建物は築100年以上!金沢八景が景勝地だった歴史を語り継ぐ「喜多屋 旅館」で、その歴史に思いを馳せた!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
こんにちわ!
今回の記事は、横浜市金沢区にあるとある老舗旅館に関する記事になります。横浜市金沢区は私の出身地であり、私の祖母の家があったことからとても愛着のある街だったりします。そんな金沢区には金沢八景という京浜急行の駅があるように、とっても景色が綺麗な景勝地で多くの料亭が軒を連ねる観光地だった歴史があるんですね!
そして、そんな名残をかろうじて実感することができる旅館「喜多屋」さんに訪問したので、そんな喜多屋に関して、さらには金沢八景の歴史も含めて紹介しようと思います!
本記事のポイント

・喜多屋旅館は築100年以上と推定される国登録有形文化財
・多くの著名人が宿泊した旅館であり、与謝野晶子が宴を広い多大広間も健在
・金沢八景はかつて江戸庶民などに親しまれた景勝地だった
・金沢八景は長きにわたり埋め立てられ、かつての風景は失われてしまった

スポンサーリンク

築100年以上の存在感は圧巻!

こちらが、今回の記事の主人公である喜多屋さん。京浜急行の金沢文庫駅から車で数分の場所にあるこのお店は、住宅街の中にあるためなかなか気づかれにくい場所であるものの金沢八景がかつて景勝地だったことを語り継ぐ、数少ない貴重なお店だったりするのです!!
▲圧巻の存在感である喜多屋旅館
建物の外観はこんな感じ。木造でとっても風情ある建物であり、周囲の建物とは別格の雰囲気を醸しておりますぜ(*’▽’)
こちらは、もともと東京の品川で、明治期に建築された木造二階建ての建物であり、1930年(昭和5)年に船を使ってこの地に移築されました。喜多屋自体は、元々横浜(今の桜木町)で営業していた料亭「満月」がはじまりでしたが、1930(昭和5)年に開園した旗亭「金沢園」として2016(平成28)年2月まで営業していました。
その後、横浜でインバウンド事業やシェアハウス事業を行ってきた喜多正顕さんによって、開業資金の一部をクラウドファウンディングで得ることで、館内のレストランが2016(平成28)年7月12日にオープンし、その後は旅館業の許認可を得て「旅館 喜多屋」としてオープンすることになりました。
このお旅館は何で知ったのかというと、歴史ブログ仲間である久良岐のよしさん(以降よしさん)に教えていただき、さらに案内していただいたお店なのです。今日初めてよしさんにお会いして、ここで昼飯を食べるとともに、神奈川の歴史談義をするとともに、喜多屋近くの金沢文庫、称名寺を案内していただいたんですね!!
↓よしさんのブログはこちら!!

近くの漁港で捕れた穴子が激ウマ

▲かつての厨房が、今のレストラン
早速館内に入りお昼ご飯を食べるため、喜多屋のレストラン「cafe & dining ぼたん」へ!
喜多屋は、今現在レストランと旅館の二刀流の建物。こちらのレストランとして使われているスペースはもともと厨房だったそうです。というのも、かつての時代のお客さんは今の客室で食べていたためなんですね。こんだけのスペースが厨房だったとなると、栄えていた当時はお客さんも結構な数が訪れたんでしょうな~。
▲今回食べた、豪華な天ぷら料理
お昼ご飯はランチ御膳(1,500円)が、月替わりで3種類用意されています。今回私たちが食べたのは穴子などの天ぷらの定食。この穴子は、すぐ近くの柴浦港で獲れた穴子が使われており、肉厚でとっても美味でしたぞ!
しかし、こんな豪華なお昼は本当に久々でしたわ!天ぷらも美味しかったですが、右側に写っているスープがインパクト大のうまさでした( ´ ▽ ` )ノ
▲横浜にある牛鍋の名店「荒井屋」の牛鍋
さらには、少々値段は張りますが横浜発祥と言われる牛鍋もメニューにあったりします。横浜市内では、太田縄のれんや荒井屋などの牛鍋の老舗がありますが、ここでも食べることができるんですね!上の写真は、
喜多屋では牛鍋食べていないので、一年くらい前に食べた荒井屋の牛鍋の写真を貼り付けておきます(笑)
食事の後はコーヒーなどの飲み物もついてきます。このコーヒーはオーガニックのコーヒーなんですぜ!!

かつて景勝地だった金沢八景の歴史

食事を終えた後は、よしさんのおかげで客室などもスタッフの方に案内していただけることになったのですが、その前に金沢八景の歴史を整理することにしましょう!かつてこの場所は、今回の喜多屋を含む旅館や料亭が並ぶ観光地だったわけですが、それは一体何故なのか?
それには、かつて多くの著名人が訪れる景勝地だったという背景が関係しているのです。

