日本最大の遊廓街であった「吉原遊廓」の歴史を掘り下げたVol.3~吉原神社・樋口一葉記念館・角海老

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今回は吉原周辺で歴史を学ぶことができるスポットに焦点を当てたいと思います。何で「吉原神社」「樋口一葉記念館」「角海老」がセットになっているかは理由なしです(笑)
ん~記事の構成がクソで申し訳ないですがとりあえず読んでみてくださいな!

多くの女性が訪れる吉原神社の歴史

吉原の南西部に位置する吉原神社。数年前まではあまり人が訪れることがなかったようですが、最近は大変多くの方が訪れる神社になっている吉原神社。最近では浅草名所七福神の一つになっていることから、御朱印をもらいに来る方が多く来るようです。神社の方から色々話を聞いたのですが、かつて遊女がお参りしていたように、今現在も出勤前のソープ嬢が神社に必ずお参りする方もいるという。

現在は、ブラタモリの影響か立ち歩きをしている方も多く、街歩きツアーの方々を度々見かけました!!やっぱりこういうのは高齢者が多いですな。。若い人も街歩きに興味を持ったらいいのにね!!

吉原神社はいかにして出来たのか??

元々は、今の場所に吉原神社はありませんでした。元々は、吉原の入り口と四隅に神社があったようですがそれらが1箇所に集まって出来たのが今の吉原神社のようです。この中でも、九郎助(くろすけ)稲荷は、京町二丁目の隅にある稲荷で、すぐそばには切見世という吉原の中では最低ランクの長屋がある場所でした。そのような切見世で働いていた女性たちが九郎助稲荷で願掛けをしていたのでしょうか。。。

今では、神社の上に集まった5つの稲荷の名前が書かれた提灯がありました。

吉原神社の方に吉原の今を聞いた

今では、テレビの取材も多く最近も何かの番組が取材に来たという。私が予想するに、最近では千原ジュニアが司会のダラケで吉原の回があったからその取材か何かと!あとは、NHK関係の番組でも撮影があったそうです。ブラタモリでも確かここの特集をしていたような。。
上の写真は、浅草名所七福神巡りをした際にもらった御朱印。浅草名所七福神巡りは七福神ですが9箇所を巡ります(笑)七福神めぐりは東京都に多くあるものの、この名所七福神は他の正月限定とは違い年中巡ることができる貴重な七福神でもあります。吉原神社には、色紙の中心に書いていただきましたが、皆さん中心に描くのは嫌がるんですって(笑)
最近は本当に多くの方が訪れるようになり、神社の方も「時代って変わるのね」というようにおっしゃっていました。女性の方たちはソープ店のエリアを通るのは怖いということで、吉原大門の交差点の反対側からわざと回ってくる方もいるようです。

遊女を祀る吉原弁財天

吉原神社から少し吉原の反対側に行った場所にあるのが吉原弁財天。ここは先ほどの吉原神社の奥の院的な存在となっているようです。

世田谷から鯉を持ってきた!

吉原弁財天には隅にコイが泳ぐ池があります。この池は、かつては今現在よりは大きく関東大震災の際には、火事の際に逃げ迷った遊女たちがこの池に飛び込み亡くなったという話があるのは有名。当時の週刊ポストか何かの週刊誌には、その惨劇の様子が収められた巻があったという。
そんなこの池には、いつからか鯉が放たれたようなのですがこれらの鯉は世田谷から持ってこられた鯉なんですって!無料案内所のおっちゃんを取材したときに教えてもらいました(笑)

多くの人がお参りに来る「吉原観音」

吉原弁財天のすぐ隣には、吉原観音という観音様もおられます。この観音様は関東大震災で逃げ場を求めてここの池で溺死した遊女達の霊を慰めるために建てられた観音像です。ここにも、吉原神社同様に多くの方が訪れる場所。

こちらは弁財天さまの祠(ほこら)。この祠は最近になって約50年ぶりに地元の方の有志によって新装したものなのだそうです。この祠自体を地元の方たちで作り、外側の外装は東京芸術大学、武蔵野美術大学、多摩美術大学らの学生たちが協力して壁画を描いていったのだそうです。
吉原は、お客さんも若い人が少ないようで、確かに私もこの街をもう何度も歩いてはいますが見かけるのは中年より上の方がほとんど。そんな街で若い人が街づくりに関わるのはとってもいいことだと私金澤はシミジミ思いましたわい!!

