三浦半島の漁師町にかつてあった「北条遊郭」に関して調査してみた!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今回は、またまた遊郭に関する記事になります。そんで、今回紹介する遊郭は神奈川県の三浦半島の先っぽにあった北条遊郭という結構マニアックというかあまり有名でない遊郭に関してです。その北条遊郭の取材のために、わざわざ赤い弾丸こと京浜急行に乗って南へと進んでいったわけです!
ということで、漁師の町である三崎港の北条遊郭に関してを以下で紹介していきましょ〜!
本記事のポイント

・北条遊郭は2度の移転を経ている
・漁業の全盛期時には多くのお客さんで栄えた!
・今現在も看板建築などの古い建物が多数見られる

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北条遊郭はどこにある?

まずは、北条遊郭の場所について!今回目指す場所はここになります。ざっくり言うと三浦半島の先っちょになるわけですが、アクセスがちょっと面倒なんですよね(ー ー;)
京急は三崎口駅までしか行かないため、その先はバスとかを使うか歩きまくるしかないわけです。
余談ですが、京浜急行は三崎口から今の京急油壺マリンパークがある付近に油壺駅を作って、そこまで延伸する計画があったのですが、予算の面であいにく断念した経緯があります。三崎口周辺は人口減少も進んでいて結構街の存続もヤバ目な印象があるのですが、そんな事に関しても記事にできる気がしますが、今回は遊郭に関してなのでその件はまた後日にでも。。
▲2度目の移転後の北条遊郭の場所
で、厳密に遊郭がどこにあったかというと一番直近はこの場所になります。ただ、北条遊郭は2回移転をしているため、ずっとこの場所だったわけではないのですね!まぁその辺りは以下で詳しく書いていこうと思いますので、この章ではこの辺で(⌒-⌒; )

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北条遊郭へと向かう!

北条遊郭の取材をしに行くため、神奈川県の南側へと進んでいきます。ただし、訳あって前日に横須賀中央のまんが喫茶に泊まり、早朝に三崎港へと向かうことに。
そして、午前7時30分頃に三崎口駅に到着。普段なら基本はバスは使わず歩いて行動をするようにしているのですが、三崎口駅から三崎港までは結構厳しい距離なのでバスを使わせていただきます!
▲早朝に行われているマグロの競り
バスに乗って、三崎港のバス停で下車。せっかく三崎港まで来たので、近くにある魚市場で少し見学した後に、遊郭調査へと動き出すことにしました!
▲魚市場でいただいたマグロカマ塩焼き定食
すげぇ余談ですが、朝飯にマグロカマ塩焼き定食をいただきました!最近食生活が壊滅的にヤバイ(栄養面で)感じになっていたので、マグロは本当に身にしみてうまかった!!

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遊郭跡周辺を散策する

三崎港周辺は散策経験がなく、GoogleMapを見ながらでないと動けない状態。そのため、付近を一通り散策しながら調査をします。まず訪れたのは海南神社。
続いては神社周辺の商店街、この商店街には結構古めな建物や看板建築も垣間見られ、街を歩いているだけで一人でテンションが上がっていた私。歩きながら事前に色々な場所で収集した資料をもとに、この付近周辺の遊郭史を調査していったわけであります!

北条遊郭の歴史を辿る!

ということで、三崎港周辺をうろついて遊郭史を自分なりにまとめてみましたので、時系列で紹介していきたいと思いまっス!

漁業全盛期などで街が栄え貸座敷が誕生

三浦市は漁業の街として知られています。そして、明治元年〜9年の頃には漁業の全盛期を迎えることになります。またそれだけではなく、三崎港周辺は伊豆などからやってくる船が江戸へ行く際の風待港(いわゆる休憩所的な感じ?)として多くの船が寄る場所でもあったようです。
そんな背景があり、新規貸座敷渡世願を出した方が4人いたように、遊女屋が町民の要望の的となりました。出て来たお店は遊女屋だけではなく料理屋、寿司屋、蕎麦屋などのお店も新規開業して栄えて行くことになります。
▲最初の北条遊郭の配置図
そして、海南神社周辺に貸座敷が点在するようになっていきます。その際の貸座敷の位置はこんな感じだったようです。ただ、これは参考にした資料が厳密でないため推測も混じっていますので信憑性は微妙です。。
ただし、三国という貸座敷は今現在の三上写真館の場所にあったようです。その他には、近江屋、若本、伊勢松、金田屋という三上も含め全部で5軒の貸座敷があったようですが厳密な場所は特定できていません。。

