成田空港の歴史は「空と大地の歴史館」で全て学べるぞ!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
日本の玄関口である成田空港。関東圏に住んでいる方であれば一度は利用したことがあるのではないでしょうか?出張に行く仕事をしている方などはなおさら。
そんな成田空港には誕生する際において多くの抗争の歴史があり、それは今でも続いている状態なのです。そんなこともあり、成田空港はいまだ未完成の状態。。そんな成田空港の歴史を調べるべく、空港近くにある空と大地の歴史館を訪れ多くのことを調査しました。
多くの方に、成田空港に関する歴史と今を知るきっかけになれば幸いです。
本記事のポイント

・成田空港は成田闘争という闘争の最中に計画された
・滑走路のど真ん中に神社や民家が残ったまま建設されてしまった
・未だに未完成の空港で、用地買収問題が残っている

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成田空港の歴史が詰まった「空と大地の歴史館」

空と大地の歴史館
▲空港の南側にひっそり佇む「空と大地の歴史館」
成田空港の南側。ここに、成田空港にまつわる数々の物語を展示している博物館があります。その名は空と大地の歴史館。近くには多くの家族連れが訪れる航空科学博物館があり、その傍らにひっそりとたたずむという表現がいいのだろうか、空と大地の歴史館があるんですね。
本来館内は撮影禁止なのですが、ブログに記事を載せる際の素材にしたいという旨を伝え了承をいただき撮影させていただきました。

成田空港の歴史を紐解く

空と大地の歴史館
▲こじんまりとした歴史館の館内
空と大地の歴史館では、スタッフの方がおり成田空港の歴史に関して空港ができる以前から現在までを非常に詳しく説明していただきました。ということで、成田空港ができる以前である戦後あたりから現在までの空港の歴史を色々と紹介していきたいと思います。

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三里塚は不毛の地だった

空と大地の歴史館
▲戦前頃の成田空港がある場所の衛星写真
上の写真は空と大地の歴史館にある、成田空港が完成する以前の航空写真です。元々、今の成田空港がある場所は江戸時代は放牧が行われている場所だったんですね。その後、この地には御料牧場という牧場ができたりしました。その背景には、この地は水が豊富にある場所ではなく分水嶺の場所ということが起因なのです。
空と大地の歴史館
上の地図で説明すると、左側そして右側に水田(白い線)が多く見られるのがわかるでしょうか。その水田跡を見ると、とある場所を境にしていることがわかるんです。
つまり中央の赤線がこの下総台地の高台部分になっており、そこを境に水が両側に流れていくということですね。左側に流れた水は利根川の方に流れていき、右側は九十九里の方に流れて行くのです。
そんなことから、この地は水が流れて行ってしまい、水を豊富に使用することができない場所が多く、そのような場所では農業を行うとしても芋類などを作らざるを得ない状況だったのです。
では、この地に暮らしていたのはどんな方だったのか。上記で述べた通り成田空港の場所は元々は農業を行うには非常に条件の悪い場所でした。そして、水があり、様々な農業を行える場所にはすでに多くの農家が畑を持っていたんですね。
この地に戦後に住み始めた方々は、戦後満州などに残されて引揚された方々や沖縄などの方で空襲等で帰る家がなくなった方などがいたという。さらには、農家の次男三男の方もこの地に来たという。当時の日本の農家は、基本的には長男が継ぐのが基本。そのため、農業をやりたくても実家の農家を引き継ぐことができない農家の次男三男が、ここに集まってきたのだという。

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不毛の地で暮らす方々の暮らしとは?

空と大地の歴史館
開拓農家は当時どのような生活を送っていたのか?
上でも述べている通り、三里塚は荒地だったのです。そのためここに暮らしている方はまともに農業もできず、ひたすら開拓をする状態。住んでいる家も「オガミ」といって竹・雑木・わらなどを用いて作った家の中で暮らしていたのです。
空と大地の歴史館
▲戦後の三里塚(左)・富里(右)の様子
上の写真の左側は三里塚、右側は富里の戦後辺りの様子です。両者は同じ時代の写真ではあるものの、暮らしぶりに大きな違いがあるのがわかりますでしょうか・・。左側の写真では荒れた土地に家が建っている一方、右側の写真はスイカを食べている写真でこちらの方は結構裕福に暮らしてるんですね。距離としてそんなに離れていないのに、なぜここまで生活に差が出てしまうのか?というと、その違いの原因は水なんです!!
三里塚のような場所は分水嶺のため水が流れていってしまいますが、富里は流れてきた水を利用できて、その水を使ってスイカを栽培することができたんですね。井戸は多くは真下に掘る場合が多いですが、富里の場合は真横に井戸を掘っていたんだそうです。
三里塚の方々は自分たちの農業だけでは生活ができないため、富里の農作業を手伝うなどして日払いで資金を得ていたり、富里の方々の残り物をいただくなどの生活をしていたようです。

