千葉に残る日本唯一の旧教会堂で、ロシア正教の世界に触れてきた!

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こんにちわっす!

今回紹介するのは、千葉県柏市にある「旧手賀教会堂」という施設っす。

教会と言っても、キリスト教ではなくロシア正教の教会になります。今まで、知の冒険の活動では多少なりとも教会など、宗教に関する色んな施設に足を運んでは来ましたが、ロシア正教は初っすね!!

んで、「旧手賀教会堂」は”現存する日本で唯一の転用教会堂”という大変珍しい施設であり、一般公開されているということで今回訪問してきました!!

では、そんな旧手賀教会堂とはどのような施設か、以下で紹介していきたいと思います(*´▽`*)

本記事のポイント

・明治12年に民家を教会の建物として活用した建物。
・戦後は、疎開してきた家族が住んでいたことも!
・現在も、新しい方の教会でお祈りが続けられている。

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日本で唯一の現存する転用教会

今回は、千葉県の柏市にやって来ました。柏市というと、JR常磐線が走り東京へのベッドタウンとしても機能していることで、たくさんの住宅も多い場所かと思いますが、旧手賀教会堂がある場所は、ちょっと駅から離れた閑静な場所にあるんすね。

地図を見ても、公共交通機関で行くにはちょっと行きづらい場所にあるのが分かるかと思います。

でも、近くには手賀沼という自然があり、さらには広大な平地が広がっているんですが、教会堂はそうした高台の少し景色の良い場所に佇んでおります。

パット見は、民家にしか見えないな・・

ということで、私は軽自動車をもっていることから、川崎から車をぶっ飛ばしてここまでやってきました。訪問した日は快晴ということもあり、最高のお出かけ日和であり、とはいえクッソ暑かった・・。

館内はこんな感じ。こじんまりとした小さい建物であり、展示物もそんなに多くはないです。とはいえ、この建物は140年前からこの地に建ち、多くのロシア正教たちが祈りをささげた施設だったんですね。

入館は無料であり、開館中はスタッフの方が常駐しています。いつものように、自分は博物館やマニアックなスポットを巡っていることや、知られざる歴史を知ることが好きということを告げると、スタッフの方がめっちゃ親切にいろんなことを教えてくれたので、まずはこの建物が歩んできた歴史からまとめていきたいと思います!

このロシア正教というのが日本に入って来たのは明治の初め。最初はニコライという方が函館に聖堂を建て、そこから布教活動を始めたことで日本にも信者が増えていったそうです。

そして、旧手賀正教堂が建つ場所は、近くには利根川が流れています。鉄道が普及する以前の時代は、移動や運搬は船が主流でした。それゆえ、太平洋からやって来た舟は利根川を通り、この付近で船から陸路で東京の方へ荷物を運んでいたことから、この地は交通の要所でもあったそうです。

それゆえ、他の場所に比べ早い段階からいろんな情報が入ってきたことから、ロシア正教という新しい宗教の情報も、この地に住んでいた人たちは早くから情報を得ていたかもしれません。

教会には見えんな・・

この地に手賀ハリストス正教会が建ったのは、1879(明治12)年でした。とはいえ、教会といっても、今の我々が想像する教会とは違い、外観はもはや昔の民家にしか見せませんよね。。

それは、まだ明治の初めの時代だったということもあり、立派な教会を建てるノウハウも広まっていなかった時代。そのため、なんでもいいから何かの建物を用いてとにかく教会を作りたかったというのが背景にあったのかもしれません。

ということで、どっかの家にあった離れを移築して教会にしたのがこの建物。なので、この他にも、同じような時代にはこうした建物を教会として使っていた施設は日本にも良く建てられたんでしょうね。なので、タイトルにもある”日本唯一の旧教会堂”とは、”日本唯一の現存する転用教会”ということです!

ちなみに、教会というと”キリスト教”を思い浮かべる方も多く、「隠れキリシタンの施設だったりするんですか?」と聞かれることも多いそうですよ!

茅葺き屋根と瓦屋根が合わさった珍しい造り

140年前にこの地に教会として移築され、90年近くもの間、ロシア正教の信者さんたちがこの建物でお祈りを続けてきました。とはいえ、ロシアとの関係から信者は減り、さらには戦争による影響でこの建物に人が住んでいた時期があったなど、単に教会だけではなく他の用途でも活用された過去もあったようです!

