福知山にある「福知山鉄道館ポッポランド」で引揚や鉄道に関して多くを学んだ!

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今回訪れたのは、京都府福知山市にある「福知山鉄道館ポッポランド」という博物館。博物館といっても、地元の憩いの場と化しているような博物館だった。
関西遠征の際に訪れたわけですが、元々行こうと計画していたわけではなく福知山市にきた際にたまたま寄った施設だったのだ!そこで得た貴重な色々なお話をここで書いて行きたいと思います。

たまたま見つけた福知山鉄道館

京都府の北側に位置する福知山市。訪れた日は、朝から舞鶴引揚記念館に行き、その後にうどん自動販売機があるドライブインダルマに行き、その後は福知山市の赤線地帯であった猪崎遊郭に行ったわけです。その後はさらに別のスポットに行く予定だったが、猪崎遊郭で思った以上に時間を費やし次の場所に行く時間がほぼなくなってしまった。
路肩に車を止めてどうしようかと思っていた際にたまたま発見したのがこの「福知山鉄道館ポッポランド」だったのである。とりあえず興味本位で行ったわけですが、ところがどっこいここの主の方から色々なお話を聞くことができ想像以上の収穫を得たというわけだ!!

この鉄道館には多くの子供達が遊んでいた。というのも、子供達の遊び場と化していたのだ。ここにはプラレールもあるし、お金もかからないし、天気が悪くても屋内だから問題ないし親御さんにとっても子供達をここで遊んでおかせていれば安心なのだ。
館長の方が子供たちと楽しそうに話す光景や、孫がおばあちゃんと訪れていておばあちゃんが昔の福知山のことを孫に教えているなんて光景も目にした。なんか、本当にほのぼのとした光景がこの博物館で見られた。。
この博物館ができたのは1998年のこと。休日は多少のお客さんがいるものの、平日は閑散状態で子供の遊び場になるそうだ。元々ここはリサイクルセンターだったのだが、町の賑わいのきっかけになるためにと市などの補助金を受けて鉄道館として生まれ変わった。開館当初は年間3万人近い方が来館していたものの、現在は1万人程度なのだとか。このポッポランドは鉄道の街である福知山のシンボルとして、町を盛り上げるためにどうしていくかが課題のようだ。

お父さんは引揚の方を運んだ蒸気機関車の運転手だった!

ここ福知山にはかつて北丹鉄道という有名な鉄道が走っていた他、今もある舞鶴方面からの鉄道などが走っている。ここ福知山は鉄道の街として有名になったが、それは舞鶴から引揚の方を運んでいたからなのだ。そして、なんとお父さんはその引揚の方を運んでいた蒸気機関車の運転手だったのである!!
これは本当にびっくりした。今日の午前中に引揚記念館で引揚についてを学んできたわけですが、まさか当時のことを知る方にこんなところで会うとは思わなかった!そんなことで当時の話や蒸気機関車の話など本当に色々なことを教えていただいたので、その内容を以下に記載しまっす!

引揚とは??

ここでまずは引揚についてここで書かなければいけない。第二次世界大戦の時、日本の軍人の方々は南は東南アジア方面、北は満州やソ連のエリアまで幅広く駐留していた。しかし、戦争は終わり日本は敗戦する。誰もが知る1945年8月15日に玉音放送が流れ、国民の皆が昭和天皇の玉音放送を耳にした。
戦争は終わったものの、ソ連は現地にいる日本人を祖国へ返すことはせずいい労働力だということで現地で鉄道敷設、森林伐採などの重労働を課していたのだ。そのような方々を乗せて祖国へ返すことを引揚というのである。

引揚者は全部で660万人近くいたという。その中でもソ連でおこったシベリア抑留では極寒という大変厳しい環境の中、ろくに食事が与えられない状況で多くの栄養失調者が出て亡くなる方も大変多かったのである。シベリア抑留を含む引揚に関しては、ナヴォイ劇場、氷海クロ物語、岸壁の母など多くの物語があるが、どれも日本人として知っておきたい。

シベリア抑留の方々は旧ソ連の大地で非常に厳しい生活を強いられていた。こちらはラーゲリというロシア語で収容所を意味する言葉。写真のものは引揚記念館で展示されているものですが、右側の黒帽子をかぶっているソ連兵がラーゲリで暮らしている日本人を監視している様子。
狭い区間で生活している日本人の5人は食料の黒パンを手作りの秤で重さを量り均等にしている様子だ。こんだけ厳しい生活のため喧嘩しないように均等にしているという。気温も日本よりはるか北部に位置するシベリアは、冬場にはマイナス40度という過酷な条件でもあったのだ。
シベリア抑留されていた方々は日本に返すとは言われていたものの、それは真っ赤な嘘!遠くはウクライナにまで強制連行された方もおり、いい労働力ということで鉄道整備、森林伐採などの労働を課せられていたのだ。

