神奈川を代表する温泉郷だった「綱島温泉」の今!

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神奈川県横浜市にある綱島駅周辺は、かつて神奈川県を代表する温泉郷だったというのは以前の記事で紹介しました。

前回はその温泉郷が誕生してから終焉するまでの歴史を、図書館で漁った資料をもとにして作成しましたが、今回はそんな綱島温泉郷だった場所が今どうなっているのか、当時の痕跡が残っているのかなどを調査した内容をまとめていきたいと思います~(*´▽`*)

本記事のポイント

・旅館の跡地は多くがマンションや駐車場になっている
・駅の東側には旅館の建物が二軒残っていた
・現在はマンション名や神社に多少の名残りが見られるのみ

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「東京の奥座敷」と言われた温泉郷

かつて温泉郷だった綱島

今は住宅地となっている横浜市の綱島ですが、ここは今から60年ほど前には「東京の奥座敷」といわれ温泉旅館が7〜80軒も建ち並ぶ街でした。

前回の記事ではそんな綱島温泉の誕生から終焉までの歴史をまとめていたりします。

んで、今回の記事では現地調査をして温泉街だった痕跡を探そうとはしたんですが、、、ん〜あれだけたくさんの温泉旅館があったにも関わらず今ではほぼ全てが取り壊されてしまっているというね。。

特に駅の西側には、旅館だった一区画にマンションやイトーヨーカドーが建ち、2020年現在ではすべての温泉旅館が閉業しており、駅の東側に二軒ほど建物が残るだけでそれ以外は全て建物すらなくなってしまったわけです。

1959年の住宅地図をもとに作成

どれだけ旅館がたくさん建っていたか、1959年の住宅地図をもとにして温泉旅館を地図にマークしてみました。こう見ると凄いな、わずか60年前はこれだけ温泉旅館が密集していたってわけか。。

どんな街並みだったのか、タイムスリップして歩いてみたかったぜ!

ということで、過去を振り返っても仕方ないので、私は綱島へと向かって痕跡巡りへと出掛けたのでした!

温泉旅館だらけだった駅の西側

住宅地に変貌した綱島

綱島駅を降りてまず向かったのは、駅の西側方面。

西側を歩くと、上の写真のように大きなマンションがいくつも建っているのがわかりるかと思いますが、今から50年近く前まではこれらのマンションの一区画にひたすら温泉旅館が建っていたわけです。

鶴見川から眺めてみると・・

鶴見川から駅の西側を見ても、、分かりますかね、大きなマンションが建ちまくっていますよね。これ、(ほぼ)全部元々温泉旅館だったんですわ。

1959年の明細地図

それは昔の住宅地図を見ていただければわかりやすいかと思います。こちらは神奈川県立図書館にあった1959年の住宅地図で、綱島駅の西口を表したもの。

見てわかる通りひたすら温泉旅館が建っていますよね。綱島温泉が衰退した後、旅館だった場所はデベロッパーによってマンションが建てられたと思いますが、この温泉旅館の一区画がマンションやデパートや駐車場、またはラブホテルとかに変わっているわけです。

区画って結構変わらずそのままなケースが多いんですよね。旅館や料亭の区画って小さなアパートとか一軒家に比べたらデカいので、跡地の活用方法は駐車場になるかその区画に合う大きなマンションができるってのが良くあるパターンだったりします。

旅館がマンションやデパートに

例えばこんな感じ。1959年の住宅地図と比較してみますが、行楽園だった場所は大きなマンションになっていますし、相川家だった場所にはイトーヨーカドーが建っていたりしてます。

ラブホテルになっている場所も

こちらは温泉旅館「やなぎ」が建っていた場所ですね。現在は「GOLF」というラブホテルが経っていますが、「温泉旅館→ラブホテル」というケースもいくらか見た気がする。。

神社の方にも話を聞いたが・・

散策しているさなか、現地の方の声も聞きたいということでお寺とかには訪問したんですけどね。あと、街を歩く古老の方にも声をかけたりしてみたんですが「あんまり昔のことはわかんないかな〜」ということで、これといった情報は得られず。。

