火事で迷宮入りとなった北見の遊廓について、ピアソン記念館で学ぶ!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

こんちわっす!

今回は、前回の記事で紹介した北海道北見市にある「ピアソン記念館」の記事の続編になります!

↑前回は、この「ピアソン記念館 」の背景や館内について紹介しましたが、今回はその内容の中から北見の遊廓に関してをピックアップして紹介したいと思います!

前回の記事でもちょっとだけ触れましたが、ピアソン夫妻は北見の遊廓に大きく関わっている人物とのことなので、遊廓、あとは北見の花街にも少し話を広げて紹介できればと思います!

本記事のポイント

・ピアソン夫妻は、北見の遊廓設置に対する反対運動を行った人物
・役場が火事になってしまったため、廃止となった経緯は不明
・料亭があり芸妓もいたことで、薄荷景気により花街は栄えた

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キリスト教の伝道のためにやってきた

色合いが素晴らしいピアソン記念館の建物

はい、ということで今回は北見の遊廓がテーマです。んで、そのテーマにおいて欠かすことができないのがピアソン夫妻の存在なんですね。

というか、そもそも私は博物館マニアということで、このピアソン記念館の背景や展示内容が気になり訪問したんですが、ここでスタッフの方にいろいろ話を聞いてると北見の遊廓に関する話題が出てきて大変そのテーマに惹かれたというわけです。

館内に展示されているピアソン夫婦の写真

「ピアソン夫妻って誰やねん?」ということですが、アメリカ人夫妻であるピアソン夫妻は、そもそも「キリスト教の伝道」という目的で日本へとやってきました。日本へは40年間滞在したものの、その多くを北海道で過ごしています。

滞在しているさなか、旭川と北見に滞在してた時には、矯風会の廃娼運動を率いた活動も行なっていたわけです。

その北見の遊廓についてスタッフの方に掘り下げて聞いてみると、いろいろと興味深い点があったことと、さらには花街についても一緒に教えていただいたので、今回はこの点だけを前回の記事にはまとめずに、この記事でまとめようって感じですかね!

ピアソン記念館の説明にも、こうして遊廓に関して書かれてますわ。

ということで、北見の遊廓とピアソン夫妻の廃娼運動、さらには花街について、ピアソン記念館のスタッフの方から聞かせていただいた情報などをもとに、ここからあくまで私が知り得た情報にはなりますが、まとめていきます。

ハッカ景気に湧いた北見に遊廓を

開拓と遊廓は表裏一体の関係にありました。

薄荷栽培の歴史を伝える「北見ハッカ記念館」

「北見ハッカ記念館」の記事にも書いたように、薄荷栽培に適した気候だったことと、薄荷の取引金額がほかの作物よりも高かったことで、大正のころは北見に金の雨が降るという薄荷景気に見舞われました。

それに加え鉄道も開通するようになると人口も増え、本州からも薄荷を買い付けに来る商人たちがやってくるようにもなり、こうして人が集まってきたことで、北見に遊廓が作られるのもこの当時では自然な流れだったのかもしれません。

北見の花街に関して参考になる『薄荷物語』

ハッカ景気と鉄道の開通で急激に人口の増えた大正元年頃から、野付牛にも遊廓設置運動が盛り上がり始める。運動の中心は料亭などの経営者達であった。遊廓が出来ればそれだけ遊興客を呼び込める。それが狙いであった。

引用元:「薄荷物語」p113 – 114

記念館にも所蔵してある『薄荷物語』に書かれているように、料亭などの経営者達が中心となり遊廓設置運動が行われ、その後は設置場所・払い下げも決まり、国の認可も下りました。

この設置場所に関して、記念館の方が「そうそう、遊廓を建設する予定地が地図にも書かれてましてね、電子データであるので見たいですか?」と、おっしゃってくれました。

答えはもちろんYES!!

地図に記された遊廓予定地

それがこれ!

確かに「遊廓予定地」と書かれてますね。

場所があってるかは保証できません…

今の地図に落とし込むとココになるのかな?

