神奈川にあった知られざる「吉野遊廓」の歴史とは!?

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こんちわっす!

日本中の知られざる場所を発掘・取材してブログにしている『知の冒険』。メインのテーマは博物館にはなるわけですが、今回は久々の遊廓跡です!

遊廓や花街というジャンルは博物館の本の出版などもあって最近は触れることが無かったんですが、神奈川県民としてずっと気にはなっていた吉野遊廓に関しては少しづつ調査をしていて、今回ようやく記事にできそうなレベルになったので書いてみようと思った次第っす!

それは、相模湖の近くにあった吉野遊廓なんですが、これがほとんど知られてないようですし、ネットで検索してみても誰も調査をしていないみたいでして。。

ということで、私なりにできる限りまとめてみたので、以下で紹介していきますね~~

本記事のポイント

・往来するための橋の維持費を賄うことがキッカケだった!?
・明治の大火で焼失するも、一角に集められ再復活
・丘の上には、投込寺に彼女たちのお墓が残っている

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謎だった吉野遊廓を解明へ!

ということで、今回は神奈川県にあった吉野遊廓に関しての記事になります。

私は神奈川県に住んでいるということもあって、県内の遊廓跡はほぼ全部行き尽くしてはいるんですよ。花街、私娼窟あたりも、全部とはいえないものの結構な数は行ってまして!

引用元:『神奈川県統計書(大正二年)』

上の資料は神奈川県統計書(大正二年)に記載されている遊廓所在地。この頃、神奈川県には13か所遊廓だった場所がありました。

統計書では警察の管轄別で列挙されており、上の表で吉野遊廓に該当するのは中野署っす。貸座敷(妓楼)は三軒、そしてそこで働いていた女性である娼妓11人と記載されています。他の大正から昭和初期の統計書を見ると、貸座敷は三軒のままですが、娼妓は10~20人ほどですね。

神奈川の遊廓において、東海道の川崎、藤沢、平塚、小田原、さらには横須賀、浦賀、三崎についても記事にしてそれなりにコンプリートしつつあるわけですが、ただ唯一、謎だったのが、今回調査した吉野遊廓だったわけです。

※この他にも、県内の遊廓はたくさん記事にしてるのでブログ漁ってみてくださいね(*´▽`*)

吉野遊廓があった場所は、今でいう相模湖の西側付近だったわけですが、妓楼の屋号だったり、あとはその吉野遊廓に関する資料も、県立図書館で調べる限りはゼロではないもののブログにするには不十分な状態が続いていたわけです。。

藤野中央公民館 図書室へと寄ってみた

そこでとある日、山梨県に用事があった帰りに相模湖を通るということで、ちょっと現地の公民館に寄ってみました。吉野遊廓というコアな遊廓となると、もう地元の図書館の郷土資料とかじゃないと発掘できないかな〜と思いましてね!

そんで、ここで多少の資料を発掘はできたものの、さらにさらに図書室のおばちゃんがめちゃくちゃ精力的に動いてくれましてですね!!

もしかしたら「××図書館の方が資料があると思うのでちょっと電話して聞いてみましょうか?」「××さんって方がこの辺の歴史を調べてたんですよね。電話番号知ってるんでちょっと聞いてみましょうか?」という感じで、もうありがたすぎるほどの行動力を発揮してくれたわけです( ̄▽ ̄)

そのかいもあり、記事にできそうなくらいまで情報が集まったので、今回記事にしたという感じになります!

では、まずは相模湖畔にあった吉野宿という宿場町についてから、簡単に紹介っすることにしますね!

養蚕や木材が収入源だった吉野宿

吉野宿は、相模国風土気稿によると「與志乃志久(よしのじく)」と書かれており、元禄の頃には「吉野村」と書かれたそうです。甲州街道には内藤新宿から下諏訪まで、43~45ほどの宿場町があり、吉野宿は16番目の宿駅で、今でいう新宿と甲府の中間あたりに位置する場所です。

それだけのたくさんの宿場がありながらも、吉野宿は有数の盛大な宿場町であったと考えられ、本陣を宿場の中心の位置として東西にあらゆる業種が軒を連ねて盛業を営み繁盛していました。

吉野宿の場所

地図にプロットするとこんな感じです。

相模湖畔にあった吉野宿が、新宿と甲府の真ん中くらいにあることが分かるかと思います!