戦争が終わった後、昭和20年9月に最初の引揚港10港が選ばれ、帰国者の受け入れを開始。その中でも舞鶴港は一番長い期間(1945〜1956の間の11年間)、そして引揚者約60〜80万人を受け入れたのだ。
最初の引揚船である雲仙丸が舞鶴港に入港した。その後、引揚船が入港するたびにお茶やふかした芋などで引揚の方を労(ねぎら)ったという。今回話しているお父さんは、そんな過酷な状況から祖国に帰国した方々を舞鶴から運んでいたのである。

蒸気機関車の運転は大変だった!!

蒸気機関車の運転手だったお父さんからはその話もたくさん聞いた。蒸気機関車の運転手というのは当時は花形の職業だったそうだ。しかし、運転手になるにはまずは釜焚きを3〜4年ほど行うという下積みが必要だった。いわゆる石炭を釜に中に入れて炊くやつですわ!!映画か何かで一度は見たことあるんじゃないですかね!?
しかし、そんな釜焚きもただ石炭を投入すればいいというわけではない。釜焚きにも試験があり、釜に中にうまく均等に石炭を投入すること、そしてさらに重要なのが勾配などに合わせて適切な量の石炭を投入するということ。
蒸気機関車は今の電気の電車とは違い、勾配いわゆる坂道に苦戦を強いられていたのである。それは福知山だけではなく国土に山岳地帯が多い日本では全国でそうだった。さらには下りもあるため、その時々で必要な分だけ石炭を投入する必要があったんだそうだ。

少し話は脱線するが、首都圏の大動脈である東海道線も勾配という難敵によってルートが変更されている。もともと東海道線は現在の御殿場線のエリア(写真の黒線)、つまり箱根の北側を通っていたわけだがそのエリアは勾配が急で輸送に限界があったため、新ルート(写真のオレンジの線)の難所である丹那断層をぶち抜いて丹那トンネルを作り、今の熱海や函南を経由するルートとなっている。
先ほどの釜焚きの話に戻るが、釜に投入した際の量は1mm単位で厳しく見られていたという!!まじか、厳しすぎじゃないっすか!!ただ、戦時中などは資源が乏しい時代だったため余計な消費は抑えなくてはいけない時代。それだけ、厳しい時代だったんでしょうな。。
蒸気機関車の運転はかなり難しかったようで「今の電気電車は自転車のようなもんですよ!」と話していた。蒸気機関車は人間と同じで機嫌が悪い時はいうことを聞かないが、機嫌がいいときは思うように走るという。

戦時中の思い出

お父さんは1930年生まれということで、当然太平洋戦争の時代も経験していたわけだ。当時の様子も少し聞かせていただいた。当時の話を聞くに、ここ福知山は東京などの大空襲のような被害はなかったという。ただ、空襲警報などはよく鳴っていたそうだ。
空襲警報が発令されると蒸気機関車は駅を発車して、トンネルに隠れた。そう、もちろん空襲から逃れる必要があったためではあるのだが、それは舞鶴などのエリアは山が多い区間をわりかし通るためトンネルが多くあったからだ。しかし、そんな時でも機関車の頭だけはトンネルから出す必要もあったのだ。じゃないと、トンネルに炭がこもってしまうからだと言われて納得!!
また、乗客数ももの凄かったという。戦後にモータリゼーションがどんどん進んでいき誰もが自家用車を持つ時代になって行ったわけですが、戦時中は車などの移動手段はないわけで多くの人が鉄道に頼らざるを得ない時代だった。そのため、もう今の埼京線の比じゃないお客さんが乗車していた。機関車の上や手すりに掴まるなど今のアジア諸国の鉄道風景のような光景が日本にもあったという。
「戦時中や戦後において、とにかくみんな生きるのに必死だったんですよ」という言葉をお父さんが発していたが、その言葉が今も印象に残っている。

引揚の方の思い出

実際に引揚をされた方を運んでいたということで、その時に印象に残った話も聞いてみた。引揚された方は、機関車で運ぶ際には日本に上陸してから検査などを経て4日後に機関車に乗っていたためもう落ち着いていたよう。日本に帰還した時はさぞ気が動転していたんでしょうかね。また、細かくは語らなかったが当時の色々な苦労話は引揚された方々から多くを聞いたという。