といっても、区画が変わりすぎててあってるかは怪しいので、あくまで参考程度に・・。

という感じで、北見の遊廓は場所まで決まったのです。

が、、、

実際に設置されることはありませんでした。それは、ピアソン夫妻による廃娼運動が大きく関わっていたようなんですね。

ピアソン夫妻による廃娼運動が勃発

1914(大正3)年に旭川から北見へと移ってきたピアソン夫妻の動きはとにかく早かったみたいです。翌年の大正5年には女性信者を叫合して野付牛支部夫人矯風会を結成。

そしてすぐに署名活動を始め、335名の署名を集めて北海道長官に陳情したのです。

あっ、ちなみに”野付牛(のつけうし)”とは北見の昔の地名です。記事の中ではややこしいので北見と書きます。

記念館に残る『婦人矯風会記録』

そして、その署名記録はピアソン記念館に所蔵されている『婦人矯風会記録』に残されています。恐らく、この署名が遊廓設置反対に大きな効果をもたらしたと思われます。

でも、北見の遊廓についてわかっていることは以上までで、そこから実際に廃止になるまでの流れは資料がなくてわかってないそうです。。

林葉子著の『性を管理する帝国』

でも、一応『婦人矯風会記録』が残っており、ピアソン夫妻が廃娼活動を行なっていたということから、同志社大学の准教授になっている林葉子さんが、北見の遊廓を調べるべく、ここへやって来たりもしたそうです。

こちらの『性を管理する帝国』という書籍では、北見の遊廓ではなく旭川の遊廓について書かれてますけどね。

ピアソン夫妻は北見に滞在する前には旭川に滞在しており、旭川では日露戦争の前から曙遊廓があったものの、第七師団のすぐ近くの中島(永山村)への遊廓移転の噂があったため、遊廓移転反対運動が高まりました。

1904(明治37)年2月、旭川婦人矯風会は、遊廓移転の非を論じた陳情書を旭川町議長に提出。この時期に、北海道のみならず全国の矯風会の廃娼運動を率いていたのがピアソン夫妻だったわけです。

ピアソン夫妻の廃娼運動は、北見に限らなかったんですね!

北見を開拓しにきた北光社

ここでちょっと北見の開拓について話すことにします。

北海道の開拓という点でいえば、釧路市には鳥取の方が開拓で移住したことで鳥取大通という通りがあるように、また帯広では静岡県西伊豆の依田勉三という方が開拓したなど、多くの方が蝦夷の地にやってきました。

依田勉三に関しては、↑こちらの「山光荘」の記事を見てみてくださいね!

ピアソン記念館に展示されている坂本龍馬の写真

んで、北見の町では、屯田兵よりも先に「北光社」という開拓団がやってきました。この「北光社」とは、”北に光を!”という意味から名付けられており、坂本龍馬の甥っ子(坂本龍馬のお姉さんの子供)である坂本直寛(さかもと・なおひろ)がリーダーを務めています。

誰もが知っている坂本龍馬は、北海道の開拓にも情熱をもっていました。が、殺害されてしまったことでその夢は途切れるわけですが、坂本直寛がその意思を注いだのか、彼が北光社を結成して北見の地へと向かうことになります。

この北光社はクリスチャンの開拓団であり、そのメンバーの一人に、「北見開拓の父」といわれた前田駒次という方がいたんですが、この方が、遊廓廃止のキーマンだったかもしれない方なんですよね。

この前田駒次という方は、あの遊廓設置が廃止になった頃の町長だった方なんです。彼は北光社のメンバーだったということで、クリスチャンでした。

そんな背景があったということで、同じクリスチャンであるピアソン夫妻の意向が反映されやすかったのかもしれません、と、ピアソン記念館の方はおっしゃってました。が、この辺は本当にあくまでも推測なんですわ。。

役場が火事で迷宮入りに・・

ピアソン夫妻の遊廓設置反対運動が起こったことや、当時の町長である前田駒次氏がピアソン夫妻と同様にクリスチャンだったなどの話はあるものの、実際に、いつ、どのような流れで北見の遊廓の設置が取りやめになったのか、、それを示す資料は残っていないんだそうです。

というのも、、、

なんと、役場が火事になっちゃったんですって。。

もうーーー、火を放ったやつ誰やねん( ;∀;)

ということで、その記録として残っていただろう会議の議事録は消失。。

ピアソン記念館で、私に色々と話を聞かせていただいたNPOピアソン会の方は、「『北見で臨時議会を開いて議決をして業者が撤退した』という話を聞いてはいるんですけどね~。」とおっしゃっていましたが、それはあくまで伝聞であり、それが資料という形で残っているわけではないみたいです。

記録として残ってるのはこれだけ

そんで、”北見の遊廓”に関して確認できる資料としては、先ほども書かせていただいた『婦人矯風会記録』だけ。。

ピアソン会の方は、遊廓の具体的なことを調べるために札幌の道の施設で婦人問題を扱ってる施設の図書コーナーにも行ったものの、そこにあった資料は結局『 婦人矯風会記録』を参考にしたもので、新たな発見は無かったんですって。。