かつて巨大な本陣があった跡地

吉野宿は本陣・脇本陣が大名、諸重役衆の宿泊や休憩所として利用されるだけでなく、旅人が宿泊するための旅館が六軒あり、経営が堅実だったことから行儀見習いの娘たちが勤めに来たほどだったそうです。

甲州街道の中でも栄えていたということで、宿泊所や遊廓、さらには蕎麦屋や寿司屋などの飲食店、雑貨商、衣料関係、建築関係、輸送・通信関係など多くのお店がありました。

さらには、遊廓が存在する関係から、身だしなみを整えるために床屋が二軒、髪結師が二軒営業して遊女の整髪にはげみ、旅人の疲れを癒すための按摩を業とする者もいたそうです。

吉野宿の歴史を伝える施設『吉野宿 ふじや』

そんな吉野宿の歴史を語り継いでいる施設が、こちらの「吉野宿 ふじや」です。

かつて旅籠だった建物が今でも現存しており、吉野周辺で使用されていた民具などが展示され、無料で鑑賞することが出来ます。

この地域で使われていた養蚕の用具

相模湖付近は地理的条件に恵まれない山間の場所でした。そのため、現金収入の方法は養蚕と炭焼きでした。山腹の傾斜地を桑畑にして蚕を育て、そして繭(まゆ)を生産してきたのです。

平地が少ないため、田畑が出来にくかったんですね。

その繭は旧津久井町の中野、さらには市が開かれていた山梨県の上野原などに売られ、川和織、甲斐絹として愛用されていたのです。

さらに、この辺で炭焼きされた黒炭は、高瀬舟という舟に載せて相模湾を下り、河口にある平塚の須賀、さらには茅ヶ崎の柳島へと送られていました。

橋を維持するために遊女を置いた!?

そんな吉野宿に遊女の歴史が刻まれたのは、記録上は1865(慶應元)年だったようです。

そのキッカケは、橋でした!

日本三大奇橋の一つ「猿橋」

お隣の山梨県には、日本三大奇橋の一つとされる「猿橋」という橋があるのをご存知でしょうか??

釘を一切使わずに架けられた珍しい橋なんですが、吉野宿にはこれと大変似た「小猿橋」という橋が架かっていたのです。

小猿橋、板橋にて、その地形結構、甲州郡内領、猿橋駅の猿橋にほとんど相似たるを以って名づくるものなるべし。

引用元:『相模風土記』

「吉野宿 ふじや」には、吉野宿の様子を復元した模型があり、小猿橋も再現されてたんですが、コレです!

この橋こそが、吉野宿に飯盛女が置かれ遊廓が誕生する一つのキッカケになったキーポイントになるのです!

この橋、今では吉野橋というなんの変哲もない橋が架かっている付近にありました。ただ、小猿橋は雨風などでたびたび疲弊するため、とにかく維持費がめっちゃかかったそうなんです。

そこで、この橋を維持するための維持費をどうやって捻出するかとなったときに、「旅籠に飯盛女を置き、そのハネ銭で賄おう!」ということになったんですって。

そんな内容が、『ふじ乃町の民俗文化財 第2集』という資料に記載されていました。ちょっと内容を抜粋してみましょう!

吉野氏所有の文章によると

当地区往還にかかる小猿橋の架替修理は官架を下にして自営仕度旨出願し修理が行われこの経費につきては飯盛女等抱えたる旅籠屋等よりの利潤を徴収し之に充当したのである。しかし経費が非常に必要であり、安政二年の架替、文久二年の板替の金百七拾五両を要す。

また経費の捻出法について

小猿橋ひへいしたので修理の金を出す為十二軒の旅館に飯盛女二人づつ増してもらいたいこの願を必ず守るので請証文を差上げる。

引用元:『ふじ乃町の民俗文化財 第2集』

ということで、橋の維持費を捻出するために飯盛女を置いたわけですが、これはそう簡単な話ではなかったようで、何度も江戸幕府に出願してようやく設置が許可された背景があったようです。

また、別の資料である『ふじの町史 研究誌 第3号 1993年3月』には、以下のような記述がありました。

吉野宿の場合は川に橋をかけるために(ということを名目に)飯盛旅籠の設置を願い出た。出願は1862(文久2)年以来四度に及んだ。

引用元:『ふじの町史 研究誌 第3号 1993年3月』

つ、ま、りは、、

小猿橋という往来に欠かせない橋の建設工事費が結構かかってヤバい → このネタをダシにして旅籠に飯盛女を置けば、橋の工事費を賄えるだけでなく宿場の維持繁栄にもなる!