昔の航空写真から見える住人の暮らし

空と大地の歴史館
先ほどの地図を元に空港設立前の状態を細かく見ると面白いことに気づくんです。こちらの拡大した箇所を見ていただきたい!
空と大地の歴史館
これは、無造作に民家が建てられている様子。こちらの方達は早い時期にこの地に移り住み、水田の近くで農業ができるように、このような形で建てられている。
空と大地の歴史館
一方こちらはどうだろうか。上の無造作に建てられた民家とは違い、綺麗に四角く土地が整備されていることがわかりますが、これは国が土地を区切り割り当てていったからこのような形になっています。
空と大地の歴史館
これらは、先ほどのように先に民家を立てていた方たちが住まなかった、農業をするには条件の悪い所なんですね。いわゆる、いい場所は先に取られてしまっていた状態ということです。
このような場所には、戦後に満州などからの引揚の方々や沖縄などの地元に帰れなかった方が、国により割り当てられ暮らしていた場所なのだそうです!こうみると、地図を見るだけで歴史が見えてくるもんですね。。

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成田空港の場所には、昔は牧場があった

空と大地の歴史館
▲御料牧場の歴史が学べる「三里塚御料牧場記念館」
この地では明治の時代から1969年までの間は、政府によって作られた牧場があったのです。その名も御料牧場(ごりょうぼくじょう)。ちなみに、ここでは日本で初めて羊が育てられた牧場だったりもしたのです。
羊が用いられたのは、日露戦争の時、青森県などで活動をする方たちのために防寒具が必要だったため、という話も聞きました。牧場は成田空港の南西側にあったようで、その跡地には三里塚御料牧場記念館という博物館が今もあるのです。
空と大地の歴史館
御料牧場があったのは、現在の成田空港の南西側ということで、現在でいう空港第1ターミナルの方です。今回この博物館を訪れる前にそっちで朝飯にとお茶漬けを食べたのですが、レシートを見てビックリ!現在の住所に御料牧場という文字が入っているではありませんか!
ということで、昔牧場だった名残がこんな所でも発見できるわけなのです!

成田空港の場所はどのように決まったか?

空と大地の歴史館
▲成田空港建設の候補地だった箇所
そんな中、永田町では新しい国際空港を作る話が進んでいました。そこで難題だったのがどこに空港を作るのか?という問題。空港の候補地として選ばれたのは浦安、木更津、霞ヶ浦、富里・八街でした。
しかし、それぞれは以下のような理由で候補地から外れていくのです。
候補地から外れた理由

【浦安案・木更津案】
→ 羽田空港に近く、羽田から離発着する飛行機の妨げになることから断念。
【霞ヶ浦案】
→ 近くに百里航空基地があり、離発着する際に空港の飛行機とのバッティングを考慮して断念。
【富里・八街案】
→ 裕福な農家が多くスイカの名産でもあり、できれば避けたかった
はじめは、浦安、木更津、霞ヶ浦が早めに外れて富里・八街が第一候補に上がったのです。ところがどっこい、実際に空港は富里・八街には作られませんでした。
上記でも書いたように富里はスイカが作られており、そのスイカは日本でも有名なスイカの生産地でした。現在でもスイカの生産は1位:熊本県、2位:千葉県、3位:山形県であり、当時は今ほど輸送も確保されていなかったことから、関東地方では千葉の富里のスイカが重宝されていたのです。
そこで、富里ではなく三里塚が狙われたというわけなんですね。三里塚には国営の牧場や県の土地があることで、富里に比べて土地の買収が進みやすい。また、条件が悪い場所に住んでいる方も多いため、このような機会があれば移転を考えてくれるだろうと考えたとも思われます。
そんなことで、1966年に三里塚に空港を作ることが閣議決定されたのでした!
しかし、三里塚の方々には事前にそのような説明をされたわけではなかったんですね。そんな背景があり、いきなり空港が作られると知った住民たちは状況がよくつかめずにいました。しかし、ここで大きな問題があるんですが、三里塚の住民は決まった当初から大段営を組んで空港建設に反対したわけではなかったようなのです。三里塚に決まった際に反対の声をあげていたのは、空港建設区域周辺の住民たちだったのんですな。