とはいえ、この資料に書かれている署名は、実際に署名者が書いたものではなく署名を書き写したと思われており、尻切れトンボの状態で終わっているため「もしかしたら二冊目も残っているかもしれないんですよね!」とピアソン会の方は語っていました。

教会に二冊目が残っているかもしれないし、後はどこかに別の資料が残っていないか、NPOピアソン会では今もそれらの資料を捜索中とのことです。

薄荷景気により花街は栄えた

遊廓は設置されなかったものの、北見には料亭があり芸者もいて、花街としては栄えたようです。

これが結構参考になりました

そんな北見の花街については、先ほどの『薄荷物語』にもそれなりに記載されていました。この書籍、あとはNPOピアソン会の方、さらにはピアソン記念館にあった北見の昔の地図を参考にすると、多少なりとも北見の花街について理解が深められました。

駅の誕生で繁華街が移動

ハッカ景気と鉄道の開通で急激に人口が増加したのは大正元年頃であり、北見に初めて銀行が出来たのが1913(大正2)年でした。花街が栄えたのもこの頃なんでしょうね。

とはいえ、北見の花街の始まりは、市川亭という料亭の女将が生国の四国から鳴門芸者を呼び寄せたことが始まりとのこと。それが、明治39年。

花街は、始めは東地区という場所に「浮世小路」という通りがあり、そこから野付牛神社に至る通りにあったそうです。

1928(昭和3)年に調査された明細地図

ピアソン記念館には、北見駅前のいくらかの年代ごとの地図がありましてですね。それをよく見てみると、、、

駅が出来るまではここに花街があった
引用元:野付牛明細図(昭和4年発行)

おーありますね!

こちらは1928(昭和3)年に調査された地図なんですが、「四国屋」「三好屋」「酒井屋」などの屋号が確認できます。

「市川亭」の屋号は確認できないですけどね。。もうこの頃は廃業しちゃったのかしら。。

新たな花街が駅近くに誕生
引用元:野付牛明細図(昭和4年発行)

最初はここに花街があったわけですが、野付牛駅が出来たことで市街の中心部が駅の周辺に移っていきます。これは、東海道でも、宿場町だった場所が栄えていたものの、東海道線の駅が誕生したことで、街の中心が駅側に移っていったみたいな、よくあるパターンですね。

新たな花街に建ち並ぶ料亭
引用元:野付牛明細図(昭和4年発行)

そこで、新興の花街がこの場所に誕生することとなりました。

「梅乃家」「花月」「近江」などの屋号があれば、料理組合、あとは見番も見られますね。とはいえ、北見の花街の賑わいは戦後まで続くことはなく、今もこれらの場所に行っても、何の痕跡も残ってないという感じです。

最盛期には東と西あわせて40軒ほどの料亭があり、さらには一杯飲み屋が何十軒とあった北見。その中でも、特に「梅乃家」という料亭はかなり豪勢な造りで格式ある料亭だったみたいですよ!

道東一の豪勢な料亭「梅乃家」

野付牛の数ある料亭の中でも、梅の家は群を抜いて立派である。格が違うと言ってよいくらいで、他を全く寄せつけなかった。札幌の『いく代』、小樽の『開陽亭』と並ぶ道内三大料亭とさえ言われ、芸妓、酌婦を常時四、五十人も抱えていたほどである。

引用元:「薄荷物語」p90

『薄荷物語』にもこう書かれているように、梅乃家は敷居を跨げるものは地元でもほんの一握りらしく、それだけ格式の高い料亭だったように、得意客は役人と一部の商人、あとはハッカ成金など。

北見に金の雨を降らせた薄荷

これらの料亭が栄えたのは、金を持った方々が芸者遊びをしたくてというのもあったでしょうが、あとは取引会場と化していたからでした。北見の薄荷は、関東大震災後の頃から、現金取引は一部だけで、大部分は先物取引によって売買されていました。

このため、野付牛と遠野の二ヶ所で薄荷仲買人が月に数回会合を開き、『席上売買』と称して、空券売買が盛んに行われました。これらの取引が料亭で行われていたというわけですね。

梅乃家の名は、北海道のみならず東京にまでその名が知られていたようで、一度は梅乃家の座敷で働きたいと集まってきた芸者もいたほど。

とはいえ、北見に流れてくる女性は岩手、盛岡、津軽、秋田などの東北出身者でした。借金のために身を売らなければならなく、ハッカ商人との愛憎の日々に疲れて常呂川に身を投じたなど、こうした話は多々あったようです。

