東京都檜原村に残るノスタルジックな廃小学校の博物館「数馬分校記念館」を訪問した!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
本日は、東京都檜原村(ひのはらむら)にある小学校の廃校をそのまま博物館として残してあるという「数馬分校記念館」に関する記事になります。
学校を当時のまま残しているということなので、少し小学生にタイムスリップしたような感覚にもなるかなと思った今回の訪問!一体、その小学校はどんな小学校なのか、廃校となって博物館になった建物はどんな様子なのか??
以下で、紹介していきたいと思いまっす!!
本記事のポイント

・数馬分校記念館は1999年に閉校した学校をそのまま残した博物館
・閉校当時のままの番所なども残されている
・2018年現在は少子高齢化により、小学校は檜原小学校1校のみ

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めっちゃわかりづらい場所にあるorz

数馬分校記念館へは、檜原街道という道をひたすら進む形になります。ここへは山梨県上野原市側から北上してたどり着いたわけですが、もう本当にこの村は田舎っすわ(⌒-⌒; )
アクセスもなかなか厳しく、一応バスも通ってはいるようですが公共交通機関では到達がかなり厳しいような場所だと思います。車でもかなり時間がかかった印象でしたし。。
ちなみに檜原村ってどの辺にあるのかというと、上の地図で示した場所にあるんですね。東京都の西の端に位置しており、ここに暮らしている方でなければそんなに訪れる機会がないかと思うほどの場所。
ちなみに、私が檜原村を訪問したのはこの日が生まれて初めてです!!
▲この道の先に博物館はあるようだ
そして、檜原街道からこの細い道に入って行った先に、記念館があります。GoogleMapを見ながらでも結構わかりづらい場所っすわ。ただでさえど田舎なのに、こんなわかりずらい場所にあるので来場者はいるのかと疑ってしまうほどっすわ。。

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本当にこの先にあるのかちょっと不安でしたが、案内板があったので間違いはないようです。
▲数馬分校の校舎はコンパクトな印象
そして3分ほど歩いていくと、姿を現しました!これか!確かに結構年季が経っている建物には感じますが、そこまで古い時代というわけでもなさそうです。ただ、学校の校舎としては都会のものに比べると小さいですかね。

ノスタルジックな雰囲気を残す校舎を訪問!

早速学校の入り口が現れました。早速扉を開けようとするも、、あ、、開かない。。どうやら入り口はここではなく別にあるようです。
扉の隣にあったこちらの像がちょっとこえぇ。。題名は『少女』。シンプルっすね。
裏に周ったら発見。ここが博物館の入り口のようです。なんでこっちなんだろ(⌒-⌒; )
果たして、内部はどんな感じになっているのか??

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閉校時の生徒はわずか7名。。

中に入ると、中にはスタッフの方が1名スタンバっていて、博物館の中を案内していただけることになりました。予想通り、お客さんは誰もいなく完全独占状態でした!!
んかを見てそんな感じがしましたが、この学校にあるあらゆる物は閉校当時からそのまま残されている物だそうです。
今回この博物館を案内していただいたスタッフさん。スタッフの方は地元のボランティアの方。
ここに訪れる方は年配の方が多いそうなのですが、最近はインターネットで調べてきたという若い人も多くなってきたという。私もネットで調べて知ったわけなのですが、やはりネットの力は偉大ですな!!
▲閉校時に生徒が使用していた下駄箱
これは、閉校当時のまま置かれている下駄箱。当時のままなので、閉校直前の生徒の名前まで残っています。ちなみに、ここが閉校した最後の年の生徒はわずか7名。全校生徒7名ってどんだけ少ないって感じですが、それほどまでに檜原村は少子高齢化がこの年でも進んでいたんですね。
全校生徒が7名だったのは、下駄箱の数を見てもわかりますね。。