吉原のそばにある樋口一葉記念館!

ここ吉原には本当に色々な歴史や物語があるわけですが、それは現在の五千円札にも描かれている樋口一葉の歴史にも関係しているのです。ということで、本項目ではそんな樋口一葉と吉原の歴史について紹介していきたいと思います。
樋口一葉はこの下谷町に9ヶ月だけ暮らしていました。というのも、もともと樋口一葉は学力に関して関心があり、半井桃水(なからいとうすい)の元で小説家のイロハを学んだそうですが、彼女が暮らしていた当時は、女性には勉学というものは必要ないというかなりの男尊女卑の時代。

樋口一葉は、父親とお兄さんの借金を背負ってしまったがために、稼げない文筆の道を諦めて、荒物屋を営業しました。荒物やとはいわゆる雑貨屋さんのこと。ここで、吉原遊廓へ卸す為のお店を始めたわけです。

一葉が暮らしていたお茶屋通り

一葉が暮らしていたのはお茶屋通りと言われる通りに面した場所でした。この通りは、吉原へ行く人が人力車に乗って通る唯一の道でした。その他は、山谷堀を船に乗ってやってくるか、北側から馬に乗ってくるなどの方法のみ!今では住宅地などになっていますが、一葉が暮らしていた当時は、周囲は田んぼだらけ。そんなこともあり、雨が降った時などは道がビッチャビチャだったりもしたそうです。

そして、お茶屋通りの地図はこんな感じです。しかし、一葉のお店の斜め向かいにも駄菓子屋が出来ているということもあり、商売はうまくいかなかったそうです。そんなこともあり、わずか9ヶ月間しかここ龍泉寺町に住んでいなかったようです。

「たけくらべ」は吉原の影響で生まれた

そんな樋口一葉は、吉原に住んで大きなカルチャーショックを受けます。吉原の周囲は当時は田んぼだらけだったため、夜になると周囲は真っ暗。しかし、そんな中、吉原遊廓のエリアだけが灯がともる不夜城と化していました。今の風俗街とは異なり、限られたお金持ちしか遊ぶことができない吉原遊廓という場所が近くにあることから、その様子を題材にしてどうしても筆を動かしたいという思いが一葉に廻るようになり、周囲のお店やお寺などを訪れたことを踏まえてたけくらべは書かれています。
たけくらべ以外にも、「」「」などの作品を出していますが、これらも吉原が題材になっています。わずか9ヶ月しか暮らしていなかった街ではありますが、たけくらべなどの作品はこの街から生まれたということもあって、吉原のすぐそばに昭和36年に樋口一葉記念館は作られました。

一葉ゆかりの一葉煎餅(せんべい)

上記で紹介した樋口一葉記念館のすぐそばには、樋口煎餅(せんべい)というお店があります。一葉と何か関係があると思い、取材を敢行してみました。

実際に取材してみた!

何か話が聞けないかと、さっそく訪問してみたものの、、
誰もいない。。。
私:「すみませーーーーーん」
お店:「・・・・」
私:「すみませーーーーーん」
お店:「はーい、いらっしゃい!」
中から親父さんが登場しました。まずは、樋口煎餅を購入することに。そして、色々と話しすと30分以上色々なことを話してくれました。

この樋口煎餅(せんべい)は、山梨県でも販売しているそうで、向こうで販売しているのは瓦煎餅であるこちらの煎餅。
店内を写真撮影していいかと聞くと、「いいよ!」とのことでした。煎餅はこんな感じで陳列していました。昔は、焼き煎餅もやっていたようなのですが、今は体力も続かないとのことで焼き煎餅の販売はやめているそうです。
お店の前にある椅子に座り、しばらくおっちゃんと話すことに。この店の前にあるマンションは、「2年前は銭湯だったんだよ」「あの姉ちゃんはソープの子だよ。多分、あの角曲がって薬局でコンドーム買ってお店に行くよ!」
2人で店の前の行く人の人間観察を続け、確かにお姉ちゃんは角を曲がって行きました。ソープランドでは、あくまでお風呂屋さんという建前なので、コンドーム等は女性が揃えるということがソープランドの基本となっているようです。この辺りでのコンドーム消費量はハンパないでしょうね。。
その後、ここを通る車はほとんどが働く女性を運ぶタクシーか、お客さんを運ぶお店のバン。その他には、老人ホームの送迎の車だったかしら(^ ^;)
おっちゃんと話している間には、近くのおばちゃんがスイカを持ってきたりと、下町っぽい様子を観察することもできました。「こういうご近所付き合いもあるんだけど、下町っぽいでしょ!」

