ちょんの間街からアートの街へ!平和をとり戻した黄金町物語Vol.2~戦前の黄金町

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全8記事に渡る黄金町の歴史紹介!まずは、時代を遡って江戸時代あたりから太平洋戦争に至るまでの歴史を紹介していこうと思います。黄金町の歴史は、横浜村という今で言う関内駅や桜木町周辺の歴史とも大きく関わりがあるため、その辺りの歴史も踏まえながら紹介していこうと思います!

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江戸時代に黄金町周辺は埋め立てられた!

上の写真は、横浜水道記念館を訪れた際に撮った1枚。元々は江戸時代に埋立をして今の横浜の基礎を築いています。今回の記事の主役でもある黄金町周辺も吉田勘兵衛によって埋め立てられ吉田新田が誕生しています。日ノ出町や黄金町辺りの場所は太田村という地名だったようですね。地名の話をすると、黄金町という地名は開港後の1869年、そして日ノ出町や初音町は1871年に付けられました。
ちなみにですが、横浜の由来は写真の下側にある横に長く伸びた砂嘴(さし)からきているようだ。今の横浜中華街の場所は写真の中央より少し左側に位置している横濱新田という田んぼだったんですね。

1859年に横浜が開港!

1859年に日米修好通商条約が結ばれ、横浜が開港することになりました。当時の横浜村は今の横浜とは異なり閑散とした村という感じでした。横浜周辺では、東海道の宿であった神奈川宿が栄えていたものの、江戸に続く東海道付近に外国人の方をいさせたくないということで、横浜村を開港することになりました。

横浜公園には港崎遊郭が誕生

そんな横浜港の開港に伴い、横浜に色々なものが誕生。今では横浜スタジアムがある横浜公園ですが、開港した当初は横浜に出来た初めての遊郭である港崎遊郭(みよざきゆうかく)がこの場所に作られました。外国人も多く訪れたこの遊郭は、豚肉料理店が原因による火事(豚屋火事)によってわずか4年近くで焼失。

現在の横浜公園には、その名残として岩亀楼の文字が刻まれた石塔が建っております。横浜の遊郭は、吉原遊郭(東京の浅草とは別)、高島町遊郭などを転々として、永真遊郭という遊郭が生まれ続けます。移転したのは火事によって消失し続けたことのようで、これらをまとめて横浜遊郭といっているようです。永真遊郭は他の記事でも紹介していますが、桂歌丸師匠の地元でもあり、1958年の売春防止法によって消滅し、今は閑静な住宅地となっているのです。

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多くの発祥の地である横浜

そんな横浜には多くの発祥がある。開港後は多くの外国人が訪れ、西洋の色々な文化が日本に輸入されるようになります。今でいう馬車道や山下公園、元町の付近には多くの発祥を記念した碑が建っているのですよ!
アイスクリーム、西洋クリーニング、競馬、西洋公園、テニス、カメラ、近代街路樹、スパゲティナポリタン、ドリア、ホテル、外国郵便、サイダーなどなど本当にたくさんの発祥の地であるのです。

ちなみにであるが、写真に写っている白い建物は山下公園の向かいにあるホテル・ニューグランド。かつてはあのマッカーサーも宿泊したホテルであり、このホテルではスパゲティ・ナポリタン、ドリア、プリン・ア・ラ・モードが誕生したホテルであるのだ。その生みの親は、ここの料理長を担当していた「サリー・ワイル氏」!
ちなみに、ここで生まれたスパゲティ・ナポリタンはケチャップが使われていないもので、生トマトを使用しているスパゲティなのだ!初めてケチャップを使ったナポリタンは、ここから少し歩いた野毛にあるセンターグリルというお店なのですよ!!!

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東海道からのアクセスとして横浜道が誕生

先ほどもちらっと記載しましたが、当時の横浜は閑散とした村だった。そして、もちろん今のみなとみらいなんてものはなく旧東海道から横浜へのアクセスもきちんとしていなかったわけです。そこで、開港した横浜への道が作られます。
東海道の方からは、今の浅間町交差点付近が起点となり、平沼、そして野毛を経て吉田橋の方まで抜ける道のことを横浜道と言われていました。

ここが横浜道の起点となる浅間橋交差点。しかし厳密にいうとこの場所から1ブロック東(写真左)の箇所が横浜道の起点となる。すぐに、写真にあるまっすぐ伸びた道に合流し横浜道が伸びています。横浜道に関しては歩いて調査済みであるので、今度また記事にまとめようと思います!

