ確かに有馬温泉も茶褐色の温泉が湧くからな〜( ;∀;)

百円温泉として有名だった「行楽園」
引用元:『わが町の昔と今8 港北区編』

そんな復活を遂げた綱島には名の知られた大衆温泉があったそうです。

それが、大衆温泉「行楽園」。1952(昭和27)年にはラジオで「百円温泉」と宣伝して全国的にも知られて大繁盛し、日帰り温泉の走りになったそうです。これに影響される形で、東京の「亀戸天神温泉」や「平和島温泉」がオープンしたというエピソードまで!

1953(昭和28)年頃は、旅館や料亭が50軒近いくまで増加。歌手の三橋美智也(みはし・みちや)は北海道から上京して東京園でボイラーマンをしながら歌の修行をしていた何てエピソードまであったりね!

引用元:『わが町の昔と今8 港北区編』

そして綱島温泉は、昭和30年代になると最盛期の時期を迎えます。温泉旅館は7~80軒という数になり、芸者衆は300人近くいたそうです。

ところが、綱島温泉が賑やかだったのはここまで!

この後、1964年に東海道新幹線が開通した頃から下り坂となっていくのです。

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東海道新幹線開通で変化が・・

戦後復興を遂げた日本は、製造業を中心に発展して時代は高度経済成長期に突入。1964年には東京オリンピックが開催され、それに合わせてカラーテレビが普及して東京には首都高速道路が敷かれ、鉄道に関しては東京−大阪間に東海道新完成が開通することになりました。

箱根や熱海が身近になった

この東海道新幹線が綱島温泉に大きな影響を与えたと思われるわけですね。新幹線を使えば箱根や熱海へのアクセスが容易になり、より遠くへ行きやすくなりました。戦後までは「東京の奥座敷」と言われていた綱島ですが、こうなってくると、奥座敷ではなくなってくるわけです・・(;’∀’)

その代わりとしては、相模原にあった歓楽境の水郷田名や、厚木にある飯山温泉が「東京の奥座敷」と言われるようになったみたいですけどね。

その後、昭和40年代初めまで綱島には80軒もの温泉旅館があったものの、1971(昭和46)年を境に旅館は急速に減っていっくことになります。

東海道新幹線が開通した直後に旅館が減ったわけではなく、綱島が一気に衰退したのはその7年後なんですね。ここがちょっと気になるところではありますが・・。

1988(昭和63)年には綱島温泉旅館組合の事務所はまだあったものの、ほとんど活動はしていなかったようです。そして1994(平成6)年2月、最後に残っていた「温泉旅館 水明」が廃業して綱島温泉郷の歴史に幕を下ろす形になりました。

旅館街はマンションだらけに

東京の人が箱根や熱海まで行きやすくなったことで温泉を求めた都会人はそちらに流れ、客が来なくなった旅館街は大苦戦。しかし、その後はデベロッパーがやってきて街は一気に住宅街へと発展していくことになりました。

旅館では儲からないため土地を売り、マンションや駐車場、さらにはデパートやラブホテルが建つようになるわけです。

土地持ちのオーナーは、当初マンションの最上階に住んでいたものの、孫の代になってよそへと越してしまった方がほとんど。そのため、もともとここで温泉旅館を経営していた方々の末裔はもう残っていないようです。

ということで、綱島に住んでいる方の多くは他所からの方なので、そうなるとココが温泉街だったことすら知らないという方がほとんどかもしれないですね。。

大正時代に誕生した綱島温泉は、このような歴史を辿り、温泉郷としては80年近い歴史に幕を下ろす形になるのです。

おわりに

かつての温泉郷の今

以上ですかね。

大正時代に誕生した神奈川を代表する温泉郷は、昭和初期に賑わいを見せ、太平洋戦争時に一時閉業するも戦後に再び盛り上がりを見せ、高度経済成長期頃からの宅地開発によって現在は住宅地となったわけです。

どうですかね、なんとなく誕生から終焉までの歴史を理解していただけましたでしょうか?

さてさて、綱島温泉に関する歴史をこの記事でまとめたわけですが、このテーマに関してはまだ続編がございます。次回の記事では、現在の綱島の街を歩いてその痕跡を探したり現地の方に聞き込みを行った様子をまとめています。

よければこちらも見てみてくださいね〜!!

ではでは〜

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市港北区綱島西2丁目周辺
アクセス 綱島駅から徒歩5分ほど

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