東海道でも、私が調べた限りは川崎宿や藤沢宿、小田原宿でも宿場の維持のために飯盛女を置かせてもらうよう出願しており、宿場を維持するためにこうした商売は欠かすことが厳しい宿場があったことがわかります。

ということで、吉野宿では1862(文久2)年以来四度も出願を繰り返し、1865(慶應元)年にようやく飯盛女の設置が許可されたとのことです。

そんな小猿橋があった付近にはこんな石碑や解説板が置かれておりまして、、

貸座敷や飯盛女の方々によって、橋の工事を行った旨が書かれています。

ということで、小猿橋の維持は遊女の存在に頼り続けたという歴史があったようですよ!

街道沿いに六軒の妓楼があった

吉野宿略図
引用元:『ふじ乃町史 研究誌 第3号 1993年3月』

では、その吉野宿はどんな感じだったかというと、『ふじ乃町の民俗文化財 第2集』という資料に載っていた吉野宿略図を見ればなんとなくわかるかと思います。明確にいつの頃のかは書かれていませんでしたが、恐らくは明治初年頃のものかと。。

ちょっと見づらいので本陣あたりを拡大してみると・・

吉野宿略図
引用元:『ふじ乃町史 研究誌 第3号 1993年3月』

甲州街道沿いに、源楼、福本楼、栃木楼、中屋の妓楼があることが分かりますね。この当時は全部で六軒あったようで、屋号としては、紅葉楼、福本楼、源楼、中屋、栃木楼、鮎川楼でした。

街道筋にあった吉野遊廓
参考:『ふじ乃町の民俗文化財 第2集』

六軒の妓楼があったおおよその場所を今の地図に当てはめるとこんな感じです。この六軒の妓楼に関しては、何の名残りもないので地図で示したところでなにになるわけでもないっすけどね。。( ;∀;)

とはいえ、地図だけじゃなくて当時の写真もあれば見たいところ。

明治の頃の吉野宿

そこで出て来るのが、こちらの写真!

こちらは、先ほど紹介した「吉野宿 ふじや」で見ることもできますし、あとは吉野宿関連の資料とかを漁るとよく出てくると思います。こんな感じだったわけですが、よく見ると妓楼である福本楼が写ってる気がするんですよね。

今と昔を見比べて推測してみました

上の写真の左側に写ってる旅館の文字を拡大して頑張って見てみると、「大房旅館」と書いてる気がするんです。

その隣にある建物は三階建てのようですし、カーブしている様子からも赤枠で囲った建物は福本楼に思えるんですよね。今回の調査では、吉野遊廓の妓楼の写真は一枚も見つけられなかったんですが、これが福本楼だったらちょっと嬉しいというね( ̄▽ ̄)

明治29年の大火で焼失した五階建ての本陣

ちなみに、吉野宿について調べるとよく出てくる写真がこちら。

やたらとデカい建物ですが、この木造五階建てのバカデカイ建物は、吉野宿の本陣でした。いや~~もうこんなの目の前に現れたら失禁しちゃいますよ。。でも、この本人は残念ながら明治29年の大火で焼失してしまったんですって。。

大火がきっかけで川沿いに新地爆誕!

ということで、吉野宿には甲州街道沿いに六軒の妓楼が点在してたわけです。

と、こ、ろ、が、、、

残念なことに、これらの建物は1896(明治29)年の火事によって、ものの見事に焼失してしまうのです。。

とはいえ、それで吉野宿の遊廓はどうなったのかというと、消滅せず別の場所で営業を再開することになりました!