学生達を巻き込む激しい抗争の歴史

空と大地の歴史館
▲成田闘争の様子が描かれたエリア
建設が決まった後、反対派の勢力が強まり学生運動が当時は盛んだったことから学生たちも加わり反対勢力の勢いがさらに強まっていく。学生運動の方達は、日米安保の反対運動を行った後に成田闘争に加わっていくのです。学生運動は、とにかく当時の政権にたいして反対、反戦運動を繰り返すというもので、深く議論をするということをしない状態でした。
空と大地の歴史館
実際、岸安保に反対した際もその内容を吟味して反対していたわけではなく、とにかく反対していたわけでしたし。学生運動(全学連)などが成田闘争に加わった建前としては、当時はベトナム戦争が起こっており、成田空港が軍事空港になるという理由からだったがおそらくこれは建前・・。
空と大地の歴史館
そもそも、空港敷地予定地に住んでいた方はほとんどの方(約90%)は賛成だったというのですね。空港建設に反対していたのは敷地外に暮らす方々と学生運動の人たちだったんですよ!
空港予定地の敷地外の方たちからすると、近くに空港ができるだけで騒音の問題が出るし、敷地外の自分たちには保証金のようなものが出なかったため、彼らにとってはマイナス要素しかないわけですね。
人が暮らしている場所に空港やら何かの巨大施設を作ろうとすると、必ずと言っていいほど不利益を被る方々が出てきてしまうんですね。。

過激派による管制塔占拠事件

空と大地の歴史館
▲空港が開港する直前には管制塔が占拠される
その後、抗争は続き東峰十字路事件や空港開港直前に反対派によって管制塔が占拠される事件も起こりました。このような抗争が起こり、警察側と反対派側ともに死者が出る他、反対派の人の中では自殺者まで出てしまったのです。
空と大地の歴史館
また、1978年3月26日には管制塔を過激派によって占拠される成田空港管制塔占拠事件が発生します。元々、成田空港は1978年3月30日に開港する予定だったんですが、実際に開港したのは5月20日になった訳です。開港を延期した理由はこの管制塔占拠事件があったからなんですね。。

1978年5月20日成田空港が開港!

空と大地の歴史館
色々な歴史があったものの、成田空港は今から40年近くも前になる1978年5月20日に開港することとなりました。しかし、開港初日は飛行機が飛んだわけではなく、開港式典と用地提供者への顕彰碑除幕式が開かれたのみでした。
次の日である開港2日目には、午前8:03に最初の飛行機がアメリカから到着しました。最初の飛行機は、人ではなく貨物を運んだのみで、しかも離陸ではなく着陸(笑)
ボランティアの方が言うには、おそらく最初ということでテロなどで何かあった時のために最初に人を運ぶのは控えたのではともおっしゃっていました!!
続いて、午後12:03には旅客一番気がフランクフルトから到着。ここでも、離陸ではなく着陸なのでした。
そして開港3日目、午前8:16にようやく最初の離陸が行われました。しかし、これも貨物・・。一番最初に人を載せて離陸した飛行機は、午前9:15にグアムに向けて離陸した飛行機だったのですな〜。

