宮崎県の有名漁港「油津」に、かつてあった遊郭史を探究した話Vol.3〜旭通りの歴史

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今回の記事は、宮崎県の港町である油津(あぶらつ)の遊郭史、第三弾になります( ´ ▽ ` )ノ
前編の記事では、油津にあった2箇所の遊郭のうちの一つである、東遊郭に関してのお話でした。
↓↓前回の記事はこちら
で、今回はもう1箇所の旭通りにあった遊郭(勝手に旭遊郭と書きましたww)などの歴史に関して説明したいと思います〜!!
本記事のポイント

・遊郭があった「旭通り」は、夜明けの際に朝日がスッと通ることから付けられた
・遊郭のなかには、病院として使われたりもした
・フィリピンバプが多かった時期があり、広島カープの選手もお世話になった

スポンサーリンク

旭通りの由来とは??

旭通りは、元々は三間通りでしたが、その後「旭通り」と言われるようになりました。その由来は、夜があけて朝日が上がるとこの通りを真っ直ぐ陽がさすため、夜遊びを終えた男たちが朝日を浴びていたことからつけられたそうです。今回取材したお店もその旭通りが由来となって「あさひや」という店名になったそうですよ!

昔の旭通りを解説していこう!!

全編の記事でも述べたように、油津の遊郭史を調べるべく『あさひや』さんで取材をすることが出来ました。その取材内容から判明した内容だけにはなりますが、旭通の遊郭史を 簡単に紹介していきたいと思います。

病院に変貌した妓楼「蔦乃家」!

お母さんが「ここは遊郭だった!」と言っていたのは蔦乃家という建物。お母さんは、ここの病院に行ったことがあるようで、その名は「とうごう病院」という病院だったそうです。ただ、それは明らかに妓楼がそのまま使われていたと思われる感じの建物だったとのこと。
病院に入ると、正面にめちゃくちゃでかい受付があり、左側に薬局、右側には待合室があるのですが、その待合室には掘りごたつがある様に、いかにも妓楼という感じの建物だったそうなんです。その2Fで、お母さんの同級生が盲腸の手術をしていて、そのお見舞いに行った覚えがあるという。
上の写真は、かつて蔦乃家があった場所。今では新し目の建物の中に、スナックが何件か入っているようです。

スポンサーリンク

ちょっんの間らしき謎の建物!

石那田というお店があったこの場所は、1階が飲み屋だったとのこと。そして、2階にはお母さんの同級生が住んでいたそうです。1階には、中に入るとカーブを描いた急な階段があり、それを上っていくとちょんの間にあるのような小さな部屋がいくつかあった。
石那田の隣はアーケード状の道があったそうですが、その上が石那田の2階の廊下になっていて、その廊下の両側に部屋があったという。ここはおそらくちょんの間だったのでしょうかえね。
今では、こちらは新しい建物になっていて何件なのスナック・バーが入っている建物に変貌しているようです。

細い路地に、かつてあった巨大妓楼

お母さんの記憶によると、上の地図の場所に大きな妓楼があったとのこと。この狭い路地の間ですね。その妓楼は、結構大きな建物で庭にはエンドウを育てていたという。というか、この辺りには庭になぜかエンドウを育てている方が多くいたんですって!
中に入ると、大きな広間の正面に巨大な階段があり、品のいい一人のおばあさんが7人ほどの赤ん坊をを面倒見ていた光景を覚えているという。お母さんの推測だと、そのおばあさんは元々そこの妓楼で働いていた女郎であり、赤ん坊はおばあさんの娘たちにあたる方たちの子供で、彼女らが働いている間におばあさんが面倒を見ていたという構図ではないかと。
今現在は、妓楼はすっかり姿を変えて別の建物が建っており、跡形も無くなってしまっています。。

今も残る『令女プール』という看板の正体

旭通りを歩くと、多くのスナックが立ち並ぶ大人の街と化しています。そんな通りの中でも、ひときわ気になるのが『令女プール』という看板。最初はソープランドかハコヘル跡とかかと思ったのですが、こちらは社交バーのようなお店であり、ソープランドのような風俗店ではないお店でした。

スポンサーリンク

フィリピンパブや社交バーで賑わっていた!

上に書いた『令女プール』以外にも、『ミカド』という社交バーもあったそうです。このミカドは、何店舗かお店があり、今現在ファミリーマートがある場所に本店があったとのこと。
また、社交バー以外にはフィリピンパブもいくつかあったという。かつて稲荷山楼という建物があったこの場所にもあったようで、多くのフィリピン人女性が働いていたのです。ただ、よく扱われなかった女性も多く「彼女らが教会に逃げ込んで助けを求めた」なんてこともあったそうです。

フィリピン人女性だらけの電話ボックス

あさひやの斜め向かいには、7人くらい入れる巨大な電話ボックスがあったそうです。「あさひや」のお母さんは、「なんでこんなに何人も入れる電話ボックスが必要なのか」と思ったそうですが、それには意味があったようです。
その電話ボックスは、フィリピン人女性が使用する目的で作られていたようなのです。彼女らが、7人くらいでボックスに入っては交代で故郷へ国際電話で電話をしていたとのこと。携帯電話もまだない時代ですから、その灰色の電話ボックスが故郷の方と話せる電話ボックスだったのですね。
しかし、その公衆電話は最後は車が突っ込んで(事故??)消えてしまったとのこと。

長い歴史をもつ「旭通り」の人間模様

風俗という世界で働く女性には、本当に色々な物語があるわけです。
「頭の弱い女性がいて、その女性が食べていけるように女郎屋でお客を斡旋していた」ということもあったそうな。当時は生活保護がもらえなかった時代だったということもあり、そのように遊郭で働いて日銭を稼ぐしかなかったという。
また、女性が女郎屋で働くようになるとそれを広めるおばさんもいたという。油津港の方にあった東遊郭とは異なり、旭通りの方は地元の方が働くこともあったそうなので、そのようなうわさが広まることがあったそうですよ!
その他には、油津が広島カープのキャンプ地ということに関する話になりますが、詳しい場所は出しませんがカープの選手たちが、毎年ダンボール4箱ほどのみかんを買う八百屋さんがあったそうです。なんでカープの選手がそこでそんなにみかんを買うのかというと、その八百屋の店主がカープの選手にフィリピン人女性を斡旋していたみたいな話も。。。
まぁこれに関しては、きりがないくらい話は出てくるでしょうね。私が今回聞いたのはこのくらいでしたかね~・。

おわりに

その他にもまだまだたくさん聞きましたよ!ただ、長くなるのでこの辺で打ち切りにしましょうかね!!ということで、旭通りの色街史はこのくらいに( ´ ▽ ` )ノ
次回は、色街以外の要素も含まれますが、今の旭通りの現状を簡単に説明していきたいとおもいますよ〜!
↓↓続編はこちら

参考文献

↓よければクリックをお願いします

スポンサーリンク

詳細・地図

住所 宮崎県日南市油津
リンク https://www.kankou-nichinan.jp/
↓↓twitterもよろしくです
※ほぼ毎日つぶやき中
こちらの記事もどうぞ!
この記事も読まれてます!
関連コンテンツ
関連コンテンツ



  • このエントリーをはてなブックマークに追加