青い目のサムライ「三浦按針」に会いに行くべく、横須賀の安針塚を訪ねた!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今回は日本の発展に一役をかったイギリス人の方のお話です。その男の名は、ウイリアム・アダムスという方。多分日本史を勉強すると必ず出てくる方だと思います。彼は日本名である「三浦按針(あんじん)」という名をいただき、彼の塚(お墓)が横須賀の方面にあることから、その塚の名が安針塚駅として駅名になったりもしているのです。
そんな安針塚に関して今回は紹介していきたいと思います。
本記事のポイント

・京浜急行の安針塚駅は三浦按針の墓があることに由来する
・三浦按針は家康に気に入られ、日本で行動をともにしていた
・逸見に按針の屋敷があり、彼の遺書からここに塚ができた

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安針塚はどこにあるのか?

安針塚は、神奈川県の横須賀市にあります。横須賀は軍港の街であり、横須賀海軍カレーや日露戦争の際に、当時最強と言われたロシアのバルチック艦隊を破った「戦艦三笠」があることでも有名ですね!
安針塚はそんな横須賀から少しだけ東京寄りの場所にあります。安針塚というと、京浜急行の駅になっており金沢文庫・金沢八景と横須賀中央の間にある感じです。各駅しか止まんないど。。安針塚駅は栄えている横須賀中央とは異なりめっちゃ住宅街なので、その他には目立った観光地は特にない感じですかね~。でも、安針塚がある塚山公園は桜の名所であったり、近くにある田浦には田浦梅林という見所はあるのです!!
周辺を拡大するとこんな感じです。安針塚は海から内陸部の高台にあり、最寄り駅の安針塚駅からは歩いて坂道を登っていく必要があります。
※「今昔マップ on the web」を元に作成
ここは、昔は十三峠と言われている場所でした。「十三」の意味は江戸からくる際に十三番目の峠だからという説があります!昔は、浦賀街道(浦賀道)という街道が通っており、この道を伝って横須賀の方まで行っていたようです。

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深夜に一人、安針塚へ向かって歩いた!

今回はちょっと訳あって深夜に向かい、明け方に三浦按針公に会いに行きたいと思います!
横須賀の街で色々取材し、まん喫で少し休憩した後、深夜2時頃から安針塚へと歩き出しました。深夜2時のドブ板通りはさすがに外国人バーもお店をたたみだして閑静な通りと化していました。
国道16号線を北側へ歩き、ようやく安針塚駅付近まで到着しました。夜中にもかかわらず気温もさほど低くなく、歩いてアイスでもかっ食らおうかと思ったのですが、この辺には残念ながらコンビニがないorz
アイスは明け方になるまで我慢することにして、さらに安針塚へと歩を進めることに!
夜の誰もいない道を一人歩きます。そもそも、何でこんな時間に歩いて向かっているかというと、単純に私は夜歩きが趣味の一つでもありまして(*´Д`)
夜の道を歩きながら、人生を振り返ったりキョロキョロしながらネタを探したり、知の冒険のネタについて考えたり、、、そんなことをしながら2年以上もの間、知の冒険を続けていたりするのです。
そんなことをしていると、京浜急行線の安針塚駅に到着しました。時刻は午前3時頃ということもあり、当然駅は閉まっています。この駅は1934年に出来た駅で、元々は軍需部前駅という名前で開業していました。ここから坂を上っていくと、安針塚がある塚山公園に到着するのです。
坂を上っていくと横須賀の湾港の夜景が姿を現しました。時刻は朝4時近く。これから会う按針公もこの横須賀の景色をみていたんでしょうかね。。。
ようやく塚山公園に到着です。現在は6月下旬という日が長い時期ということもあり、朝の4時を過ぎると明るくなってきました。そしてちょっと眠い。。さすがに(笑)
ちなみにですが、夜歩くのは好きなものの、朝になってくるとめちゃくちゃ眠くなってきて、何で自分はこんなことを続けているのかとよくわかんなくなったりします( ;∀;)
そう、ようはアホってことです!人間は時に理屈では考えられない行動をするものです。。
公園につくと雨が降ってきたため、屋根がある場所に避難!もう少し日が明けるまで、記事を書こうかとPCを開くものの、蚊が寄ってきて記事を書くのに集中ができない(怒)
そんな悪戦苦闘をしていると、すっかり夜は明けました!