当時の板書がそのまま残された職員室

廊下を進んでいき、まず調査したのはこちらの部屋。この部屋は、職員室だったようです。少し明かりが暗く、この廃校した寂れた雰囲気というのがなんとも言えないほど哀愁を漂わせます。
あ〜自分が通っていた小学校にもこんな石油ストーブあったな〜。寒い季節になると、休み時間にこのストーブに皆が集まるんですわ。
▲当時の板書がそのまま残った黒板
こちらは、閉校直前の板書がそのまま消されずに残った黒板。黒板自体が残っていても、書かれた文字まで残っているのは非常にリアル。まだ閉校したのは19年前ということでそこまで古いってわけでもないですが、19年前に書かれたものが残っているというのはなんだか感慨深いものがあります。
▲閉校時の生徒数はわずか7名
閉校時の全校生徒の人数。全校生徒が7名で、各学年は0〜3人。男性5人と女性に関してはわずか2人。ここで注目したいのが一年生と二年生が0人という点なんですね。ここの閉校が決まったのは、下の学年の生徒が入学してこなかったことが決め手になったのかもしれません。。私は現在30歳なので、ここに書かれている小学校四年生か五年生の方と同級生ですかね。
実はこの学校、閉校した1999年以前にも閉校の話はあったそうですが、そのときはまだ20人くらい生徒がいたこともあり、閉校には至らなかったそうです。
ちなみに、昭和50年頃にはこんな感じで小学校が8校あり中学校は3校あったそうなんですね。この頃までは、生徒の皆が歩いて登校できた時代だったそうです。
生徒数はこんな感じだったそうです。村内にあった小学校の中でも数馬小学校はかなり人数が少なかったんですね。見ての通り昭和60年頃に多くの学校が閉校して、昭和62年からはもう村内には小学校2学校、中学校1校になってしまったようです。
閉校になった1999年3月の予定も残っています。3月25日には修了式と同時に閉校式も行われたのですね。この黒板、消されずに残り続けるといいですね!!
職員室だった部屋になぜかピアノが置いてありますな。でも、このピアノはもともとここにはなかったそうで、スペースがなかったためここに移しただけのようです。

懐かしい学校の備品がたくさん残る!

この校舎は2階建てということもあり上の階に進むことに。
この学校の運動会では、生徒以外にも町の人も参加していてある意味、町のお祭りみたいな感じだったそうです。
▲生徒たちなどで作られた数馬分校の模型
2階に上がった時に最初に視界に入るこちらの模型。これは、取り壊しの話があったため思い出に残そうということで自分たちで作った模型。かな〜りリアルに再現されていますわ。
校舎が取り壊された際には村の役場とかに飾ってもらおうと思っていたそうですが、こうして壊すことなく残ったため校舎に飾っているようです!!
▲校庭もわりと狭い印象
2階から校庭を眺めてみることに!校舎もですが、校庭に関してもそんなに広いというわけではないですね。これは、この場所が山林地帯が多く平地が少ないのでこのくらいしか確保できなかったのかな〜と思ったり。
あと、よく見るとサッカーゴールの上にバスケットゴールがあるという奇妙に合体した光景も目に入ったのですが、これってよくあるケースなんすか??
話を校舎に戻しましょう!二階の廊下を進んで最初に見える教室はこんな感じ。机はこのように円を描くような形で置かれていたようです。生徒数が少ない学校ならでわの配置ですね。ってか、記事を書いていて気づいたんですが教卓の高さ低すぎません??
▲絵画のための用具かな
教室を漁ると、学校ならでわの様々な用具がそのまま残されていました。こちらは、美術関連のものですかね。筆に絵を描く際に使用する下敷きみたいなやつ。美術ね〜私は高校時代は美術部だったりするのですが、あまり絵を描くのは好きではないっす(⌒-⌒; )
今考えたら、何であのとき美術部に入っていたんだろ。。
さらに漁っていると、スタッフの方がこんなものを見せてくれました。これは「そろばん」なのですが、後ろに「南檜原小学校」という字が彫られていますね。この学校はここから東側にあった小学校で、そのそろばんがどんな経緯があったかわかりませんがここに残されているというね。
表を見ると単位が彫られているのがわかります。作った人が彫ったのか、あるいは使っていた方が勝手に彫ったものなのかは不明。ってか、今の小学校ってそろばんって教わるんですかね??
私の時は小学校低学年くらいの時に教わった覚えがありますが。。
さらには、「これは知っていますか?」とこんなものを取り出していただいたのですが、これ何だかわかりますかね??
「御へらい基」というものらしいです。
これは着物をでヘラで何かするためのものだったと記憶しているのですが、何だか忘れてしまいました( ;∀;)
忘れたので、何だっけと思ってネットで調べ直しても詳しい情報が出てこないんですよね、コレ・・。昔は、女性は多くの女性が日常生活で使用していたとのことで学校でも教えていたんだそうです。
そのほか、棚に中にはかなり懐かしい実験器具などが残されていました。試験管やそれを立てる器具、さらにはフラスコなど、理科の実験では皆が使ったと思われる大変懐かしいものがたくさん。
大抵の学校にある実験器具は一通り揃っているようでした。いや〜顕微鏡とか懐かしいな〜。これでミジンコとかゾウリムシとかの微生物を見た記憶がありますわ!あとは、顕微鏡の接眼レンズと台の間に置いてあるスライドガラスを割ってしまったとかね(⌒-⌒; )

昔の消防車やお蚕さんの道具まで!

