こんちわっす!
今回の記事は、東京都西多摩郡の日の出町に位置する「日の出山荘」がターゲットになります。
東京都にあるとはいえ、かなりの西側ということで都会とは程遠い景色の場所に位置するこの博物館。閑静な森の中に佇んでいるものの、ここはかつての総理大臣だった中曽根康弘の別荘であり、レーガンアメリカ大統領やゴルバチョフソビエト連邦元大統領など多くの著名人を招待した歴史ある建物でもあるのです!
ではでは、その「日の出山荘」とはどのような場所なのか?
以下で紹介していきたいと思います~~(*´▽`*)
見出し
東京の僻地にある元首相の別荘
ということで、今回の舞台は東京都西多摩郡という場所。青梅市や檜原村は何度か訪問しているものの、西多摩郡への訪問はほとんどない私。余談ではありますが、地図を見てわかるように西多摩郡って飛び地があるんですね!
この辺りの背景も調べたら面白そうですが、話がそれてしまうので、これはまた別の機会に!
そんで、日の出山荘があるのはこの場所。地図を見るだけでも、なかなかの僻地であることが分かるかと思います!
そんな僻地へと、自宅の川崎からポンコツ軽自動車を爆走してやって来た私。
いや~緑が広がっていてマイナスイオン満載で本当に心地いい雰囲気。新宿や渋谷のようなコンクリートジャングルと同じ東京とは思えない景色ですよね!
日の出山荘は建物と駐車場がちょっと離れていて、駐車場から10分弱ほど歩いて向かう必要があります(*´▽`*)
とはいうものの、歩みを進めていくと、この先に博物館があるとは思えない光景になってきてちょっと焦る私。。(;・∀・)
とはいえ、案内に沿って進んでるのであるに決まってるんですけどね(笑)
ここか~~、日の出山荘はちょっと前から気になってたんですけど、中々ここに来る時間作れなくて、自分的には
いや~~やって来ましたね!
この看板見ると、えらいとこ来たな~感をより感じられる。
受付を済ませて山荘内に入るわけですが、敷地内には広大な庭が広がっていて、建物がポツポツと点在してる感じっすね。敷地面積は約25,000㎡にも及びます。
建物は、青雲堂、天心亭、書院の三つがあり、書院は館内にたくさんの写真が展示してあったりするため、じっくり見るとそれなりに時間がかかると思いますよ!
ということで、まずは敷地内にある三つの建物についてサクッと紹介していこうと思います!
江戸時代末期に建てられた青雲堂
まず、受付から歩いてすぐに現れるのがこちらの「青雲堂」という建物!
東京にこうした茅葺き屋根の建物は本当に数少ないと思いますが、この建物は江戸時代末期に建てられたとされる古民家。1962(昭和37)年に中曽根元首相がこの建物を購入したそうなんですが、その当時はもうボッロボロで廃墟同然だったみたいです。
元々は農家の方が住んではいたそうですが、その後はずっと人が住んでなくて放置されていたところを、中曽根元首相が購入したそうな。中曽根が日の出山荘を購入したのは、憲法調査会で憲法制定過程を検証し、首相公選制の思案を練っていた1964年のことでした。管理人の方に聞くと、そもそも何で中曽根さんがこの場所に目を付けたのかというと、
「同じ議員仲間などが青梅にいたそうで、そういうつながりでここを買ったと聞きましたよ! 」
とおっしゃってましたが、真実はどうなのでしょうね?
ちなみに、この建物は「青雲堂」と呼ばれました。故郷・高崎市にある政治運動の拠点”青雲塾”から名付けられたとのこと。
ロナルド・レーガンアメリカ大統領夫妻が、中曽根首相の招待を受けて日の出山荘を訪問したのは1983(昭和58)年11月11日のこと。
昭和58年というと、都会では団地など、どんどん新しい住宅が建てられた時代でしたが、中曽根氏は「これが古来の日本人が暮らしていた生活体系だったんです!」ってことを、レーガンに見せたかったそうです。
レーガンが来るときは、この建物がより古く見えるように茶色く塗るなどの細工もしたとか!
