こんにちわ!
今回も、またまた日本にある知られざる博物館を紹介させていただきます。今回紹介するのは埼玉県熊谷市にある、荻野吟子記念館 。荻野吟子(おぎの・ぎんこ)という女性の偉業を伝えている博物館になります。
この方、日本初の女性医師であり、まだ女性の地位が確立されておらず「女性医師という前例がないから」という障壁に立ち向かい続けて医師になった、不屈の精神の持ち主なのです!
その人生に感銘を受け、私も記念館を訪れて今回記事にしたという感じになります。
ではでは、荻野吟子はどのような不屈の人生を歩んできたのか、展示物と合わせて紹介していきますね~~!!
見出し
不屈の精神で生き抜いた偉人
いきなりですが、みなさんは「埼玉県の三偉人」をご存じでしょうか?
その三偉人とは、渋沢栄一、塙保己一、荻野吟子です。渋沢栄一は大河ドラマにもなりましたし、2024年に発行される一万円になるなど話題に事欠かさないため有名かと思いますが、塙保己一と荻野吟子は全国的には知られてないかもしれないですね。。
塙保己一は本庄に記念館がありますが、東京の渋谷にもありましてですね、そこは以前訪問したので、ぜひこちらもお読みいただければ幸いです<m(__)m>
んで、今回紹介する荻野吟子記念館はこちらになります。見た目は博物館っぽくないかもしれませんが、これは荻野吟子の生家にあった長屋門を1.5倍のサイズで復元している建物。
この一室に、こじんまりとした感じではありますが、記念館の展示室があるというわけ!!
私が普段訪問する博物館って、こんな感じの規模の場所が多いので、このくらいのサイズ感が妙に落ち着きますわ(;・∀・)
記念館の展示室はこちらの一室のみ。
最初に彼女の生涯を簡単にまとめた10分ほどのビデオを見て、そのあと、希望者にはガイドの方が展示パネルに沿って解説してくれるという感じっす!
んで、もちろん私はみっちりと解説をしていただきました!
ガイドは、「NPO法人めぬまガイドボランティア阿うんの会」の方が担当してくれて、私の時は30分近く解説してくれましたかね!
ではでは、ここから荻野吟子の生涯について、学んでみることにしましょ~~!
名主の立派な家庭の五女に生まれる
荻野吟子(おぎの・ぎんこ)は、1851(嘉永4)年3月3日に、埼玉県幡羅郡俵瀬村(現:熊谷市)に生まれました。
本名は「荻野ぎん」です。荻野綾三郎・嘉与の夫婦のの間に生まれ、俵瀬村の名主の五女として生まれました。昔ということもあって、兄弟もたくさんいたんですね!
そんな大家族だった荻野家は、名主をやってたとのことで住まいはこんな裕福だったようです。すぐ近くに利根川が流れていたため、利根川が増水するたびに水が滞留しがちな水場の村でした。
上の写真にも写ってますが、利根川では高瀬舟が往来しており、さらに上流側にある富岡製糸場の製品や、足尾銅山の銅などを運んでたみたいっすね!
その後、吟子は17歳の時に熊谷市の上中条の大地主だった稲村家の稲村貫一郎と結婚することになります。今の時代からすると、17歳の結婚はウルトラ早く感じますが、この時代ではそうでもなかったんですかね~??
この時代は同じレベルの家庭同士が結婚するのが通例で、名主と大地主同士の結婚となったわけです。
ところがどっこい、、結婚生活は長く続かず、僅か二年で離婚となってしまうのです。
そしてこれこそが、吟子が医者を目指す大きなきっかけになりました!