金沢八景は江戸庶民に人気の観光地だった

▲かつて景勝地だった金沢八景
今現在、金沢八景というと八景島シーパラダイスを思い浮かべる方が多いと思います。ただ、駅名に”八景”という景色に関する名前が付いているように、ここは入り江が綺麗に見える景勝地だったのです。それを開発によって埋め立てまくってしまったため、その名残がほとんど残らなくなってしまったのです。。
そんな景勝地であったため、江戸時代には多くの江戸庶民が金沢八景を訪れているのです。
というのも、江戸時代中期頃、江戸の庶民たちの生活にゆとりが出来たことから、物見遊山を兼ねて神奈川県内の大山、江ノ島、鎌倉、そして金沢八景の四箇所を訪れて社寺に巡拝するようになりました。
▲今でも風情ある雰囲気が残る大山
大山というと、標高1,242mの丹沢山系に含まれる山。紅葉の時期などには多くの観光客が訪れる場所であり、食べ物としても猪鍋や丹沢山系の名水を使った大山とうふなども有名。関東周辺には大山講という大山信仰をする方々が大勢いて、多くの方が江の島詣といっしょにこの地を訪れました。
それは最近移転した築地市場で働く方々もあてはまります。かつての漁船は、自分の位置を確認するための「山アテ」という方法をとっており、その目印だったのが大山だったことで築地関係者がこの場所を訪れるわけです。
大山の麓は、今でも昔ながらの雰囲気が残っている観光地なのですぞ!!
▲今でも多くの観光客が訪れる江の島
そしてこちらは江の島っすね!今でも有名観光地として多くの方が訪れる江の島は、整備された同中に故事・旧蹟が多く、しかも景勝地で活きの良い海の幸を味わえるということで江戸中期には最も人気があった場所でした。
日本一の遊郭街といわれた吉原遊郭もこの江の島とは関係があり、巳待講(みまちこう)という方々が江の島詣を頻繁に行っていたようです。そんな関係性もあって、上の写真に写っている青銅の鳥居には「新吉原」という地名が今でも残っていたりします。
▲大部分が埋め立てられた金沢八景の景観
そんな大山詣や江の島詣とセットで多くの江戸庶民が訪れた金沢八景。今現在では景勝地だった姿はほぼ無いに等しい状況になっていますが。。(⌒-⌒; )
▲金沢文庫で購入した金沢八景の絵葉書
金沢八景とは、そんな景勝地の中でも綺麗に見える八箇所を選定したもの。上の写真に写っているのは、近くの金沢文庫博物館で購入した絵はがきですが、こんな感じの景色がかつては見れたそうですよ。浮世絵師として有名な歌川広重は1836年頃に金沢八景の風景を描いており、彼女の代表作にもなっています。
▲八景近くの夏島にある「旧伊藤博文金沢別邸」
与謝野晶子などの著名人が訪れたほか、伊藤博文元首相の別邸もあったということで最盛期にはかなりの賑わいがあったんじゃないでしょうかね。
伊藤博文の別邸があったということもあり、1887(明治20)年には、伊藤博文を中心に井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の4名が、八景にあった旅館「東屋」で明治憲法の草案作りをしました。しかし、草案の現行が入ったカバンが盗難にあったことで、こちらの夏島にある伊藤博文の別邸で草案作りは続けられたのです。

埋め立てによって景勝地は姿を消した

※「今昔マップ on the web」を元に作成
1900年頃の金沢八景の海岸はこんな感じになっていました。奥にまで海が広がっており、海が入り組んだ地形になっていますよね。
※「今昔マップ on the web」を元に作成
それと2000年頃を比べるとその差は一目瞭然。。海だった場所の多くが埋め立てられてしまい、入り江だった場所も今では消え失せてしまっています。江戸時代中期以降に継続的に干潟湾が干拓され、さらには明治時代の追浜飛行場の建設によってこの辺りは埋め立てられていくことになるのです。
そして、その後に大規模な埋め立てが行われたのが、戦後に行われた飛鳥田一雄(あすかた・いちお)が横浜市長の時にぶち上げた横浜六大事業に含まれる「金沢の埋め立て」です。
「横浜六大事業」の中身
1. 都心部強化事業(みなとみらい21構想)
2. 金沢地先埋め立て事業
3. 港北ニュータウン建設事業
4. 高速鉄道(地下鉄)建設事業
5. 高速道路網建設事業
6. 横浜港ベイブリッジ建設事業
その六つの施策はこちらっす。今現在の横浜は、これらの施策によって発展してきたといっても過言ではないわけですが、そもそも何でこのような計画をぶち上げたのか??

連合国の接収で復興が遅れた横浜

▲接収されている時代の横浜関内の周辺
太平洋戦争が終戦し、日本は敗戦することになります。GHQが厚木飛行場に降り立ち、日本は連合国によって占領されることになります。横浜の関内付近も接収されて、今現在の福富町・若葉町の辺りには米軍たちの住居であるかまぼこ兵舎が建ち並ぶことになるのです。
占領は七年間続き、1952年にようやく横浜関内付近は日本に返還されることになったのです。七年もの間接収され続けた横浜の街は発展が遅れ、人口が増え続ける中、交通のインフラ関係などが追い付かず、街が住んでいる人口の数を捌(さば)ききれなくなってきたのです。
▲横浜六大事業で計画された「みなとみらい」
そんな横浜の街のインフラ設備に力を入れて人口増加に耐えうる街にすべく、1960年に当時の横浜市長である飛鳥田一雄市長が六大事業計画をぶち上げたのです。渋滞緩和のために横浜ベイブリッジら誕生し、その他には首都高速や横浜市営地下鉄の敷設、そして、人口増加により都心部を商業・住宅地域とするために、中心地にある工場を金沢へ移すべく、金沢八景が埋め立てられることになったのです。
横浜の有名なデートスポットのみなとみらいも、この時に計画されたんですな。
↓みなとみらいにあるランドマークタワーに関しては以前記事にしたのでこちらに貼っておきますね!
金沢八景って首都圏に住んでいる方ならシーパラダイスの影響でご存知の方が多いとは思いますが、この場所にはそんな歴史があったんですね!
では、どんどん話がそれていってしまいましたが、そんな歴史を踏まえて喜多屋の館内を案内していただいた様子を次ページで紹介していきます!
続きはこちら!与謝野晶子が歌会を開いた広間が未だ健在!
↓↓↓
↓↓twitterもよろしくです
※ほぼ毎日つぶやき中
関連コンテンツ
関連コンテンツ



  • このエントリーをはてなブックマークに追加