高速道路作ろうとしたら大量出土!釈迦堂遺跡が博物館に!

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うーーーっす!

日本中の知られざる場所を取材してブログにしている知の冒険。今回もまた博物館の記事を書くわけですが、それは山梨県笛吹市にある「釈迦堂遺跡博物館」。

私が行く博物館って、歴史的なテーマであれば明治時代~昭和のころの出来事を扱う場所が多いんですよね。私がその辺の時代に興味を持っているので。

でもでも、今回は一気に時代をすっ飛ばして縄文時代について知ろうと思ったわけです。ここね、マジで展示の仕方も綺麗で見ごたえある博物館なんですよ!!

ということで、以下でその博物館の魅力などを紹介したいと思います!

本記事のポイント

・中央自動車道建設前の発掘で、1,116点も出土した
・土偶や土器など見応えある出土品が大変綺麗に展示されて見やすい
・釈迦堂遺跡PAから、階段で直結されている便の良さ!

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釈迦堂遺跡の出土品1,116点が展示

今まで、知の冒険ではそれなりにいろんな場所を紹介してきましたが、今回もまた山梨県の博物館っす。今回紹介する釈迦堂遺跡博物館があるのは、甲府盆地の端っこにある、釈迦堂という場所。

地図で示すとココになります。中央自動車道のPAがあることもあり、甲信越方面の途中にあることから、通過したことがある方は多いかもしれないですが、立ち寄った方はあんまいないかもですね。

私が訪問したのは、2021年3月下旬。もう桜が咲き始め、周囲は桜の木だけでなく、桃の木もたくさんの花を咲かせていました。

そしてこの博物館、結構眺めがいい場所に建てられておりまして、、、

眼下には甲府盆地が広がる

ねっ、目の前にはこれだけ広大な甲府盆地が広がっているんですよ!

甲府って、まっ平らな盆地の周辺が山々に囲まれているってこともあって、ちょっと周囲の坂を上ると夜景が見える地形になってるんですよね。甘利山とかほったらかし温泉とか、あとは新日本三大夜景の一つである笛吹川フルーツ公園などなど、甲府盆地には夜景の名スポットがたくさんあるんですよ~。

ってまた余計な話になっちゃいましたが、とにかく景色がいい場所に釈迦堂遺跡博物館はあるわけです。

んで、目の前には中央自動車道の釈迦堂PAがあるんですが、、、

PAから歩いて訪問できるんだぜ

なんとこのPAにはこんな階段がありましてですね、PAに車を停めたまま、この階段を上って博物館に向かうことも出来るのですよ!!

何て、便利( ̄▽ ̄)

ではでは、早速館内に入って行くことにしましょう!!

受付を済ませ、二階にある常設展示室へとやって来た私。こちらが常設展示室なんですが、中に入ってみると、、

すんごくきれいな館内

おーーーーー。とっても綺麗な館内には、釈迦堂遺跡の出土品が美しく並べられております。

ここには1,116点もの出土品が展示されていて見ているわけでテンション上がってくるわけですが、ちょっと展示物の説明に行く前に、この博物館がどういった背景で誕生したのかという所から紹介できればと思います!

キッカケは高速道路建設

中央自動車道の建設がキッカケ

この博物館が誕生したきっかけとなったのは、東京から山梨県、長野県を結ぶ中央自動車道の建設でした。そうそう、宅地造成だったり高速道路を作るときってその前に発掘調査が行われるんですよ。

私が暮らす神奈川県でも、宅地造成の際の発掘調査で発見した遺物を展示してある「つる舞の里歴史資料館」とか、あとは圏央道建設の際に発掘したものを展示してある「海老名温故館」などなど、たぶんこういった道路や鉄道建設の際の発掘関連の博物館って、全国を探せば結構たくさんあるんじゃないっすかね~。

釈迦堂遺跡は、1980年2月8日から翌年11月15日まで、中央自動車道建設工事に先立って、延べ二万人が参加して発掘調査が行われました。その結果、旧石器時代、縄文時代、古墳時代、奈良時代、平安時代の住居や墓などの遺構、および多量の土器、石器などの遺物を発見!