街道筋にあった吉野遊廓
参考:『ふじ乃町の民俗文化財 第2集』

またまた先程の地図を使わせていただくわけですが、その新たな場所とは、上の地図で示した新地です。メインの甲州街道から少しだけ離れた桂川沿いにその一角を設けて営業再開となりました。

この新地の場所、いろんな資料を見ても「明治29年の大火で焼失した後は、桂川沿いで再び営業を再開した」的な内容が書かれたものはいくつかあったものの、具体的な場所を示すものは見つけられなかったんですよね。。

でも、『ふじ乃町の民俗文化財 第2集』を見てみると、、、

「後の新地位置」の文字が見える
引用元:『ふじ乃町の民俗文化財 第2集』

こうして新地の場所を示してくれてます。これで大体の場所はわかるんですが、もっと決定的な資料もありましてですね。

引用元:『ふじ乃町の地名 附屋号』

それが、『ふじ乃町の地名 附屋号』という資料。こちらにも「シンチ」と、上の地図で示した通りの場所にシンチがあったことを示してくれてますよね。まぁこれで新地の場所は、先ほど私がピンク色で示した場所で間違いないだろうという結論に至ったわけっす!

遊廓って風紀上の問題などで、町中にあったものが外れに集められてみたいな流れは日本中いろんな場所で発生していたわけですが、今回の吉野遊廓のように、大火をキッカケに新たな場所に遊廓の一角を作るみたいなケースもありました(具体的な場所は、パッと思い出せませんが・・)。

そして、大火の後に誕生した遊廓には三軒の妓楼(柴田楼、中島楼、常盤楼)があり、戦後には赤線となって、売春防止法により1958年にその歴史に終止符が打たれたようです。

交通の発達するにつれ、東京からの遊客もみえ、明治、大正から昭和初期にかけては大変繁盛したみたいですよ。

今はその痕跡は残ってないようだ

そんな吉野遊廓があった場所に行っては見ましたが、痕跡は何も残ってませんでした。

「吉野宿 ふじや」の方に話を聞いてみると、「三軒のどれかは、確か下宿のための宿にしてたんじゃなかったっけな~」「柴田楼が一番最後まで残ってた気がするんだよね。見たときは、えらいデカい建物があったな~って記憶がかすかにあるよ!」という声は聞きました。

売春防止法の後、遊廓にあった建物は、旅館や下宿のための宿、あとは病院に転業するなどいろんなケースがありましたが、吉野の場合は旅館街などにはならず、そう時間が経たないうちに取り壊されてしまったんでしょうか。。

ということで、どこに何という妓楼があったのかという話についてはここまでなのですが、この記事はまだまだ続きます。

というのも、「吉野宿 ふじや」を訪問した時、スタッフの方がこんなことをおっしゃってくれたんです。

「この先の坂を上った場所にですね、観福寺というお寺があるんですよ。そこでね、遊廓で働いていた女性たちのお墓があるみたいですよ!」

丘の上にある投込寺

そんな話を聞いた私は、早速ポンコツ軽自動車で坂道を駆け上がり、吉野遊廓で働いていた女性たちが眠るという観福寺へと向かうことにしました!

ほい、到着!

国道20号線から旧坂を上り10分足らずで着きました。ここは旧甲州街道沿いということもあり、昔は多くの参拝客が訪れたんじゃないですかね。

訪問し、早速寺務所を訪ねてみると、住職さんは手が離せない用事があるとのことで住職の娘さんが応対してくれました。いきなり若い変な奴が訪問して来てビックリしたと思いますが、事情を説明すると、すぐに納得してくれました。

「あ~そうですね。私も詳しい背景はあまりよくわかっていませんが、このお寺は投込寺だったようで、遊廓で働いていた女性たちのお墓もあります。案内しますね。」

吉野遊廓で働いていた遊女のお墓

そして案内していただいたこちらに、遊女の方々のお墓が集められているとのことです。

とはいえ、ここにまとめられているお墓の全てが遊廓の女性たちの物というわけではないようです。

何て書いてるかほぼわからんかった・・

家紋があったり、あとは「先祖代々・・」と刻まれているものは違うとわかるみたいですが、他のものは掘られている文字を解読しないと、女性たちの物なのかようわからんとのことです。

まぁ100年以上も前のお墓ですからね。。文字かすれちゃいますわな。。でも、こうして遊郭で働いていた女性たちの生きた証がひっそりと残されている。それを自分の目で確かめただけでも、来てよかったと思った次第です。

とはいえ、吉野遊廓にまつわる場所は、この観福寺だけでなく他にもあったようです。

それは、稲荷神社!!