日本最大数のソープ店「角えび」に迫る

そんな吉原遊廓の中にも老舗があるわけでして。今現在に最大のソープ店舗数を誇るのが「角えび」です。横浜、川崎、千葉などなど日本全国に32店舗を出しているグループで、ソープ街に行くと大抵「角えび」か「三浦屋」の看板を見かけるのですが、それらは同じ系列。

上の写真は千葉県のソープ街の栄町の写真。角海老のネオンライトがど派手っすな~!
ちなみに、三浦屋は外国人様に少し浴槽が大きいんですって。。

そんな角えびの本店は吉原にあるこちらのお店。私が吉原をほっつき歩いていて何度も店の前を通るのですが、度々タクシーが店の前に止まってお客さんが店に吸い込まれて行く様子を見ました。値段的には大衆レベルのお店であり、老舗ということなのか結構繁盛しているようです!

どんだけ募集してんのよ!

角海老とは、昔から存在していた角海老楼が今に受け継がれている、老舗中の老舗。元々から角海老楼がこの場所にあったわけではないのですが、区画の角に位置していたことから「角」という文字が使われているようです。
江戸時代までさかのぼると誰がオーナーだったかは不明ですが、戦前の角海老のオーナーは遠藤千元という方だったそうです。元々貴族院の議員さんでありました。今では、風俗店の経営をしている議員さんはいても正宗だとは思いますが、昔は名のある方が遊廓経営を行うということは結構あったそうです。

吉原神社には、遠藤千元の妻である遠藤はつの名が刻まれています。なぜ奥様の名前がここに刻まれているかは不明ですけどね。。
その後、オノデンの手に渡ったこともある角海老の経営権は鈴木正雄という男が買い取り、今の角海老グループを作り上げています。角海老宝石、そして鈴木自身がボクシングが好きということで出来た角海老ボクシング。鈴木正雄という方は、石原慎太郎と同い年であり今もご健在なんですかね??

遠藤千元のお墓を訪れた

遠藤千元とは、貴族院の議員であり戦前の角海老楼のオーナーだった方。今ではソープ店の経営は鈴木正雄という方が主で、ソープ店以外に彼がボクシングが好きということで誕生した角海老ボクシングや角海老宝石などがあります。
そんな遠藤千元のお墓は結構豪華なお墓ということもあって、記事を書くにあたり訪れてみたく足を運ぶことに!

その場所は浅草駅の近くにある本然寺(ほんねんじ)というお寺にあります。入り口はこちらです。観光地的な要素はなく、ひっそりと存在しているという感じのお寺。遠藤氏のお墓は、どこにあるかわからないのでお寺の中を探す必要があります。。

ところがどっこい!探すこと2分くらいでソッコー見つけることができました(^ ^)
これが角海老のオーナーであった遠藤さんのお墓!周囲のお墓とは別格の規模であり、そのすごさを実感しました。何のゆかりもない私ではありますが、人生の先陣として両手を合わせしばしお祈りいたしました。

お墓の両側に掘られた海老の存在感が半端ない!!この遠藤という方、そして角海老楼に関しての歴史に関してそこまで深くは調査が出来なかったものの、角海老だけではなく吉原にあった遊廓の歴史も一つ一つ探っていくと、色々な歴史が見えてきそうな気がしています。
それには、多量な時間が必要そうなのでまたの機会に回しましょうかね!

おわりに

今回紹介した3箇所以外にも、吉原の歴史を学べる場所は他にも存在します。400年もの歴史があるため、ブログだけでは語りつくせないですからね~。私はこの記事を書いている段階では樋口一葉の「たけくらべ」はまだ未読なので、時間があるときに読んでみようと思います。
まだまだ、吉原の歴史を掘り下げるシリーズは続きますよ~!
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参考文献

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詳細・地図

住所 東京都台東区千束4丁目
アクセス 入谷駅、三ノ輪駅から徒歩10分、浅草駅から徒歩25分
リンク https://ja.wikipedia.org/wiki/吉原遊廓
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