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塚山公園の夜景

▲三浦按針が愛した横須賀の湾港
ここ塚山公園は、三浦半島の内陸部である高台にあるため景色は抜群なんですわ!こちらは朝4時過ぎの横須賀の軍港周辺の夜景。塚山公園には見晴らし台などの開けた場所が数か所あり、そこから東京湾の景色を望むことができます。
実は按針公が眠っている安針塚はこちらの方角を向いているのですが、それには意味があるのです。この先には、東京湾を越えると江戸があるのです。以下でも紹介しますが、按針公は亡くなった後も、日本で行動を共にした家康がいた江戸城を見守っていたのですね。

三浦按針はなぜここに眠っているのか?

ウイリアム・アダムスは、1560年にイギリスのケント州キリンガム村で生まれました。
アダムスが35歳の時、オランダ人が経営する貿易曾社の商船リーフデ号の航海長、その後水先案内長としてオランダのロッテルダムにあるテキセル港を出港しました。しかし、それからの航海は苦労の連続でした。食料の欠乏、暴風、悪疫、蛮人の襲撃などにより航海中に多くの仲間を失ってしまいました。最終的には豊後の臼杵(大分県)にたどり着いたわけですが、23ヶ月と、約2年の年月をかけてようやく日本にたどり着いたのです。
日本に着いて、アダムスは徳川家康にその人柄や技能を認められ、外国との通商との相談相手として砲術や造船学などの教授をしました。アダムスは家康の下で外交に関して様々な活躍をして日本の外交に関して大きく貢献していたわけです。
1620年5月16日に長崎の平戸で息を引き取りました。亡くなったのは長崎だったものの、アダムスの遺言によって、横須賀の逸見村で江戸城を望み見ることができる現在の塚山公園の場所に塚が作られたのです。

按針公にご挨拶に!

夜中から横須賀を歩き、時刻は4時15分。按針公に挨拶をしに行こうと思います!今日は天気も悪く、そして夜中から歩き続け眠気も襲ってきていてコンディションは良いとは言えませんが、、、
按針公の塚は塚山公園の高台に位置しています。公園内にある階段を登っていくのですが、その麓にはいくつか碑が建立されています。
今回按針公の記事を書くにあたり、江戸時代に関しての歴史を再び学びましたが、正直江戸時代頃の歴史はあまり詳しくないので、今回を機に1600年頃の歴史を改めて勉強し直そうかな。。
按針公の塚はこの階段の上にあります。しかし、塚自体の写真は載せないことにしました。実際に訪れ、多くの方にリアルに目の当たりにしてほしいという願いを込めて。まぁネットで検索すればいくらでも出てくるでしょうけどね。。

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三浦按針ゆかりのお寺を紹介!

三浦按針の塚がある場所は、三浦半島の内陸部に位置しているわけですが、そこから海方面の場所には按針ゆかりのお寺が二つほどあるんですよ!ということで、ゆかりのお寺である浄土寺と鹿島神社に関してを以下に記載したいと思います!

鹿島神社!

まずは鹿島神社です!この神社は京急の逸見駅から5分くらい歩いた場所にある閑静なお寺。この神社があった場所には、按針の屋敷があったと言われております。しかし、あくまで可能性の話で本当にここにあったかどうかは不明。その他にも、この辺りにはぶどう畑があったなんて噂もあるそうで。。果たして真実はいかに。。
神社の境内の中には、慰霊碑と書かれたどでかい碑があります。この碑は元総理である小泉純一郎の父親である小泉純也氏が建てた碑なんだそうです。裏に名前が刻まれていました。しかし、建立の理由は不明なのである。
按針の屋敷があったということに関して神社の方に聞こうと話を伺うことに。ここの方かと思われる方に話を伺うと、めっちゃくちゃ色々丁寧に教えていただき、1時間30分くらい立ち話をすることに!最初に按針のことに関して話は聞いたものの、噂レベルであって真実はまだわかっていないとのことでした。
今回話を伺えたのは、鹿島神社の総代の方。総代とは、氏子総代ともいい神社に宮司がいない代わりに管理するような方々のこと。横須賀にも、他の都市同様たくさんの神社があるわけですが、すべての神社に宮司がいるわけではなく、小さい神社は総代の方々が交代で常駐している形なんだそうです。結構老後になって時間を持て余す方々が、神社の総代という形でお手伝いをするケースは多くあるそうなんですって。鹿島神社には5人の総代の方がいて交代で神社を管理しているとのこと。
今回ここで出会った総代の方は、77歳の方。会社員時代は真空管を作っていた技術者の方だったそうです。作られた真空管は冷蔵庫など多くの家電機器などで使われていたそうなのですが、故障などがしょっちゅう起るそうで、メーカーなどに問い詰められ頭を下げては修理をするなんて苦労も多くあったそうです。しかし、どのようなことが起こったとしても「必ず答えがある!」ということ。諦めてはダメなのですね。
▲急斜面に建つ住宅は、空き家問題を生んでいる
総代の方とは、按針のこと以外にここ横須賀の色々な問題に関しても話をしてくれました。現在横須賀では、人口減少や空き家が大きな問題になっているようです。横須賀の北側である逸見や安針塚のあたりは谷戸といわれる谷の地形になっている場所が多く、斜面に沿って家を多く建ててきた経緯があるようです。
しかし、最近は駅前の平らな場所などにタワーマンションなどが建つようになり、今では親が住んでいた実家には住まずこのようなマンションなどに住む家族が多いそうです。谷戸の付近に住むと、車で急で狭い道を登っていかなくてはいけないだけでなく、駅からも距離があり住むのにあまり都合がいいわけではないようなのです。
最近横須賀付近には4棟ほどのタワーマンションが建てられています。そこには、お金持ちが多く位の高い米軍の方も住んでいるようです。人口に関しては、横須賀市は40万人くらいの人口がいるものの、毎年約1,300人近い方が横須賀市を離れているという。軍港の街で比較的栄えていると思っていましたが横須賀もなかなか苦戦しているのですね。
総代の方は山登りも趣味のようで、私も知の冒険で訪れた際の山の話などをしたりと本当に色々な話をさせていただきました。