レーガンがやって来た当日は、12:30に山荘到着後、青雲堂において両首脳夫婦はおそろいのチャンチャンコを着てくつろいだ雰囲気の中で昼食を共にし、中曽根自らお茶を点(た)てるなど、和やかな会食だったそうです。 上の写真にも、その様子が移ってますね(*´▽`*)
これにより、両首脳の個人的な友情と信頼は一層深まり、日米関係の円滑化にも貢献。これを裏付けるように、1984年1月の世論調査では、日本を信頼できる国とする米国人が57%と、前年より13%も増えたんですって。
とはいえ、そんな首脳会談を行うまでには、大使館の職員たちが、安全面で何度も日の出町へ下見に来るなど、町民からすると非日常な光景ばかりだったそうです。
まぁ皇室の方とか首相、他国のトップが来るとなると、周辺の草むらをくまなくチェックしたり、マンホールの中まで確認するとかよく聞く話ですけどね(笑)
あと、ちょっと運営面の話をすると、日の出山荘は中曽根氏から日の出町へと譲っていただき町の運営になっています。日の出町で運営はしているものの、青雲堂の屋根を修理するのも何百万もかかるなど、やはり維持費は結構かかるとのこと。。
茅葺き屋根は吹き替えしないといけないっすからね、、。
ロン・ヤス会談が行われた「天心亭」
青雲堂からさらに進むと、こんな建物が現れるのですが、こちらは「天心亭」という建物。”天心”という名称は、明治時代の美術指導者、思想家だった岡倉天心からきています。
天心亭は、部屋には入れないものの玄関から中を覗くことが出来ます。
ここはレーガン大統領と日米首脳会談、いわゆる”ロン・ヤス会談”を行った場所。そして中曽根氏はここで俳句、座禅、読書、ラジオといった趣味を楽しみ、必ずここで寝泊まりをしていました。
日米首脳会談は「天心亭」の囲炉裏を囲んだ椅子席で行われ、日米及び世界の重要問題に関する率直な意見交換が行われました。
この会談は世界各国にテレビ放映され、日本農家の佇まいと林に囲まれた静かな山里での会談は、日本の紹介だけでなく”ロン・ヤス”と呼ばれた日米結合の強さを示しました。
とっても仲良さげに話しているレーガンと中曽根ですが、この二人が出会ったのは1983年1月17日のこと。ワシントンに降り立った中曽根は、米ソ中距離核戦力の削減を巡って意気投合したことが背景にあります
中曽根は、「今度のサミットでは、私がキャッチャーをやるから、あなたはピッチャーになりなさい。ただ、ピッチャーもたまにはキャッチャーの言うことを聞かないといけない」と述べた。
レーガンは、「ピッチャーはキャッチャーのサインどおりにボールを投げるものだ。たくさんサインを出して欲しい」と同意した。
さらにレーガンが、「これからは自分をロンと呼んでほしい。あなたのファーストネームはなにか」と尋ねると、中曽根は「ヤス」だと答えた。「ロン・ヤス」関係の始まりである。
引用元:『中曽根康弘 「大統領的首相」の軌跡』p214
天心亭での首脳会談は 「ロン・ヤス会談」とも言われていますが、この”ロン・ヤス”という名称には、上記のような背景があったみたいです。
私は頭悪いしあまり政治は詳しくないので、中曽根康弘という人物についてマジで何も知りませんでしたが、ちょっと↑この本を読んで勉強しました。戦後の日本について知れる面白い本だったので、気になった方は読んでみて下さいな!!
中曽根元首相の別荘だった「書院」
そして、一番奥にあるこのデッカイ建物が、「書院」になります。こんだけの森の中にドエライ建物を作ったわけですが、お隣の青梅市とかも含め、この辺で一番豪華な建物みたいですよ!
さすが、歴代首相の中でもの歴代第7位の長きにわたり長期政権を築いた生粋の政治家(在任期間は1806日)!!
館内はすんごく綺麗に維持されていて、中曽根元首相に関する様々な写真が壁に展示されています、
中を見て改めて、こんな森の中によくこれだけの建物を建てたな〜と思うのと、都心からそこまで遠くなくこれだけ落ち着ける雰囲気の場所なので、確かに別荘としては悪くないよな〜と思ったり。。
写真以外にも、こうした彼の愛用品も置いてありましてですね、、
と思ったら、レーガンがやって来た時も吹いてみせたようです!
おそろいのチャンチャンコ着てるの、なんか良いっすね(*´▽`*)
館内には中曽根総理関連の写真は多く展示されているものの、彼の生い立ちについて詳しく展示パネルで紹介しているってわけではないっすね。とにかく日の出山荘という建物をありのまま見ていただきたいって意図だと汲み取りました。
一階は以上ですかね。では、二階に上がっていくことにしましょう!!
そんで、二階を紹介しつつ、中曽根康弘総理についても少し説明しながら館内の紹介を!