周辺住民に迷惑となり丘の上に移転

▲北条遊郭1度目の移転
冒頭でも書きましたが、北条遊郭は2回移転しています。元々は、今紹介しているように海南神社周辺に遊郭が点在しているような形でした。ただ、ここでは夜のどんちゃん騒ぎが地元の漁師の安眠妨害につながったということで、明治8年12月にすぐ近くの丘の上に移転することになるのです!これが1回目の移転!
1回目の移転では、明治8年12月に付近の丘に移転することになります。また、明治8年6月にはこの丘にあった清水医院に梅毒病院が開設されます。これはこの丘に移転するちょっと前の出来事。この病院は、三崎で初めての病院であり、街に出来た最初の病院が梅毒病院という歴史を刻んだわけです!

三浦の大火によって再度移転

▲北条遊郭2度目の移転
移転して数年が経った後、明治34年に三浦で大火事があったようで遊郭が全焼します。それを機に、今度は北条湾の奥の田んぼを埋め立てた場所に移転する形になります。またか!多くの遊郭では「街が栄える→火事が起こる→火事をきっかけに隔離された場所に移転」という流れに似ていますが、やっぱりこんな感じか!
▲2度目の移転後の北条遊郭配置図
遊郭の位置はこんな感じだったようです。ただ、位置は大体ですのでご注意ください!ここでは移転前の時点では「近江屋、伊勢松、若木、三国、金田屋」の5軒があり、北条遊郭での明治41年ころは「近江屋、三国、金田屋」の3軒、昭和5年には「近江屋、東海、西(の)宮、三国、金田屋」の5軒で、娼妓は44人だったそうです。「近江屋、三国、金田屋」の3軒はずっと生き残り続けていたようですね。
そんでもって、ここに移転してからは1958年の売春防止法が施行されるまで遊郭として営業していたようで、1946年には赤線指定もされていたんでしょうかね?で、その後は廃業したそうです。多くの遊郭跡では転業旅館になったり、カフェーとして生き残ったりしていますがこの場所はどうだったんでしょうね?あっさりなくなっちゃったんでしょうかね?
今現在の北条遊郭跡は、完全な住宅街となっていてその面影は感じられませんが、いくつかの建物で痕跡なのかそれっぽい雰囲気を感じた建物はありましたが、ここでは伏せておきます!
今現在も、当時と同様にここには狭塚川(さつかがわ)が流れております。あと、補足ですが、狭塚川の両脇には細い道があるのですが、ここにはおびただしい数のフナムシと数匹のカニがいます。虫が苦手な方は多分通れないと思います(笑)
付近にはこのような看板もあり、ここには昔色街だったということを教えてくれていました!ただし、北条遊郭というような具体的な名称は記載されていませんね。。

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多くの古い建物が残る町。

ここからはオマケなのですが、三崎港周辺には結構レトロな建物が多く存在しているので何枚か記載したいと思います。こちらは、今は何の建物なのか不明なのですが見事な看板建築です!横浜や東京ではなかなか見ることができないんですよね~。。首都圏だと川越は割と多いイメージ!
こちらも看板建築?お酒などを売っている雑貨屋さんだったようです。見ているだけでご飯がすすむわ(笑)
こちらも結構古い感じの飲み屋でしょうかね?今はもう営業していなそうですが、朽ちかけ具合が結構進んでいるようです。
今は駄菓子屋さんも本当に減ってしまいましたよね。私が小学生の頃は、モロッコヨーグルトやミツアンズとかラーメンババアとか色々買い食いしたもんなんですがね。。

おわりに

今回の北条遊郭調査はこんな感じでした。三崎港は私が住んでいる神奈川県にあるとはいえ結構アクセスが不便なので何度も行く気にはなれない場所なんですよね!一応調べたいことは調べたものの、まだまだ未知な部分は多い遊郭でもあるのです。
遊郭調査は事前に資料を探したり、現場でもいろいろ聞き込みをしたりと結構労力がかかるジャンルではあるのですがこれからも根気強く色々な遊郭を調査していきますよ~!

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県三浦市諏訪町4
アクセス 三崎口駅からバスに乗り北条バス停まで行った後、徒歩5分。
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