横浜道には、このようなプレートが埋め込まれています。今までこの道は何回か歩いているものの、こんな歴史があるとは知らなかったな~。。皆さんの街にも、何気なく歩いているものの実は結構重要な歴史がある道があるかもしれませんよ!!

明治・大正期の黄金町

開港後は、1872年に日本初の鉄道が横浜~新橋間で開通。当時の横浜駅は今の桜木町駅の場所にあり、今現在の横浜駅は3代目にあたります。黄金町周辺は鉄道利用者や駅で働く人々が増える他、大岡川の水上交通も発達していました。現在も黄金町の大岡川沿いで湧いている日ノ出湧水は、その水上交通で使われた船で生活する方の水としても利用されていたそうです。
この日ノ出湧水は、関東大震災の際に水不足に陥った際も人々を支えた湧水でもあります。この日ノ出湧水だけでなく、横浜市にある打越の霊泉やワシン坂の湧水も関東大震災の差には多くの人を支えていたのです。水運が発達するだけではなく、日ノ出町にはオルガン工場もできたという。

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関東大震災で多くの被害を受ける

1923年9月1日に発生した関東大震災。この震災では黄金町周辺はほぼ壊滅状態だったそうです。東京の方でも、建物の倒壊だけでなく当時は木造住宅ということもあり火事で多くの家が焼けるなどしたわけですが、横浜は壊滅だったとのこと。その後、5年くらい経って建物が建つようになってきたそうです。
横浜駅も崩壊。関東大震災当時は2代目横浜駅の時で、わずか8年で終わってしまったそうです。その後、昭和3年の1928年に今の場所に3代目横浜駅が完成しています。

黄金町駅と日ノ出町駅の誕生秘話

しばらく横浜の歴史に関してを話しましたが、ここでようやく黄金町に関するお話です。上記で述べたような感じで横浜の街が出来てくるわけです。鉄道も敷かれ横浜駅が誕生する最中、今では赤い弾丸と言われ快速ですっ飛ばすことでおなじみの京浜急行も鉄道を敷きだすことに。しかし、今では泉岳寺から三崎口までが通っているものの、初めからその区間だったわけではなかったのです。

黄金町駅が出来たのは1930年4月のこと。ただ、元々京浜急行は品川から横浜までの京浜電気鉄道と、黄金町から浦賀間の湘南電気鉄道の2つの鉄道があったのです。

その2つの鉄道が伸びる形で出会って誕生したのが日ノ出町駅となります。日ノ出町駅が出来たのは1931年12月のこと。日ノ出町からは桜木町方面に伸ばすという計画もあったそうですが、予算などの面で断念したとのこと。

当時は日本一の賑わいだったイセザキ・モール

関内駅を降りて西側に向かうと今でも伊勢佐木の商店街であるイセザキ・モールがあります。この商店街は1930年頃は日本一賑わっていた商店街だったそうです。この伊勢佐木商店街には劇場が10個ほどあり、すっごく栄えていたんですって。この頃は「伊勢ブラ」という言葉まで出たほどで、「桜木町駅で下車→劇場に行く→買い物をする→帰宅」というコースを歩む人が多いことからそんな言葉が生まれたという。そんな歴史ある商店街がこの伊勢佐木商店街なのだ!

少し余談ではありますが、そんなイセザキ・モールは日本で二番目に歩行者天国が行われた場所でもあります。また、それだけではなく不二家の1号店があったりも!この横浜センター店(当時は伊勢佐木町店)は関東大震災の際には灰塵と化してしまったそうです。。。

おわりに

そんな栄えていた黄金町近くの街。しかし、その後日本は太平洋戦争へと突入していきます。最初は日本が優勢だったものの、ミッドウェー海戦を皮切りに日本が劣勢に立たされることに。資材や食料が不足し徐々に連合軍が日本本土に迫り、1945年5月29日には横浜大空襲が起こります。
その際、黄金町は横浜市の中でも非常に大きな打撃を受けた街となったのです。。

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市中区黄金町2丁目
駐車場 周辺にコインパーキングが多数あり
アクセス 黄金町駅から徒歩1分
リンク https://ja.wikipedia.org/wiki/黄金町
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