日露戦争を戦い抜いた戦艦三笠!その軌跡に迫る!

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戦艦三笠!
世界三大記念艦にも含まれるこの戦艦は、まさに日本の歴史においては欠かすことが出来ない、戦艦なのです。
今の日本があるのは、この戦艦の貢献も大きいと思います。
その戦艦三笠、いったいどんなドラマが隠されているのか?
今回は、他の記事に比べてかなり長いスーパーロングバージョンでお届けします!!
長い時間をかけて、この戦艦が戦い抜いてきた日露戦争を含め、詳しく学べるように記事を書きましたので、どうぞ最後までお付き合いいただければと思います!
では、出発!!

三笠があるのは、神奈川県の横須賀市にある三笠公園内。
京浜急行線の横須賀中央駅から歩いて20分ほどの場所にあります。
公園に行く途中では、アメリカ人の方にも何人かとすれ違いました。
海軍の方だろうか?

三笠公園の真ん中に、堂々と立つ一人の男の銅像!
この方こそが、戦艦三笠の館長であった「東郷平八郎」。
戦艦三笠を指揮し、日露戦争で、当時最強と言われたロシアのバルチック艦隊を破った日本の偉人なのです。

コースとしては、30分コースと60分コースがあるようです。
自分は、もちろん60分コースを巡ります!
三笠についてとことん学んでやろうと思いますよ!!

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では、いざ船内へ!

船内です。
本日は、土曜日ということもありたくさんのお客さんがいました。
横須賀の駅前は、昔に比べたら人が少なくなった印象があったのですが、三笠は有名な場所であるからかそんな印象は感じませんでした。
ところで、この戦艦三笠。
冒頭でも申しましたが、この戦艦なしでは日本の歴史は語れないと思っております。
それは、日本史で誰もが勉強した日露戦争で、この戦艦が活躍したからです。
ということで、日露戦争について振り返ってみたいと思います。
ちなみに、私は日露戦争についてそこまで詳しくありませんでしたので、この記事を書き、すごく勉強になりました!!

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引用元:http://oyakochoco.jp/blog-entry-1334.html
そもそも、日露戦争はなぜ開戦したのか?
1900年頃、欧米列強の時代が続くご時世の中、アジアはそこまでの強国にはなっておらず、東南アジアを欧州が植民地にする時代になっていました。
東のインドから南側のニューギニアに至るまで色々なアジアの国が植民地となっています。
植民地化していない国は、タイと日本だけになりました。
ここで日本は、「中国の一部も植民地化され始め、このままだといずれ日本にも手が及んでくる」と思い始めました。

 ロシアは、清国に大軍を送り込み、そのまま満州に居座ります。
そして、日本が返還した遼東半島を清国から借り受け、強固な軍事基地を気付きました。
それだけではなく、シベリア鉄道を通じてロシアから満州に続々と軍隊を送り込み、朝鮮半島にも基地を作って勢力の拡大を図りました。
もし、このまま朝鮮半島までもがロシアに支配されてしまえば、日本の安全は脅かされる。
そこで、日本政府はロシア側に、満州国の支配を認める代わりに、朝鮮半島には進出しないように粘り強く交渉しました。
しかし、ロシア政府は日本国を「小国」と侮り、誠意ある回答を行いませんでした。
そこで、日本政府はロシアと国交を断絶し、ついに1902年2月、ロシアとの戦争を決意しました。

日本海軍は、在極東ロシア海軍を撃破し、さらに来授するであろうロシアのバルチック艦隊を撃破するだけの艦隊を設備する必要がありました。
これにより、戦艦六隻、装甲巡洋艦六隻からなる「六六艦隊」を設備することになりました。
この六六艦隊の、戦艦六隻の中に三笠も含まれているのです。
そして、この「六六艦隊」の構想をしたのは、日本海軍育ての親とも言われている「山本権兵衛」でした。