あっちあっち、稲荷神社があったんですよ

これまた、「吉野宿 ふじや」のスタッフの方が教えてくれたんですよね。遊廓や花街があった場所には、そうした場所で働く女性たちが手を合わせに行く神社があることが多く、東京の吉原や横浜の真金町ではそうした神社で酉の市を行うってのはよくあるケースだったりするんですよね。

川の向こうに神社があったそうな

スタッフの方が言うには、この桂川の向こうに女性たちが手を合わせに行っていた稲荷神社があったようです。

昔は橋が架かってなく、渡し船があったのでその船に乗って拝みに行ってたんですかね。

稲荷神社があったと思われる場所

今の地図で示すとこの辺になるのかな?

今では何の痕跡も残ってないみたいですが、吉野遊廓の付近にも神社あったんすね~。

ということで、飯盛女が設置される機会となった小猿橋から、いろんな遊廓に関する場所を紹介しましたが、私が調べた限りはとりあえずこんな感じです。

お相撲さんによって生まれた吉野甚句

遊廓があったということもあり、吉野には『吉野甚句』という唄が遊廓で唄われていたそうです。

江戸末期隣の関野宿より追手風喜太郎という相撲取りが出て江戸において大関に昇進したが、奉納相撲に帰郷の際など多くの輩下を従えており、これ等関取衆が遊興の際相撲甚句を唄いこれがもと歌となって吉野甚句が生れ廓等において盛に唄われ座興となった。

引用元:『ふじ乃町の民俗文化財 第2集 p6』

『甲州街道に吉野がなけりゃ 縞の財布が重たくなる』

『柴田立てれば常盤が立たず 両方立てれば身が立たず』

甚句にはこんな歌詞があるそうです。

『縞の財布が重たくなる』とは、遊廓があるから金使っちゃって財布が軽くなる。『柴田立てれば常盤が立たず』とは、大火の後に新地に建てられた柴田楼、常盤楼のことを指してるんでしょうね。

吉野甚句には三味線・太鼓等の伴奏が加わり盛んになっていきました。この地の吉野家周辺の地形を織り込んだものが多く、遊廓で唄われるので、中にはエロチックなものもある。吉野甚句に欠かせないものには「長唄」があり、これは芸妓が客を迎え席につかせる儀式で「オ座付」というそうです。

遊廓で使われていたであろう太鼓

そんな吉野甚句が唄われていたときに使われていたであろう太鼓が、「吉野宿 ふじや」に展示されています。

これも、吉野宿に遊廓があった数少ない名残りですね。

1947年に誕生した人造湖である相模湖

とはいえ、そんな吉野宿周辺も近代化による水の多目的利用から相模ダムの建設が始まることになりました。勝瀬部落が水没して相模湖が出現し、各所に橋を架け交通も一変。

この湖は、高度経済成長期へと突入し、多くの住宅が立ち並んだ神奈川県民の貴重な水源となりました。

今では登山客や水上ボートなどが楽しめる閑静な場所ではありますが、そんな場所にも、かつては遊廓があり、今でも多少なりともその痕跡を垣間見える。

そんな、知られざる吉野遊廓のお話でした。

おわりに

ここにかつて、宿場町があったのだ・・

以上になります!

今回調査した吉野遊廓、地元の図書室や観光施設の方々が色々教えてくれたことで、こうして記事にすることが出来ました。

とはいうものの、図書館のおばちゃんが紹介してくれた古老にまだ話を伺っていなかったりと、まだ掘ろうと思えば掘ることも可能なんですけどね。。とはいえ、他の博物館の調査もまだまだ膨大に残っているので、一旦調査はここでストップしようかと思います!

でも、何か吉野遊廓について知ってたり、資料や写真を万一お持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただけると幸いです<m(__)m>

ではでは、また次の記事でお会いしましょ~~

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県相模原市緑区吉野110
アクセス JR藤野駅から徒歩20分ほど

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