話し合いのためシンポジウムも開かれた

空と大地の歴史館
▲反対派の方々とのシンポジウムを経てB滑走路が完成
1978年に開港したものの、当時はまだA滑走路のみでB滑走路はできていませんでした。さらには、今現在の東成田駅が初期は成田空港駅として使用されていたり。国や空港公団は二期工事を早く完成させたいものの、反対派は2本目の滑走路はやめさせたいわけです。。
そんな状態であったものの、公開の場で話し合いが1991年11月に開かれたのです。シンポジウムは国、千葉県、空港公団と反対派同盟熱田派の間で行われました。話し合いの結果としては、なぜこのように対立状態が続いたのかということ。
その原因としては、国側が地元住民に対して十分な説明がないまま、いきなり三里塚に空港建設をすることを決めてしまったことが大きく、それを国側が認めた形となっています。
結局二期工事は行われ、2017年現在はA滑走路とB滑走路の2本の滑走路ができている状態となっています。しかし、現在も完全に反対派の方がいなくなったわけではなく今も活動は続けられているようなのですね。また、3本目の滑走路に関しても建設の話し合いが進められている。成田空港は、まだまだ未完成の空港なのである。。

現在の成田空港周辺事情

空と大地の歴史館
▲最近の成田空港の航空写真
現在の成田空港を上から航空写真で写したのがこちらだ!最初に出した航空写真とはさすがにだいぶ異なっています。左側の成田市側は駐車場、ホテル、ゴルフ場などもできた影響で成田市には多くのお金が落とされるようになったという。
しかし、東側の芝山町などにはそこまで恩恵が受けられていません。成田市街は写真の南側にあるのに対し、芝山町の中心街は写真の左側にあるようです。となると、芝山町は飛行機が着陸する音の影響が大きいのに対し、成田市街は写真の南側にあるため、市街は騒音は受けにくい。そんな違いも、各々の市や町で出ているのです。
空と大地の歴史館
成田市側には多くの恩恵が残っています。まず注目したいのは駐車場!ここに駐車場が出来たのはもちろん空港が出来た後。空港までは鉄道も通ってはいますが、車で来る方もいるわけです。車で来たお客さんにとっては、周辺に駐車場があるのはありがたく需要があることから多くの駐車場が作られていることがわかります。
誰が始めたかは不明ですが、駐車場は土地さえあればあとはお客さんが来るのを待つだけっすからね!!いい商売ですわ!!
空と大地の歴史館
また、道路に沿って宿泊用のホテルも多くできています。それだけではない、こちらに見えるのはゴルフ場だ!何でここにゴルフ場がたくさんあるのか?
ゴルフ場がある場所は、飛行機の離陸が行われる際に騒音が起こる場所。元々は写真の滑走路部分の先には住民が住んでいましたが、すでに移転してしまっているんですね。
ところが、国にとってはここの騒音がある場所を買ってくれる誰かがいればありがたい。そこで、数件のゴルフ場が買って出たのです。このあたりにゴルフ場ができた場合は、飛行機の騒音の中ゴルフをしなくてはいけなくなるわけです。
ところが、このあたりのゴルフ場は割と安いということで、ゴルフ場の経営が成り立っているのであれば飛行機の騒音があったとしてもお客さんは安くできる場所を選ぶということなのだろうか・・。
空と大地の歴史館
空港ができたことにより、周辺の街は大きく変わってきました。周辺には運送関係の仕事、ホテルができたことによるベッドメイキングの仕事などなど。そんなことから、今では昔は専業農家がほとんどだったものの、兼業農家の方が増えているという。成田空港には、約4万人もの方が従業員として働いているそうだが、その4割が成田市の方らしい。。成田、、すげぇ。
また、成田には成田国際高校という高校があるのですが、ここは成田空港への就職率が高い高校になっているためか、結構倍率が高い高校なのだとか。成田空港というと外国語を話す機会が非常に多いため、そのような語学的な教育が充実しているとか?実態は詳しくはわからんが・・・。
かつては、成田空港の恩恵が成田市に集中していることから、成田市、芝山町などを合併するという構想を打ち出したこともあったのだそうです。ところが、成田市議会の中から反対が起こり、その構想は夢に終わったこともあったとのこと。なんせ、成田市は地方交付金も受け取っていないそうで、その恩恵っぷりが分かる。

B滑走路の今

成田空港にはA滑走路とB滑走路が存在します。そんな2つの滑走路のうちB滑走路に関してをここで取り上げようというわけです。

現在はこんな感じ

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▲現在のB滑走路の現状
B滑走路を航空写真で見るとこんな感じになっています。その航空写真に色々と上から書きまくっているのでそこを説明します。B滑走路は、元々の想定ではオレンジのライン上に滑走路を造るはずであったのです。ところが、赤く塗られた買収できない箇所や東峰神社という神社がこのってしまった関係で、滑走路を北にずらさなきゃいけなくなったんですな〜。
そんな訳で、B滑走路はA滑走路に比べてきたに飛び出ているわけです。