ということで、現地民の声はちょっと諦めるとして、続いて私はいつも行う屋号痕跡調査へと繰り出したのです。

かろうじて残る「水明楼」の屋号

花街を調査するとき、料亭や旅館の跡地にマンションが建つと、そのマンション名に料亭時代の屋号が残っていることがあるんですよね。それが、花街だった時代のかすかな痕跡だったりするので、毎回チェックをしているという次第なんです。

とはいうものの、最盛期には80軒近く旅館や料亭があったものの、1959年の住宅地図と照らし合わせてもなかなか見つからなくてですね。駐車場名とかマンション名を見ても「××ハイツ 綱島」みたいな感じでなんか味気ない。。

ビル名に屋号が残ってた

そんな中、綱島駅周辺を歩きに歩きまくって、まず見つけたのがこちら。

駅の東口にあった旅館「文化」の跡地に建っているビルですが、名前を確認してみると「新文化ビル」となっているので、これはたぶん旅館時代の屋号を反映していると思われます。

水明楼があった場所

次に見つけたのがこちら!

このマンションにもちょっとした名残りが見られましてですね、この大きなマンションが建っている場所には、25年近く前(1994年)まで水明楼という温泉旅館がありました。

ということで、その屋号とかが残ってないかと思ってみてみると、、、

「水明」の屋号が残っていた

マンションの上部と入り口に「水明」という名称が残されていましたよ。この水明楼は、綱島温泉にあったなかでも最後まで(1994年まで)営業していた温泉旅館でした。

最後まで営業していた旅館でも、25年以上前か。。

この石が何だかキニナル・・

そしてさらに気になったのが、このマンションの麓にはこんな光景が広がっていたんですが、この写真の左側に写っている二つの石。

これはもしかしたらですが、温泉旅館だった時代に庭とかに置いてあったものなんじゃないかな~なんて思っています。水明楼は先ほども書いたように最後まで営業していた温泉旅館でした。もしかしたら、水明楼のご主人は最後まで残り続けた水明楼が名残惜しくて、マンションの屋号や麓にその痕跡を残したかったのかな~と思っちゃいました。

実際はわかりませんけどね(;・∀・)

電柱に残る「温泉」の文字

あと、駅の西口にある電柱を確認してみると「温泉」の文字が見られました。ここにも、かつてここが温泉街だった名残が残ってましたか。。

温泉旅館の建物が残る駅の東側

という感じで、温泉郷だったころの名残を探し求めていた私。

新綱島駅の工事中だった
工事内容が書かれていた

ここには2016年頃まで「東京園」という温泉施設があったんですが、新綱島温泉駅建設のため閉業してしまいました。

この東京園、私は5年ほど前に一回訪れて温泉に入ったことがあるんです。でもですよ、そのころはまだこういったジャンルに関心がなかったので、建物の写真を撮ったりせずでして。。あ~なんてもったいない、時間が戻ってくれたらな。。(;・∀・)

という感じで大工事真っ盛りな東側。

こちらは西側に比べると旅館の数も少なかったようですし、名残りは見られないかな~と思っていたら、二軒だけ旅館だった建物が残ってたんすよ!

建物が残っていた「まつ代」

その一つがこちらの綱島街道沿いに面して いる建物。

温泉旅館「まつ代」だった建物で、開発が進んで住宅地化した綱島でかろうじて生き残っている建物です。

風情ある入り口

建物の入り口は風情ある造りがそのまま残されておりました。ちょっと写真では暗いですが、奥には石がいくつか置かれていていかにもな旅館の雰囲気。

ビジネス旅館とも書かれている

視線を上にあげると「ビジネス旅館」という文字も見られますね。

綱島が温泉郷だった歴史に幕を閉じた後、こちらはビジネス旅館としてしばらく延命していたんですかね~?

その辺を含め、昔話などいろいろ聞けるかもと思って聞き込みをしようとしたのですが、ピンポンを押しても留守だったのか空き家だったのか、残念ながら聞き込みは出来ませんでした。。

時代を感じるネオンが残る

その「まつ代」のすぐ近くにもう一軒旅館の建物が残っておりましてね、こちらは旅館「きよ水」ですね。時代を感じるネオンがこうして残っているのが凄く萌えますわ(*´▽`*)

この旅館、1959年の住宅地図には旅館としては載っていなかったので、だいぶ昔に廃業してしまったんでしょうか。。建物自体はそんなに古くは見えないんですけどね。

見えますかね??