戦艦三笠は、イギリスのヴィッカーズ社造船所において、1899年1月に、先ほどの六六艦隊の中の六隻の戦艦の最終番艦として起工されました。
3年かけて完成し、規模としては当時世界最大級、最新鋭の一等戦艦だったのです。
そして、建造費は1,200万円。
現在の額に直すと、なんと5兆円(笑)
当時の国家予算の5%もかけて作ったそうです!!
やりすぎじゃねぇ??
その後、日本海海戦に至るまで、いくらかの海戦が行われましたが、その中で「旅順閉口作戦」という作戦が行われていました。
ロシアのウラジオストクに迫っているバルチック艦隊と、目の前にいる旅順艦隊の二つが合同すると日本側が不利になると日本は考えていました。
そこで、旅順港を機能しないような作戦が立てられたのです。

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旅順閉口作戦は、旅順港の可航幅が91mと狭いため、船を沈めて湾口を塞ぎ、バルチック艦隊が来るまでに、旅順艦隊を無力化するという重要な作戦でした。
この作戦は、ロシア艦隊及び旅順要塞の砲撃の危険にさらされる危険な作戦でした。
70数名の要因に対し2,000名以上の志願者が応じ士気は極めて高いものでした。
しかし、閉口作戦は3回実施されたものの完全な封鎖は達成することができませんでした。
その後、バルチック艦隊がベトナムからいよいよ日本海に迫ってくるのですが、その後の様子はまた後ほど!
一旦、三笠の紹介に戻ります!

無線の通信室です。
日本海軍は、マルコニーが発明した無線電話に着目し、実用化のため無線電信調査委員会を設けて研究開発に努め、1903年に三六式無線電信機を完成させました。
その三六式無線電信機を完成させたのが、第二高等学校(現・東北大学)の教授である木村駿吉でした。
木村は、海軍技師になり、無線電信調査委員会の委員として日夜研究に励み、1901年に三四式無線電信機を開発、さらに性能を深め、三六式無線電信機を完成させました。

その無線通信は、モールス信号によって行われました。
 モールス信号は「ト」「ツー」という2つの符号しか使わない信号です。
和文・英文・数字それぞれあるようですが、これは覚えるの大変そうですね!!
まあ、とりあえずSOSだけ覚えておけば、たすけは呼べそうですね(笑)

実際に信号を鳴らせるものがありました!
一人で5分ぐらい遊びましたが、虚しくなったので終了(笑)

今更ですが、訪れたのは2015年9月12日でした。
正面の絵の先頭に立っている方が東郷平八郎氏です。

砲台室。

スカパーではありません(笑)
スカッパーです!
残飯を捨てる場所のようです。
船上というと、食料は極力捨てずにうまくやりくりするイメージがあるんですが、結構食べ残しとかあったんですかね??

こちらは「時鐘」という鐘。
4時間を一周期として、30分ごとに鐘を鳴らすそうです。
あくまでも、鐘は鳴らしてはいけないようです(笑)

ここは「トイレット跡」なんだそうです。
ん~確かにトイレがあったような跡に見える気がする(笑)

こちらは、戦艦三笠に関してのビデオ放映。
約18分間のビデオで、三笠の歴史・日露戦争について詳しく学べます。
18分というと、結構長いと感じるかもしれませんが、さほど長くは感じませんでした。
むしろ、本当に勉強になり、他のお客さんも結構熱心に鑑賞していました。
鑑賞中にどんどんお客さんが入ってきて、ビデオの後半では室内は満杯になりました。
写真はまだ序盤の様子です!

こちらはハンモックがある砲室。
ハンモックは漢字で書くと「釣床」と書くようです。
釣床は、ロープ、帆布で作られ、稲わらの入ったマットを敷き、3枚の毛布が支給されました。
釣床を使用したのは、海軍中将以下の人達約830名です。

訪れた日は非常に天候が良かったです。
戦艦の東側には、東京湾唯一の無人島である「猿島」が見えました。
猿島は以前に訪れ記事を書いたので、この記事を読んだ後にでも読んでみてください!!