というのも、離婚の原因は「性病を移されたから」でした。
性病にかかったことで、吟子は大学東校(現:東京大学医学部)で、二年ほど治療を受けることになります。生死をさまようほどの病状となり、同じ女性患者の中には「男性の医師に診察される経験に羞恥と屈辱を覚える」ことが嫌で受診せず、命を落とす女性がいたことを嘆くことになります。。このとき、吟子は女医の必要性を感じて、医者になろうと決意するのです。
そこで、今の國學院大學を創設した井上頼圀(よりくに) の門下生になり、内藤宿の教師として甲府へ招かれ、その後、東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)が創設されるということで、井上らの勧めで受験し、第一期生として入学。
この頃から。本名は「荻野ぎん」であるものの「荻野吟子」と名乗るようになります。
そういう感じで勉学に励み続けた吟子。「どうしても医師になりたい」という想いは尽きなかったわけですが、ここで彼女に大きな壁が立ちはだかります。
それは、「当時は女性が医師になる前例がなかった」ということ。
この時代は女性の地位が低く、女性が医師になるのは、あまりにも高い壁が立ちふさがっていたのです。。
前例がない中での戦い
東京女子師範学校を卒業した吟子は、医師になるために上野にあった医学校・好寿院で授業を受けることになります。
医学校へ女子が入学することは大変難しい時代だったものの、彼女の強い意志を見て、後に陸軍軍医総監や赤十字社長となる医学会の重鎮である石黒忠悳(いしぐろ・ただのり)の紹介を経て、聴講生として入学が許可されるのです。
その医学校を卒業した後、先ほども書いた大きな壁が吟子に立ちふさがることになります。
医者になるには、各都道府県が行っている医術開業試験を受ける必要があり、 吟子は1882(明治15)年に東京府に医術開業試験の願書を提出するも、却下。。翌年も埼玉県に提出するも、また却下。。
なんで却下なのかというと、「女性の前例がない!」という、マジでしょうもない理由。さすがお役所って感じですよね。。前例があるかないかで判断してしまう、悪しき風習を吟子はモロに食らってしまうのです。
吟子は、日本で受け入れられなければ海外に行くことも考えていたほど。ここで、再び石黒忠悳に、そして家庭教師をしていたことで関係があった高島嘉右衛門らに助けを求めます。
高島嘉右衛門は、横浜の高島町の由来にもなった生粋の実業家だった方です。高島町の方に横浜遊廓を移転したなど、遊廓にも絡んだりした人物でしたが、その辺はまた別の記事にて!
そんな中、門下生時代に親交があった井上頼圀が、とある資料を発見するのです!
その資料は、盲目の偉人として今もその功績が語り継がれている塙保己一(はなわ・ほきいち)が残した『令義解(りょうのぎげ)』という文献。
『令義解(りょうのぎげ)』とは、塙保己一が連載していた文献で、ここに「平安時代に、毎年三十人、全寮制で女医を養成していた」という文章が発見されたのです。
つまり、女性医師がいたという前例が、実は平安時代にあったということっすね。
この文章が見つかったことなど、多くの方の助けがあり受験資格を得られることとなった吟子。東京女子師範学校に通っていたことでかなりの学力を身につけていたことから、受験にも見事合格し、ようやく女性第一号の医師となったのです。
という感じで簡単には説明したものの、日本は周りを気にする国ですし、前例のないケースに挑むというのは、よほどのメンタルがないとできないことだと思います。
キリスト教入信、そして北海道へ
ようやく医師となった吟子は、下谷西黒門町(現:文京区)で病院を開業することとなります。
ところが、開業後の1891年には、濃尾地震が発生。この地震で多くの犠牲者が出たことで、親を亡くした孤児がたくさん生まれてしまいました。
そこで、開業した自身の病院の二階を利用して、知的障害児童のための教育・福祉施設である「弧女学院」が開業。とはいえ、学校を開業したのは、吟子ではなく石井亮一という方でした。 弧女学院は「滝乃川学園」と名前を変え、今も東京の国立市にて施設は残り続けています。
↑詳しくは。滝乃川学園のHPを見てみて下さいね。
そして、この滝乃川学園の三代目の理事長は、あの渋沢栄一でした。こうして、埼玉の三偉人はつながっていくわけですが、渋沢が理事長だった時はすでに吟子は北海道に行っていたため、直接接触したことはなかったとのこと。
その後、吟子は本郷教会でキリスト教の洗礼を受けクリスチャンに。「キリスト教婦人矯風会」風俗部長になり、娼婦の廃止運動にも関わることとなるのです。
キリスト教に関わったことで、吟子は再婚相手に恵まれることになりました。それは、13歳年下でクリスチャンの志方之善(しかた・ゆきよし)。
熊本で生まれた彼は、秩父方面への布教活動のときに吟子の家に泊まらせてもらっていたようで、それが出合うキッカケだったようで。
彼は「北海道へ行って開拓をし、キリスト教を広めて理想郷を作りたい!」というなかなかすんげぇデカイ夢を持っていたようで、結婚してわずか半年で、本当に北海道へ。。そして、吟子も三年後には北海道へ向かうことになるのです。
ところが、開拓は失敗。。
そこで、今度は日本海側の瀬棚町に移り、ここで吟子は病院を開業することとなったのです。移住した当時、瀬棚町はニシン漁でメッチャ栄えて賑やかだったそうです。
そんな瀬棚町でも吟子は大活躍。病院を開業しただけでなく、クリスチャンだったことから、婦人会を作って女性解放運動、日曜学校、さらには衛生教育を行うなどその活動は多岐にわたりました。
ところが、そのような活躍を見せていたものの、夫である志方之善が42歳で死亡。。それを機に、今度は東京へと戻ってきて、向島で明治41年12月に病院を開業することになるのです。
58歳の時に向島で病院を開業した吟子。晩年は不遇だったようですが、日本で初めて医師になった女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けたようです。
そして、1913(大正2)年6月23日、62歳でその生涯を終えることとなりました。
最後は雑司が谷霊園に立派なお墓が作られ、現在は日本女性医師会が管理しているそうです。
私も、近くに行ったら彼女のお墓を訪ねてみようと思いますよ!!