職質スポットとして知られる東峰神社

空と大地の歴史館
上で紹介した東峰神社は職質スポットとしても知られ、警察官が日々警戒している場所なのです。以前に東峰神社に関しては記事にしていたが、ここでも一応簡単に紹介しておこうと思います。
私が訪れたときには、朝の10:00くらいだったのですがたくさんの警察官が東峰十字路の交差点にいました。最初は事件が起こったのかと思ってびっくりらこきましたわ!!
空と大地の歴史館
▲かなり厳かな東峰神社への参道
そんな警察官だらけの場所を素通りし、神社へと向かいました。まさにRPGでいうとこの先にラスボスが控えていそうな空間ではありますが、この先には東峰神社があるのです。両側のバリケードみたいな壁の先には、ここにも警察官やら警備員らしき方がトランシーバーをもってうろうろしております!
といっても、ここは別に進入禁止区域でもないため来ても何の問題がない場所なわけです!
空と大地の歴史館
▲空港の真ん中に建つ「東峰神社」
こちらが東峰神社。神社があるだけでこれで行き止まりです。非常に簡素な神社であり、まぁ基本的にほぼ人がいない状態。。そして、頻繁に着陸してくる飛行機の音がすさまじい!!正直飛行機ってこんなにすげぇ音なのかってくらい最初はびっくりしました。。
先ほどB滑走路について説明した時に話した未買収地には、未だに民家があり人が住んでいるわけです。この飛行機の音を聞きながら暮らすとはいかにもすごい生活だ。。

警察官に死者が出た東峰十字路事件

空と大地の歴史館
1971年9月16日の朝6時過ぎ。千葉県による第二次行政代執行が行われました。そこで、神奈川県警の堀田大隊261名に対し、反対派約800名が火炎瓶を投げ、投石もするなどしたんですね。警察車両は炎上し多くの機動隊員が負傷する大事件となりました。
空と大地の歴史館
そして、この事件によって警察官の中に死者が出てしまったのです。東峰十字路北方にいた福島小隊35名に、北方からまわりこんで十字路の機動隊を挟み撃ちにしようとした反対派50数名が藪から飛び出した。その中で3名の警察官の方が死亡したのです。現在も十字路の近くには3名の警察官の碑が建っています。
その東峰十字路事件の後である10月1日に一人の男が自殺しました。その男の名は三ノ宮文男。青年行動隊員の一人であり、生まれ育った村野神社で縊死(いし)したのです。「空港問題などなかったら、俺も今頃嫁さんなんかもらって、立派に百姓やっていけたと思っています」などの長文の遺書を残したのでした。

おわりに

空と大地の歴史館
空と大地の歴史館に入館したのは午前11時過ぎ。色々説明をしていただいた後時計を見ると、時刻は14:00を回っていました。実に3時間近くも成田空港の歴史について話していただきました。説明していた方はボランティアスタッフのようで、元々は成田空港の職員の方でした。
3時間も話していただき、最後には「本当に人生色々ですよ」とおっしゃりました。その一言に、何か本当に色々な想いが込められているように感じました。
東峰十字路事件の際に三人の警察官が殉職された現場も見ていて、管制塔を占拠された際に現場にいたこともあり成田空港における様々な歴史を目の当たりにしていたスタッフの方には、今回だけではまだまだ話しきれない様々な歴史や想いがあるはずです。
ボランティアスタッフの方、本当にありがとうございました。ご説明していただいた内容が多くの人に伝わるよう努力したいと思います。

参考文献

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詳細・地図

住所 千葉県山武郡芝山町岩山113-2
開館時間 10:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日 月曜日(祝日または振替休日の場合はその翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料 無料
駐車場 無料
電話番号 0479-78-2501
アクセス JR・京成 成田空港駅または成田第2ビル駅、芝山鉄道芝山千代田駅からバス
で「航空科学博物館」にて下車。
リンク http://www.rekishidensho.jp/rekishikan/rekishikan_top.html
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