戦艦の先端に来ました。
この船は、北の方角を向いていますが、これには意味があるのです。
この数十km先には、「皇居」があります。
そう、皇居に向けているため北の方角にしているんだそうです。

戦艦の上部でなにやらはためいている旗があります。
あれは一体何の旗なのか??
こちらは「Z旗」と呼ばれる旗なんだそうです。
日本海海戦の時、三笠はこのZ旗をマストに掲げて、
「皇国の興廃この一戦にあり各員一層、奮励努力せよ」
との東郷司令館長の号令を全軍に伝えて奮戦し、ついにこの海戦で大勝利を収めたのです。
その後、この故事に因んで、難事を打開する場合に「Z旗を揚げる」という慣用語が出来、Z旗が「大成功を期する旗印」として使われるようになりました。

こちらは、海図室。
航海に必要な海図、水路図誌、信号旗、六分儀、晴雨計など各種図書や計器が置かれていました
海図には艦の針路や位置を記入し、航海日誌には行動中の出来事などを記録しました。

操舵室。
この室内にある「羅針盤」と「操舵輪」は日露戦争当時に装備されていた実物なんだそうです。
黄海海戦の時、足に重傷を負った艦長の伊地知大佐は、しばらくの間この部屋で艦務を執ったそうです。

船で登れる、一番高い場所に来ました。
少し狭い上に、人がたくさんいたためそそくさと退散しました。

ここでちょっとした雑学!
戦艦三笠は、灰色をした船です!
この「灰色」には意味があるようです。
灰色の船は
・遠方から見た際に他の色に比べて見えずらい為カモフラージュになる。
・汚れが目立たず、船の威厳を保ちやすい
という理由があるんだそうです。
あ、でも、事実かどうかはっきりとはわかりません。
お客さんの一人が、相方の人に説明していいたのを聞いただけですので(笑)

以上が、戦艦の外部でした。
今度は、内部に潜入いたします。

戦艦の内部は、このように色々なものが展示してありました。

こちらは、「海事遺産賞」。
1992年、記念艦「三笠」は「世界に残っている最も古い甲鉄戦艦であり、造船市場きわめて価値が高く良好に保存さている」と評価されて、この賞を受賞したそうです。
その他にも、記念艦「三笠」は、イギリスの「ヴィクトリー号」及びアメリカの「コンスティチューション号」と共に、世界三大記念艦となっています。
これは、どの艦も国難に際して果敢に戦い、国家の独立と安全に大きく貢献したことにより、記念館として選ばれたそうです。

その他の部屋では、日露戦争前後の歴史について、学べるようになっています。

そしてなんと、戦艦の中には講堂がありました!!
まじか(笑)
ここでは、戦艦三笠に関するビデオ流れていたので、鑑賞することに!
と言っても、先ほど1Fで見たビデオと同じ物でした!!
しかし、2度見ても飽きませんでした!!

ビデオ上映が終わった後、スタッフの方が三笠についてさらに補足で解説をしてくれました。
1Fで見てた際には、皆熱心に鑑賞をしていましたが、ここでは結構な数の人が寝ていました(笑)
でも、ちょっとわかります。
なんでかというと、椅子の座り心地がよいのです(笑)

では、日露戦争の話に戻ります!
バルチック艦隊は徐々に日本海に近づいている。
しかし、ここで問題が起こりました。
一体ロシアは、どの経路をたどってウラジオストクに帰港するつもりなのか?
当時は、レーダーなどがない時代!
敵艦隊がどこにいるかは、船長の勘にかかっていたのです!!

経路の候補としては、3通りがありました。
①対馬海峡を通るルート
②津軽海峡を通るルート
③宗谷海峡を通るルート
3通りどのルートからきても大丈夫なように数か所で待つと、戦力を分散することになってしまいます。
ここで、船長の東郷平八郎は、確信していたのです!
バルチック艦隊は、長旅によって船員は疲弊しているに違いない。
そうなると、一番ウラジオストクへ最短ルートになる対馬海峡を通るはずだと!!
そして、みごと東郷氏の勘は的中しました!!
バルチック艦隊は、まさか対馬海峡に全勢力を集めているとは思いませんでした。
そして、敵艦隊を発見した時、東郷氏は大本営に対して以下の電報を送っています。
「敵艦見ゆとの警報に接し、吾艦隊は直ちに出勤、之を撃滅せんとす。此の日、天気晴朗なれど波高し」
ここから、2日間に及ぶ激闘が始まるのです。
ロシア艦隊を発見し、敵の左翼列先頭から攻撃するため、面舵を取ってロシア艦隊の左方向に進みました。
そして戦闘の直前にZ旗を掲げ、150度近く敵前左大回転を行いました。