とある小説が彼女の存在を広めた
以上のような人生を歩んだ荻野吟子。それだけの不屈の人生を歩んだものの、彼女の存在は全く世に知られてはいませんでした。
その存在が世に知られることになったのは、作家である渡辺淳一著の小説『花埋み』が出版されたことでした!
渡辺淳一は札幌医科大学医学部卒業して医療に携わっており、そのかたわらで小説を書いてたみたいですね。そんな彼がなぜ、荻野吟子を小説の題材にしたのか??
NPOの方の説明によると、渡辺淳一がもともと医療に携わっていたこと、そして彼が女性の解放史を見ていたときに荻野吟子を見つけて「こんな凄い女性医師がいたのか!」と思ったことがキッカケだったそうです。
そんな彼女の生涯はその後も語り継がれ続け、1998(平成10)年には、三田佳子主演の舞台『命燃えて』にもなって脚光を浴びたり、公益社団法人日本女医会が「毎年、独自の活躍をもって女性の地位向上に著しい貢献をした女性医師」に対して荻野吟子賞を与えているなど、多岐にわたっているようです。
そんな中、2006年に熊谷市立荻野吟子記念館も開館して今に至るというわけです。
ちなみに、埼玉県では、前の上田清司知事が渋沢栄一、塙保己一、渋沢栄一の三名を埼玉県の三偉人として定めました。埼玉県の公立小中学校では、今でも必ず彼らのことを勉強するとのことです。
ちなみに、記念館から利根川を渡った光恩寺というお寺には、吟子の生家にあった本物の長屋門が移築されています。埼玉や北海道、さらには東京の様々な場所に、今でも吟子が生きた痕跡を示すスポットはたくさん残ってるんですね。
前例がない中で戦い続け、見事、女性医師第一号となったその不屈の精神。多くの方に記念館を訪れていただき、その人生に触れていただければな~~と思った次第っすね!!
おわりに
以上になります!
この荻野吟子という人物、自分は記念館に行くまで彼女の存在を全く知りませんでしたが、また一人、博物館を通じて偉大なる先人の存在を知れた満足度の高い資料館でした。
先ほど、『「NPO法人めぬまガイドボランティア阿うんの会」の方々が記念館を案内してくれる』と書きましたが、こちらのNPOの方々は、吟子を広めるために、紙芝居や講演などを行い、彼女の存在を広めようとしているみたいです。
地元のお客さんも少ないことから、まずは催し物を地元で行いつつ、さらには市会議員と一緒に「吟子を朝ドラにしよう!」と会を作って動いてもいるようです。同じ埼玉県の偉人として、大河ドラマでは渋沢栄一が取り上げられました。
荻野吟子も、そういった機会に恵まれて世に広められることを願いつつ、記事をおわりにしたいと思います。
参考文献
詳細・地図
住所 | 埼玉県熊谷市俵瀬581-16 |
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入館料 | 無料 |
開館時間 | 09:00〜17:00 |
休館日 | 月曜日 |
駐車場 | 無料 |
電話番号 | 048-589-0004 |
アクセス | 熊谷駅から車で15分ほど |
リンク | http://oginoginkokinenkan.com/ |
コメント
NPO法人・歴史人物学習館 案内役の 安達 弘 と申します。
素晴らしい情報発信をありがとうございます。
現在、小中高生のための「歴史人物学習のためのデジタル教材の案内板」を構築中であり、その 荻野吟子 のページから、貴ホームページ(または貴動画)をリンクさせていただきたいと希望しております。
現状では、以下のような画面を考えております。
https://rekijin.net/ogino_ginko/
リンクに問題があるようでしたら、取りやめますので、ご連絡いただけたら幸いです。
また表示上、ご意見ご要望がありましたら、ご遠慮なく、お申し付けください。
コメントありがとうございます。
ブログ見ていただき大変ありがとうございます。
また、リンクの方こちらこそありがとうございます。
リンク貼っていただきありがとうございました!