旧手賀教会堂 略年表
1879(明治12)年
手賀ハリストス正教会を設立。
1881(明治14)年
教会堂を現位置に建築(近隣の民家を移築したものと伝えられる)。
戦時中
疎開の家族が住み始める。戦後には、細々と祈りの活動が再開。
1974(昭和49)年
新教会堂が新築、移転される。
1975(昭和50)年
旧手賀教会堂を、当時の沼南町が所有。
旧手賀教会堂保存修理工事を開始。
2012(平成24)年
千葉県指定文化財に指定、聖画3点が千葉県指定文化財に指定。
2020(令和2)年
旧手賀教会堂保存修理工事完了。

簡単に、旧手賀教会堂が歩んだ歴史を上にまとめてみましたが、細かくは後でまとめようと思います。

建物の背景について簡単に紹介したところで、次は館内に展示されている聖画についてです!!

山下りんによって描かれた聖画

では、ここから建物の内部を細かくみていくことにしましょー!

手前が啓蒙所、奥が聖所

この建物は、襖に区切られた二つの部屋があるだけのこじんまりとした建物。

手前の部屋は、”啓蒙所”と言われていた部屋で、お祈りが終わった後にお弁当を食べたりなどして過ごした部屋でした。そのため、信者でない方でも啓蒙所までは入ることが出来たものの、襖の向こうの聖所には入ることはできませんでした。

奥の部屋である聖所は、今は誰でも入ることが出来るものの、聖画が展示されているなど神聖な雰囲気を醸し出していますね。

聖所には、三枚の聖画が展示されています。でも、これは復元したものであり、本物は近くにある現役の新しい教会にあるんですって。

ここに教会が建ったのは明治13年ですが、明治25年には日本にロシア正教を広めたニコライがこの地を訪れたことが記録に残っているそうです。そのときは100人ほどの信者さんがいて、日々、この部屋で祈りを捧げていたんですね。そう考えると、なんだか気安く立ち入ってはいけないようにも感じてしまいます。。

そして、これらの絵についてもスタッフの方が話してくれました。

まずはこちらの絵。

パット見は誰を描いてるのか、何を意味しているのか分からなかったんですが、絵の上部には「主全能者」と書かれているのがわかります。写真だと文字が小さくて読みにくいかもしれませんが。。( ;∀;)

んで、こちらに描かれているのはイエス・キリストなんですって。左手に持っている書物は、漢文で書かれた聖書。ロシア正教は根っこがキリスト教であるからとのことですが、とはいえキリスト教とは雰囲気が違っていて、着ている服装を見るとロシアの皇帝のような、ロシア正教風にアレンジしたキリストって感じに見えます。

最後の晩餐の絵にしか見えない・・

あのレオナルドダヴィンチが書いた絵にしか見えないですが、この絵には「主之晩餐」と書いてあります。ロシア正教では、キリストが十字架に張り付けられ処刑されたあと、死んだままでなく復活したとしているため、これを最後の晩餐とはいわないとのこと。

で、こちらは聖母マリア様っす!

日本初の女流イコン画家・山下りん

んで、これらの聖画は”山下りん”という方が描いたそうです。

この山下さんって方、私は全くご存じないのですがそれなりに知られている方ではあるようで、彼女の絵を見るために全国を回っているというマニアックな方もここに訪れるんですって。最近では朝井まかてさんが書いた、彼女の波乱な人生を題材にした『白光』という作品によっても彼女の名は知られているとのこと!

館内にはイメージ図がありまして、こんな感じでお祈りをしていたんですかね。

あと、その二つの絵の間にも四枚の絵が描かれてました。この四枚の絵について詳しくは聞けませんでしたが、誰を描いたかは一応書いておきます。

・左上:聖使徒福音者・マトフェイ
・右上:聖使徒福音者・神学師イヲアン
・左下:聖使徒福音者・マルク
・右下:聖使徒福音者・ルカ

この燭台は、この教会で使われていた本物
洗礼を受けていた木桶

あとは部屋の隅にこんな桶が置かれてたんですが、こちらは洗礼を受けていた木桶。この中に大人が入り、当時は玄関で水を浴びながら洗礼を受けてたみたいです。

疎開してきた家族も暮らしてた

続いては、太平洋戦争時についてもスタッフの方が話してくれました。

教会として使われていた建物ではあるものの、戦時中という非常事態には空襲からの被害から逃れるため、さらには戦争で家族を亡くした方が疎開してきたそうです。

教会堂の間取り

館内には、疎開してきた家族が暮らしていたころの間取りと各部屋の用途が書かれた図があったんですが、”勉強べや”と書かれているのがまさにそれを表していますね。

ここには数家族住んでいたことが分かっているそうです。とはいえ、ここに住んでいた家族でも、神聖な聖堂前室(聖所)、聖堂(至聖所)には入らないようにしていたそうです。