戦後の教育事情

おとうさんの頃は小学校4年までしか学業は学んでおらず、以後は家の手伝いなどを行っていた。今では中学や高校に進むのが当然のような時代ではあるが、70年も昔となると全く時代は異なっていたようだ。そんなこともあって、外国語も知らない。そう英語だ。だれもが習うABCというアルファベットすら不明。。
機関車を扱うとなると「D51」などアルファベットが出てくるが、英語に関してのベースの知識が全くなかったため、鉄道関連でアルファベットが出てくるとその都度英語を勉強していたのだという。
それに、太平洋戦争時は英語は敵国語とされている。今や英語を習うために英会話やスピードラーニングを学ぶ方も多いようだがそんな状態ではないのだ。。

福知山に存在した猪崎遊郭に関して

福知山鉄道館に来る前は、最初にも記載した通り猪崎遊郭を訪れていた。当時を知るおばあさんから偶然にも当時の話を聞くことができとても貴重な機会だったわけですが、そのことを話すとお父さんも少しだけ当時のことを話してくれた。昔から福知山に住んでいるため、お父さんも猪崎遊郭のことはご存知だった。
昔は陸上自衛隊の方が多くお客さんとして訪れていたようだが、地元民も遊郭へと遊びに行くことが多かったようだ。しかし、遊郭に行くとなると病気をもらうという代償もあった。。知り合いが病気をもらってくるなんてことは日常茶飯事だったそうだ。。

福知山鉄道館の展示物

お父さんの話を聞きまくったわけですが、展示物に関しても幾つか解説していただいたのです!私は鉄道マニアというわけでもなかったため展示物が何かわからないものも多かったが、今の時代にはない貴重なものも展示されていたのです。

こちらは「錠解・信送レバー箱」というものだ!コレ何かわかりますでしょうか??
今はレバーが引き出されていますが、この丸い穴には通票というものを穴に埋め込むんだそうです。
今では複線化(上りと下り)が当たり前ですが、当時は多くの路線が単線であった時代。つまり、今の江ノ電のように上りも下りも同じ線路を使っていたというわけだ。そのため、上りと下りの列車が同時に線路に突っ込むと大変なことになるわけだ。今みたいな運行管理システムもない当時は、この通票というものを頼りにしていたのだ。
この穴に通票が入っていれば、ここから先からは相手の列車は向かってこなく、通票がなければ向こうから列車が向かっているということなんだそうです。

その通票がこれだ!なんか昔の硬化(和同開珎?)みたいな見た目であるが、これは金ではないようだ(笑)

この辺りは詳しくは覚えていないが、とにかく色々な切符が展示してあった。鉄道にそこまで詳しくないのでどういう切符がレアなのかはわからんがなんか貴重そうだ!!

こちらの出雲は、以前鉄道マニアに盗まれたもの。しかし、たまたまテレビでこれが写ったことからそこにあることが判明し返してもらったという。そんな訳で、他の展示物は盗まれないようにケースに入れるなど厳重にしているようです。

本物のSLが展示されているポッポランド2号館

福知山鉄道館ポッポランド1号館から歩いてすぐのところに、ポッポランド2号館もあるのです。ここは先ほどの建物とは異なりSL機関車が格納されている感じの建物になっている。しかもこの機関車は単なるレプリカではなく、多方面で活躍した本物の蒸気機関車C5856号なのである。

この蒸気機関車は1939年に川崎車輌株式会社で製作されたもの。戦時中は東南アジア方面へ送られるはずだったが、終戦後に改造されて国鉄下関機関区に配置される。その後、1962年に福知山機関区に配置されて1970年までの9年間もの間に、舞鶴線や小浜線で活躍することに。引退するまでは地球を20.5周するほどの距離を走ったことになるという。福知山線開通100周年となる1999年9月25日に、巨大な運搬車でここまで運ばれてきたのである。

おわりに

お父さんとは1時間くらい話しただろうか。年齢的には80代であるがまだまだ元気にこの館長を務めているようだ。蒸気機関車の話から戦時中や引揚者の話まで本当に貴重な話を聞けて良かった。
普段の生活だと80代の方と会話する機会はほとんどない。私は祖父が小学生とかの時に亡くなったため、あまり昔の話を聞くことができなかったが、これを今では非常に後悔している。私の祖父は樺太出身であり北海道大学を出たそうだがそのあたりの話、今の時代にはない当時の話などをたくさん聞きたかったのだ。
やはり先人から学ぶことは多い。知の冒険を始めて本を読んだり文献をあさったりする機会を経てはいるものの、やはり当時を知る方から直接話を聞くのが一番印象に残る。お父さんには今後も元気に生き続けていってほしいと思う今日この頃。。。

参考文献

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詳細・地図

住所 京都府福知山市下新32
開館時間 10:00~17:30
休館日 毎週木曜日、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料 無料
駐車場 なし
電話番号 0773-23-5430
アクセス JR福知山駅から徒歩約14分
リンク https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/ftp/

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