▲昔の消防車だったようです
こちらは2階の廊下の奥に置いてあった地元の消防団が使っていた昔の消防車。今の消防車とはえらい違いですな。。写真に写っているシーソーみたいなやつを動かして水をくみ上げて水を放出する感じですかね。ホースがあるので言われれば納得しますが、最初はこれが何なのか全然わからんかったですわ。

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2階の奥の部屋はこんな感じになってます。教室に残っている物は周辺の民家の物置などに置いてあったものを集めたものだという。
そんで教室の中で一番目立つのがこいつなんですが、これ何だかわかりますかね?
正解は、お蚕さん(おかいこさん)によって作られた生糸を巻き取る機械です。スタッフの方に「回してみても大丈夫ですよ!!」といわれて回してみましたが、これがまるで新品のようにスムーズに動くんですね。長年物置に置いてあったようなのですが、朽ちることなく綺麗に保存されています。
今までの記事でも結構書いてきたので知の冒険の読者の方はよくお分かりだと思いますが、日本は開港以降の主要輸出品目が生糸となり、関東の北側や西側、さらには甲信越地方一帯で大量に生糸が生産されていました。その結果誕生したのが、世界文化遺産に指定された富岡製糸場です。
ということで、昔は檜原村でも生糸を生産しておりました。
年代が書いてありますが、昭和二年九月ですね。今から90年も前のものがこんなに綺麗な形で残っているとは。。
あとは、個人の寄贈や図書館が新しくなって収まりきれないとのことでたくさんの本が寄贈してあります。ジャンルも様々で歴史好きや本が好きな人なら一日中いても飽きないのでは?
少し予定がキツキツだったこともあり、この学校を取材できたのは1時間くらいの時間。もう少しスタッフさん方聞きたい話もあったのですが、今回聞いた話はこんくらいですかね。
小学校の廃校ということで、懐かしい品をたくさん見つけて自分も当時を思い出したりしただけでなく、檜原村のことも学ぶことができた取材となりました。上の写真のように、少し暗い感じの写真だとノスタルジック感が出ますね( ´ ▽ ` )ノ
なかなかアクセス的にも来れる場所じゃないので、もっと深掘りしたかったですが今回の調査はこんな感じで終了です。

少子高齢化が凄まじい檜原村

▲東京都の中でもすんごい田舎の檜原村
数馬分校記念館の記事ということなので、その場所である檜原村に関して少し書いてみようかと思います!東京というと、平成30年1月1日時点で1,375万人もの人が暮らしており、日本の人口の1/10がそこに密集している鬼のような人口密集地帯。
ただし、そんな東京都であっても西側の端っこには檜原村という村があり、そこは緑豊かで閑静な田舎という感じの雰囲気なんですね。
そんな檜原村の人口は1940年代後半を境にどんどん減少していき、今では3,000人を切っている状態。そもそもこの村には産業がないため子供達が大きくなると、職を求めて街を下りてしまうんですって。
▲村に唯一残る檜原小学校
そんな背景があるということで、今はどこの地方都市でも抱えている人口減少と少子高齢化という問題がこの村にも課題として上がっているのです。今現在、檜原村には檜原小学校と檜原村中学校の1つずつしか学校は残っていないという。
しかも、小学校ではひと学年の人数が5人ほどというから、いかにこの村に子供が少ないかがわかります。。かつては小学校が8校、中学校が3校という時代もあったそうです。ただ、今現在は1校で歩いて通えない子も多いため、子供達はバスで通学していて、定期代は村が負担しているそうな。

おわりに

学校の閉校が進んで、今や小学校と中学校が一校ずつしかないというのが現状ですが、それほどまでに少子高齢化が進行していたとは。もしかしたら、このまま進んでいくと、檜原村から学校自体が消えてしまうなんてこともおこりうるんですかね。
ただ、ツーリングの方やチャリンカーの方が多かったりと交通量はそれなりにあるようですし、ここは水が良いということで美味しいお蕎麦屋さんもたくさんあるようです。今回の訪問では蕎麦を食う時間がなかったので、今度はそばでも食べに行こうかな( ´ ▽ ` )ノ

参考文献

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詳細・地図

住所 東京都西多摩郡檜原村藤原4994
営業時間 09:30〜15:30
入館料 無料
開館日 土曜日、日曜日
駐車場 無料
電話番号 不明
アクセス JR武蔵五日市駅発・数馬行き 数馬バス停から徒歩3分
リンク http://hinoharavillage.net/post/64217278754/数馬分校記念館
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