こちらは入り口の看板だったんでしょうね。

もうかすれてしまっていますが、見えますでしょうか。「旅館 きよ水」という文字が書かれておりますが。。

ラジウム霊泉湧出記念碑

交差点の一角に建てられた湧出記念碑

そして、綱島温泉の痕跡を辿るとなるとこちらを外すことはできません。上の写真に写っているのは、1933(昭和8)年3月に建立した「ラジウム霊泉湧出記念碑」っす。

この石碑を建立したのは、綱島温泉の所有者であった加藤順三氏。近未来に開発されるであろう綱島一帯の繁栄を願って建てられたようです。

交差点の隅っこにひっそりと建っている記念碑。あまりにひっそりすぎて、誰にも気づかれていないようではありますが。。( ;∀;)

横浜市長による揮毫らしい
記念碑の裏には関係者の名前が

記念碑の裏には多くの名が連なっておりました。綱島温泉発見者、温泉所有者、後援者などの名が連なっており、前回の記事でも紹介した綱島に誕生した最初の温泉旅館「永命館」を開業した小島孝次郎氏の名も刻まれていますね。

せっかく碑が残ってるんだからもうちょっとアピールしてもいいような気はしますけどね。

とは言っても、多くの人からしたら「へ〜ここ温泉沸いてたんだ〜。ふーん♨︎」程度にしか思われないんでしょうか。。

料亭の屋号が残る諏訪神社

小高い丘に建つ諏訪神社

最後に訪れたのは小高い丘に建つ諏訪神社。

花街の痕跡は神社にも残されていることが多く、綱島周辺で探してみるとここが一番大きめだったということで来てみたという次第。

1933年の諏訪神社例大祭
引用元:『わが町の昔と今8 港北区編』

というのも、港北区の図書館で発見した資料にも上の写真が掲載されていましてですね。こちらは1933(昭和8)年に行われた諏訪神社例大祭の様子でして、温泉街に活気がある時はこの神社で盛大にお祭りが開かれていたそうなんですよね。

そんなこともあって、境内にある玉垣とか碑に旅館や料亭の屋号が残されていないかな~と考えたわけです!

そこで、玉垣を注意深く見てみると、、、

「温泉旅館 入船」の屋号

お~~あったあった!

ここに「入船」と刻まれていますが、これは駅の東口にあった「温泉旅館 入船」でしょうね。玉垣にあるということは、本殿の再建か何かに寄進(寺社に自ら金品を寄付すること)されたんでしょうな~。

「温泉旅館 水明楼」の屋号

まだありました!

ここには「水明」と刻まれていますが、これは先ほどマンション名にも残っていた「温泉旅館 水明楼」でしょうね。

という感じでこんほかにもう一つ見つけて、三つほど温泉旅館の屋号が刻まれていました。これら玉垣、結構綺麗な状態なのでそんなに昔ではなさそうなんですけどね~。何年前のものなのだろうか。。

社務所に話を聞きに行こうとしたんですが、残念ながら人はいなかったようでその辺は出来ませんでしたが、かろうじて温泉旅館があった痕跡は見つけられたかと思います。

おわりに

かつて旅館街だった現在の住宅地

以上、二記事にわたって綱島温泉に関する話をさせていただきました。

大正から平成まで80年近く温泉郷として歴史を刻んできた綱島ですが、こうして歴史を調べてみてから街を歩くと、その街の変わりように驚きつつも何か寂しさも感じてしまいます。

綱島に住んでいる方はほとんどが他所からの方だとは思いますが、「自分の住んでいる町にそんな歴史があったのか~」と、これからの世代にも伝えていただければ私は嬉しいですけどね。

また何か新情報でもあれば調査しようとは思いますが、綱島に関してはこれでひと段落という感じっす!

ではでは!!

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市港北区綱島西2丁目周辺
アクセス 綱島駅から徒歩5分ほど

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