引用元:http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/05/post_5bff.html
これを、「東郷ターン」と言うそうです。
東郷ターンを行い敵の先頭を抑えると、一挙に距離を縮め、近接し砲撃を開始しました。
連合艦隊は、砲戦力が格段に優れ、第1合戦の最初の30分の戦闘で大半の決着がつきました。
対馬列島の東方海域で始まった海戦は、第1合戦から第10合戦まで2日間続き、最後はバルチック艦隊が降伏しました。
バルチック艦隊は、38隻中、撃沈19隻、自沈2隻、補船7席、中立国での武装解除7隻で、3隻のみがウラジオストクに逃れました。
戦死者は4,700人、捕虜6,100名でした。
一方、日本の損失は水雷艦3隻のみ、戦死116名と少なく、史上稀にみる大勝利となりました。

また、戦艦三笠は最初は東京の芝浦に保存される予定でした。
しかし、当時は関東大震災が起こったばかり。
芝浦の海沿いも被害が大きく、とても三笠を受け入れられる状態ではありませんでした。
そこで、神奈川県の横須賀市に船の先端を皇居に向け保存する運びとなりました。

引用元:https://may.2chin.net/b/res/383528800.htm
そんな三笠ですが、1945年に敗戦した日本。
GHQは、日本の愛国心を奪うため、かつて戦争に勝利した遺産は極力なくすようにしていました。
そのため、艦橋、マスト、各砲、煙突など甲板構造物を全て撤去されてしまい、戦艦三笠はかつての船の姿ではなく、上の写真のようにダンスホールや水族館が作られるなど、激戦を戦い抜いたあの戦艦三笠の姿ではなくなってしまいました。
ところが、、、
その様子をみかねて、多くに方が三笠を当時の姿を取り戻してほしいと立ち上がりました。

三笠復元の大きなきっかけは、「三笠」の惨状をジャパンタイムスに寄稿したイギリス人のルービン氏と、水交会会長の山梨勝之進氏の対談が各誌に報道されたことでした。
そして、
三笠の復元が決まり、復元工事費の募金が始まりました。
これに応じて数多くの団体や50万人を超える国民からの寄付金が集まりました。
それだけではなく、アメリカでも募金が行われ、さらに国の予算も加わり記念艦「三笠」が復元されました。

この戦艦三笠。
入場料は600円でした。
ここに入る前、男性二人組が「600円だって。辞めとくか・・・」といって中に入らず去っていきました。
正直、最初は自分も600円か・・・と思ってました。
しかし、いざ三笠を訪れ帰るときに思ったのは、600円なんて本当に安い授業料だと思いました!!
ぜひ、一度は訪れてみて下さい!
今まで、本当に色々なスポットを訪れてきましたが、非常に思い入れのあるスポットになりました。
だいぶ長い記事でしたが、最後までお付き合いありがとうございました。

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参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横須賀市稲岡町82−19
営業時間 4月〜9月 :9:00〜17:30
3月・10月:9:00〜17:00
11月〜2月:9:00~16:30
※入艦は閉艦の30分前まで
休艦日 12月28、29、30、31日
入館料 一般:600円
シニア(※65歳以上):500円
高校生:300円
小・中学生:無料
障害者:200円(介護者2名まで)
駐車場 なし
電話番号 046-822-5225
アクセス 「横須賀中央駅」より三笠循環バスで「三笠公園」バス停下車、徒歩2分
「横須賀駅」よりバスで「大滝町」バス停下車徒歩7分
リンク http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/
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