魅惑的な花街の毒気に当てられ、集金した会社の金をごまかしたり、事務所の金庫の金に手をつけて首になったなどの話は頻繁であった。薄荷農家の若者が家の金を持ち出して遊び呆けた挙句、惚れた芸妓に振られ、最後にはクレゾールをあおって自殺をしたという話もある。

引用元:「薄荷物語」p113

『薄荷物語』にも上記の記述があるように、北見にも悲しい物語は多々あったみたいですね。

しかし、普段以上の金額を突如手にするとろくなことが無いっすね。。以前勝浦で出会ったおっちゃんから聞いた話では、千葉県の五井の漁師が埋め立てによる補償金を受け取ったあと、千葉の栄町のト○コ風呂でめっちゃ散財しちゃったって聞きましたが、ちゃんとした経済力がないとそうなってしまいますね。

宝くじで億単位の金が入っても、女遊びや変に投資とかに突っ込んで・・みたいなね。。

しかし、この梅乃家、どんな建物だったんでしょうね。。地元の図書館とかに行けば写真残ってたりするんでしょうか。。建物が豪勢だったというだけに大変気になるところですわ。。

でもでも、これらの痕跡が街中に一切ないというわけではなく、かろうじて地元の神社に残っていたりするんですね。

それが、駅前にある北見稲荷神社っす。ピアソン記念館を訪問した際に、スタッフの方から「あそこの神社にですね、芸妓の名が刻まれた灯籠が残っていますよ!」と教えていただき、その後に訪問してみました!

雪だらけの北見稲荷神社

ということで、記念館からすぐの場所にあったということでやってきたわけですが、ここもすげぇ雪ですわ。。かろうじて、本殿までの道は通れるようになってますけども。。

本殿の両脇に立つ二つの灯籠

そんでこちらが本殿になるんですけど、本殿の両脇に灯籠がそれぞれあるのにお気づきでしょうか??

どうやらこれが花街から寄進されたもののようです。ちょっと覗いてみましょう。

梅谷豊三郎が寄進した灯籠

と言っても、雪が積もっていたため刻まれた文字が見えるよう少し雪をどかさせていただきまして、、、ん〜文字があるのはわかるんですが読みづらいっすな。。

この灯籠を寄進した梅谷豊三郎こそが、梅乃家を開業した人物でした。右側に「梅谷豊三郎」の名が刻まれてるんですが、見づらいし欠けてるので赤枠で補足しています。。

元々は芝居小屋を開いていた梅谷ですが、明治43年にその小屋を閉じたあとに料亭を開業。初めは一般大衆相手の安料理屋だったが、大正10年に当時で10万円という途方もない額をかけて完成させたそうです。

この碑には、梅谷豊三郎以外にも芸妓の名が刻まれいるんですが、ちょっとわかりづらいっすね。。

こちらにも料亭の屋号が見られる

花街関連の灯籠は二つ見受けられて、こちらには「花月亭」「一喜亭」「大正亭」が見られますが、他はわからんです。。

ということで、恐らくは北見に花街があった痕跡として、街中で見られるものは、おそらくですがこれらだけだと思われます。

おわりに

はい、以上になります!

今もNPOピアソン会では、北見の遊廓に関する資料を捜索中とのことですが、何かしら発見があるといいですけどね。。北見の遊廓に限らず、空襲とかで火事になって焼失した資料は本当に山のようにあるわけですが、しかし役場の火事って、誰の仕業だったんですかね・・。

最近は博物館に注力して遊廓に関してはほとんど手が付けられていないですが、私も図書館とか行って時間あったら捜索してみようかしら。国会図書館には北見の遊廓について書かれた資料とかは全くないんですかね。。あとは北見の地元新聞とかか。。そうなるとかなりの体力勝負にはなるが。。

という感じで、二つの記事にわたりピアソン記念館について紹介しました。

ではでは、また次の記事でお会いしましょ~

参考文献

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詳細・地図

住所 北海道北見市幸町7丁目4−28
入館料 無料
開館時間 09:30〜16:30
休館日 毎週月曜日・国民の祝日の翌日( 金・土曜日が祝日にあたる場合は当日及び翌日も通常どおり開館します)
年末年始( 12 月30 日〜 1 月6 日)
駐車場 無料
電話番号 0157-23-2546
アクセス JR北見駅から徒歩15分
リンク http://www.npo-pierson.org/

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