中曽根康弘(なかそね・やすひろ)は、1918年に群馬県高崎市に生まれました。戦後の1947年に28歳の若さで当選。吉田茂首相を「官僚秘密外交」と批判し、自主憲法制定を訴えて「青年将校」と呼ばれることになります。
父の松五郎は材木商の頭領でした。小学生の六年頃から政治への関心が芽生え、新聞もこの頃から読み始めることに。政治外交問題に関心を持ったキッカケは、13歳の頃におきた満州事変(1931年)と国際連盟脱退(1933年)とのこと。
この二つの出来事で、「こんなことをして日本はどうなるのか・・」と将来を案じたようです。
1982年に、64歳で念願の首相に就任した中曽根は 「戦後政治の総決算」を唱え、1982~1987年までの期間を総理大臣として指揮を執ることになります。
就任後には、国鉄と財政の改革を掲げ、「ゆとりと活力のある安定社会の実現」「日米間の信頼関係」の強化を説き、さらには前総理の鈴木善幸の時代には日米関係が悪化していたことから、中曽根はその修復が先決と判断。
内政の課題として行政改革、財政改革、教育改革を挙げつつも、内政よりも外交を優先的に考えていました。
中曽根の外国訪問は22回となり、小泉純一郎の51回に抜かれるまで歴代1位でした。とりわけ、レーガンとの関係は緊密であり、対外政策は日米関係を軸としつつ、ヨーロッパ、東アジア、東南アジアなど広範囲に及んだのです。
貿易摩擦や靖国参拝をめぐる不協和音はあったほか、数々の問題発言があったものの、アメリカだけでなく中国や韓国の指導者とも良好な関係を築いた稀有な政治家でした。
というように、外交に力を入れていたことが、この日の出山荘での日米首脳会談にも繋がったんでしょうね。
内政では、国鉄、電電公社、専売公社の民営化を進めたことも有名な話ですね。
また、今も残る靖国問題は、中曽根が公式参拝をしたことが発端となりましたが、靖国神社公式参拝することに執着した理由の一つは、彼の弟の存在が大きかったとのこと。
彼の弟は海軍の木更津航空隊に入隊しており、鈴鹿山脈の猛吹雪で山頂近くに激突炎上して亡くなり、靖国神社へと移祀されたんですね。。
また、日の出山荘には、レーガン大統領以外にゴルバチョフ元ソビエト連邦大統領ご夫妻もやってきました。
中曽根がゴルバチョフと初会談したのは1985年のとき。
中曽根が「われわれの基本的な立場は、北方領土問題を解決して平和条約を早期に締結し、両国関係を長期的、安定的な基礎の上に置きたい点にある」と主張すると、
ゴルバチョフは「貴総理は、いわゆる領土問題について触れた。貴総理はこの問題に対するわれわれの立場をご存じであろう。これに加えて、新たに述べることは何もない」と否定的な言葉を。。
それでも、ゴルバチョフは会談を終えて握手すると、「あなたとはもう一度話をしたい」という話もあります。
中曽根が首相として最後の執念を燃やしたのが税制改革でした。消費税と同様の大型間接税である売上税の導入を柱とした関連法案を国会に提出。
しかし、彼は自らの公約として「大型間接税を導入しない」と公約していたため、多くの国民は公約違反と感じ、内閣支持率は一気に低迷。。最終的にはのちの竹下内閣で消費税が導入されることになるわけですが、中曽根のtきにはここにテコ入れすることはできなかったんですね。
とはいえ、戦後の内閣総理大臣を語る上で必ず名が上がる中曽根康弘は、やはり大物政治家の一人ではあったでしょうね。ちなみに、私が生まれたのは1987年9月20日。その時の総理大臣は、中曽根だったんですね。
ということで、以上で日の出山荘に関しては大方紹介できたのではないかと思います。
あと、最後に日の出町に残る日米首脳会談を記念した碑を紹介して、本記事を終えようかと思います!
記念すべき首脳会談を後世に!
日の出山荘から少し都会へ降りてきた場所には、日の出町で開催された日米首脳会談を後世に伝える碑が建てられています。
この会談を成功に導いたのは、沿道で星条旗と日の丸の小旗を振って温かく歓迎した町の人々であり、3,600人に及ぶ警備や国内外の多数の報道陣の取材等によるものでした。
この会談によって「日の出町」の名は全国に知られることにもなり、この地においていかにビッグイベントだったかがわかるかと思います。
日の出町はこの記念すべき出来事を永く伝えようと、2002年11月に地元有志の協力を得て、町の中央にある文化の森に、日米首脳会談記念碑「平和の碑」を建て、ハワード・ベーカー駐日大使夫婦の列席のもと除幕式が盛大に執り行われました。
おわりに
はい、以上が日の出山荘に関する紹介でした!
しかし、こんな森の中にもこうした面白い場所があるもんなんですね。私は新型コロナウイルスが猛威を奮っている中でたまたまこの場所を発見しておりましてですね、ずっと訪問したくてやっと来たって感じなんですよ。
とはいえ、私の勉強不足もあって中曽根元総理についてはそんなに詳しくは知らないので、もうちょっと勉強はしたいんですよね。そうすると、次回来たときにはまた違っていろんなものが見えるかもしれないんですよね。
博物館ってそんなもの。一回だけではなかなか理解しきれないんですよね〜。
では、また次回の記事でお会いしましょう( ̄▽ ̄)
参考文献
詳細・地図
住所 | 東京都西多摩郡日の出町大久野5270番地 |
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営業時間 | 10:00~15:30(入館は15:00まで) |
入館料 | 一般300円、65歳以上200円、高校生200円、小・中学生100円、未就学児無料 |
休館日 | 月・火・年末年始 ※1月・2月は、月~金(土・日・祝日開館となります) |
電話番号 | 042-597-1009 |
駐車場 | 無料 |
アクセス | JR横川駅から徒歩5分 |
リンク | https://www.town.hinode.tokyo.jp/category/6-0-0-0-0.html |
コメント
すみません、記念碑の後ろにある、配水塔のようなクセのある建物が気になります!!