浄土寺!

続いて訪れたのは、鹿島神社から1分歩けば着く浄土寺というお寺。こちらは按針の菩提寺ということもあり按針ゆかりの寺宝が管理されています。いろいろお話を伺おうとしたのですが、法要の途中だったようで、取材断念。。
しかし、寺宝を一般公開する時期もあるようで浄土寺の取材はまたの機会にすることに。

日本橋付近に按針の史跡がある!

逸見の方に按針の屋敷があったことについては上で述べてきましたが、按針の屋敷は逸見だけではなく東京の日本橋の近くにもあったようです。その場所は日本橋から歩いて2分ほどの場所。
昭和初期までは、東京の日本橋室町一丁目付近が按針町と言われていましたが、ここには彼が家康からもらった屋敷があったのでそう呼ばれていたそうです。今は「按針通り」という名称がついているとか!しかし、ここは日本橋からすぐの場所ではあるものの、人通りはあまりない通りです。日本橋付近には人はたくさんいるのに、ちょっと歩くだけでこんなに人が減るとは。もうちょっと按針の史跡も多くの方の目に触れる場所にあってほしかったな~!
▲ビルの合間にひっそりと建つ「三浦按針屋敷跡」
そんで、こちらが三浦按針屋敷跡の史跡です。何か完全に現代のコンクリートジャングルに埋もれてしまい、こんな隙間に建っているという状態でした。何気なく歩いていると気づかないですなこりゃ。。かろうじて史跡は残っているものの、この碑が建っているだけでそれらしき痕跡はこれ以外には見られませんでした。

按針と共に来日した「ヤン・ヨーステン」

そんな按針と共に有名なのが「ヤン・ヨーステン(日本名:耶楊子)」という人物。彼も、アダムスと同様にリーフデ号に乗って日本にやってきた オランダ人です。彼は家康の通訳として重宝され、今の日比谷のあたりに屋敷を構えることになります。
その影響でこの周辺の地名は八代州(やよす)河岸と言われていました。そして「八代州」が後に「八重洲」と書かれ1872年頃に今の地名となるのです。今の東京駅では駅の東側が八重洲口となっており、その地下街は八重洲地下街となって多くのお店で栄えております!
そんな地下街には、ヨーステンの銅像も建っているのです。色々な場所で歴史の偉人たちの名称の痕跡が残っているわけですね!

おわりに

ここの按針公のお墓には毎年どのくらいの方が訪れるのでしょうかね。明け方の誰もいない按針公様の塚に向かい、今後の日本の発展と自分の将来を祈りました。この場所は私は今まで知ってはいたものの、来たのは今回が初めて。
今まで知の冒険を始めて本当に色々な場所に行ってきましたが、やはりこのような有名ではないものの本当に色々な方に知ってほしいという場所が日本にはたくさんあって、そういう所を何とかして伝えたいということから始めた知の冒険。
今の日本があるのは、多くの先人の知恵や努力によるものというのを我々は忘れてはいけないと思う。少しでも多くの方に按針公のような方々をもっと多くの方に認知していただけるように、今後も知の冒険を続けていかなくては。そんなことを思いながらの安針塚訪問になりました。

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横須賀市西逸見町3丁目
営業時間 終日解放
アクセス 安針塚駅から徒歩20分くらい
リンク https://www.cocoyoko.net/spot/anzinduka.html
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