特に、縄文時代の遺構・遺物は豊富で学術的価値も高く、調査中から全国的にも大変注目され、連日のように多数の見学者が訪れたみたいです。

発掘中の様子

一万年も続いた温暖で平和な縄文時代

と言う背景があってこの釈迦堂博物館は誕生したわけですが、そもそも、縄文時代とはどんな時代だったんでしょうか。ちょっとその点も、おさらいしておきたい!

館内に簡単な年表があった

縄文時代は、今から16,000年も昔の草創期に始まり、早期、前期、中期、後期、晩期と時代が区分されています。

一万年近くも続き、移動しながらの暮らしだった旧石器時代から竪穴式住居に暮らす定住生活に。食べ物は木の実、あとは狩りをして捕まえた動物などっすかね。次の弥生時代から稲作を始めるので、もちろんコメは食っていません。

動物も狩るだけで飼育をしていたわけではなく、貧富の差もこの時期は無かったようです。

日本列島は温暖で湿潤な気候となり、 人々の争いは(あまり?)無く、今の時代から比べると不便極まりない生活だとは思いますが、割と平和な時代と言われているようですね。しかしその反面、医療技術がないことから簡単に命さえ奪われてしまう厳しい自然に挑みながら暮らしていたかもしれません。

縄文時代は中期になると、山梨県・長野県にまたがる中部高地の一帯では遺跡数・遺物量がともに増大し、この一帯が日本の中心地域だったと考えられています。

土偶には妊婦の姿が多かった!?

ではでは、背景について簡単におさらいしたところで、早速展示物を見てみることにしましょう!

出土した190点もの土偶

しかし展示が綺麗。ここのケースには、顔が描かれた土偶がたっくさん展示されているのがわかりますでしょうか。

特に、釈迦堂遺跡は縄文時代中期を中心に重要文化財である1,116点を数える土偶をはじめ、30トンにも及ぶ土器や石器などが出土する中部高地の遺跡の中でも特徴的な遺跡です。

前期土偶はよくわからん形
(縄文前期)

縄文時代に作られた土偶。この時代は一万年も続いたわけですが、草創期と言われた16,000年~11,000年前の土偶を見てみると、顔や手足の表現はもはや無いに等しい感じ。

この時期の土偶は、乳房が強調された小さなものだったようです。

写真の左側のは何とな〜く人間の形をしている様にも見えますが、右側のやつは謎に四つも穴が開いていて、何だか宇宙人みたいっすな。。博物館の説明によると、この穴は顔の表現を表していると考えられているみたいっす。

これが初期の土偶。続いて、中期になるとまた変わってきます。

お腹をより意識しているようだ
(縄文中期)

「ん、これは何だ?」と思うかもしれないですが、それぞれのパーツを見ると、胸が大きくお腹が大きく表現されています。上の写真でも、その膨れている感じがなんとなくわかるかと思います。縄文人たちがお腹の子供を大切に、愛情を注いでいたと感じることができるわけですね。

ただ、時代が経つとともに土偶の形はリアリティを増していきます。さっきも書いたように、縄文前期(7,000~5,500年前)は人間とはわかりにくい形をしていましたが、縄文中期(5,500~4,500年前)にもなると、徐々にわかりやすい形になってくるのです。

ねっ、人っぽくなってきたっしょ!

これも顔ははっきりわかりますね

釈迦堂遺跡では190点もの土偶の顔が出土しているとのこと。この辺も中期のものですが、目、鼻、口、はだいたい分かりますよね。

耳に穴が開いているものが

そんだけたくさん土偶が出土しているわけですが、よ~~~く観察してみると、こうして耳に孔(あな)が空いているものがちょくちょく見られるんです。これ、博物館の解説によると耳飾りの孔(あな)だと考えられているとのこと。

今でも若者がイヤリングするために孔をあけてますけども、これって縄文時代からなの??