疎開した子供たちの勉強部屋だった部屋

勉強へやは、三畳という結構狭い空間。勉強自体は机と座布団を置くスペースがあればできはしますが、何だか窮屈そうだ。。

あとですね、注目したいのがトイレ!!

疎開してきた家族が住んでいた時には、図にも書かれているようにトイレが備わっています。

とはいえ、教会は祈りのために聖別された空間であるため、食事や就寝、さらには手洗いなどの日常生活は排除されるべきとされています。そのため、元々はトイレは備え付けられていませんでしたが、疎開してき方が暮らすということで、そのときに備え付けられたそうです。

その名残りが今もられまして、現在、入り口付近にはこんな甕(かめ)が置かれていますが、これが便所だったんですって。いわゆるボットン便所ですね。

という感じで、ここは教会という機能だけでなく住宅としても一時期機能していたというお話を伺うことができました。

今もロシア正教の信仰は続く

戦争が激しくなると、教会に神父が来ることはなくなり、礼拝や皆で集まることも出来ない時期が続くものの、戦後は人を住まわせながらも細々とお祈りの活動は続けられたそうです。

その後は、人も住まなくなり建物の破損が進んだことから、1974(昭和49)年に東へ600mほど離れた場所に新しい教会を新築。その翌年には、大変珍しい建物ということから沼南町が建物を取得。その後は改修工事を経て、現在に至るとのこと。

今では一般公開していて館内を見学することができるものの、この建物は2011年3月11日に発生した東日本大震災によってダメージを受けました。

そして、この建物とは別に建てられた新しい教会で、今もこの地でロシア正教の信仰は続いているとのことです。今回の訪問では新しい教会に行く時間はありませんでしたが、旧手賀教会堂の場所から歩いて8分ほどの場所にあるんですね!

明治25年頃には100名ほどの信者さんがおり、、その後は日露戦争、さらには太平洋戦争が勃発したことでロシアとの関係が悪化したこともあり、離れていく人がポツポツいたそうです。とはいえ、令和5年の現在でも、10世帯ほどの方々がロシア正教を信仰していて、今では月に1回、新しい方の教会でお祈りが行われているそうです。

あと、お祈りをするためには神父さんがいる必要があるわけですが、月に1回と頻度は少ないことから、この近くに住んでるわけではなく東京の方からやって来てるそうです。

詳しい解説もあるので、これだけでも勉強になると思います

ここはマニアックな施設ということもあり、訪れる方はまばら。先ほどは、山下りんさんの絵が目的でお客さんが来るという話を書きましたが、あとは地域の歴史に興味があるとか、この辺を散策してたまたま発見したとか、そんな感じでやってくるそうですよ。

という感じで、スタッフの方に結構詳しく説明していただき、結局1時間ほど滞在していたんじゃないかと思います。普段接することが少ないテーマだけに、めっちゃ勉強になりました!!

おわりに

以上になります!

ロシア正教という宗教は初めて触れましたし、今回スタッフの方に色々話をしていただいて、めっちゃくちゃ勉強になりました。

その地域の歴史を調べる目的で神社やお寺にはよく足を運ぶんですが、教会は久々でした。宗教も調べると奥が深いので、こうした施設も見つけては色々調べていきたいと思います。

ではでは、また次の記事でお会いしましょ~!!

参考文献

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詳細・地図

住所 千葉県柏市手賀666−2
入館料 無料
開館時間 10:00~16:00
休館日 月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は開館し、翌平日が休館)、年末年始(12月28日~1月4日)
駐車場 無料
電話番号 047-160-9770
アクセス JR柏駅東口より東武バス・布瀬行き『手賀』下車 徒歩10分
リンク https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/rekishi/shiteibunkazai/ken/kyokaido.html

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