出土した耳飾り
(縄文中期)

その耳飾りには土製、石製、骨製のものなどがあるようですが、釈迦堂遺跡からは土製、石製が出土しています。このうち土製に栓状耳飾りと玦状耳飾りがあり、石製は玦状耳飾りに限られています。

栓状耳飾りと玦状耳飾りって言われてもどれがどれだかよくわからんと思いますが、、、

こうみたいです。

栓状耳飾りは円筒状のような形をしていますが、耳たぶに空けた孔にはめ込むように使用します。玦状耳飾りは円環の一部に切れ目が入った形をしており、切れ目から耳に空けた孔に通して、ぶら下げるように使用するとのこと。

土器の本体にくっついていた顔面把手
(縄文中期)

さらにさらに、縄文土器に表現された顔のモチーフの中で、代表的なものは把手の部分に顔面を表現する「顔面把手(がんめんとって)」があります。

多くの場合、顔は土器の内側を向いて、あたかも器の中の食物を見つめているかのような印象。土器の本体に接合しているものは大変少ないんだそうですぜ。

以上のように所説はたくさんあるものの、そもそもはるか何千年も昔の話。当然文献なんて残っているわけないというか、文字や記号がどう使われていたのかすら明らかになっていないわけです。

とはいえ、その姿が主に妊婦の姿をしていることから、女神像として、生まれてくる命の健やかな成長や豊穣を願ったという説が有力とのこと。

土偶を作った要因
1. 女神像(生殖・豊穣・繁栄を祈る女神)
2. 病気・傷害・災害の形代(身代わり)
3. 装飾品
4. 埋葬具
5. 子供のおもちゃ
6. 護符(まもりふだ)
7. 宗教的儀式の祭具

とはいえ、土偶を作ったのには以上のようなことが考えられているんですって。謎ではあるものの、そっちの方がいろんな考えが広まってロマンあって悪くもない気がする(*´▽`*)

縄文時代は何食ってたの?

発掘されたものあれこれ

しかし縄文時代ってどんな時代だったんでしょうね。

我々のはるか昔の先人たち、縄文時代は温暖な気候だったということですが、昔の時代は気候変動が生死に直結していました。温暖な時代は作物を作ることができたものの、寒冷な時代になると不作になることから、食べ物を奪い合う争いが起こっています。

縄文時代、あの金八先生でおなじみの武田鉄矢さんもこの時代に大変注目していてラジオでもその魅力を語っていました。縄文時代は凄い文化だって言ってて私も引き込まれましたよ(*´▽`*)

とはいえ、化学も何も全く知恵がない時代。地震などの災害は、マジでよからぬ超常現象みたいに思われていたかもしれないですし。今みたいに嫌な上司に理不尽に怒られまくって鬱で自殺するみたいなことはないでしょうが、体調を崩したり怪我をしても医療技術がなかったため、それは大変だったでしょうね。

一日のルーティーンはどんな感じだったんでしょうか。。

とかとか、いろんな疑問が湧いてくるわけですが、特に気になるものが食い物。

今みたいにラーメンもなければカレーもない、、。コンビニなどの店もないから全部自分たちで調達しなくてはいけない。

主食は木の実

縄文時代は自然と密接に関わり、また自然に左右される生活でした。春から夏にかけては現在でいう山菜=植物の芽や茎、秋にはドングリやクルミなどの木の実、根茎の採取、冬には狩猟を主な生業としていました。

まぁ、なんせ縄文時代はコメが無い時代。。

コメが無いというのはマジでキッツイっすよね。。彼らはいろんな木の実を食べていたものの、栄養分が白米に近いトチ、クヌギ、カシ、ナラの実を主食としていました。

クリはカロリーが少なく、クルミは脂質が多すぎるんですって。

そんで、釈迦堂遺跡ではクルミ、ドングリなどの炭化した堅果類(けんかるい)およびイノシシ、シカなどの動物の骨が出土しています。また、近年の研究では栽培植物の発見が報告されています。

なので、木の実や狩猟で捕まえた動物、あとは魚や貝などなど。

これらから釈迦堂遺跡に暮らした縄文人の食生活の一端をうかがい知ることができます。

土器に込められた縄文人の想い

土偶や食い物について説明してきたわけですが、最後に紹介するのが土器っすね!

神秘的な雰囲気で展示されている土器

博物館って展示するにしても、こういう展示方法も凄く大事というかお客さんに与える印象が変わってくるわけですよ。少し館内の灯りを薄暗くして、展示物に光を当てる。

結構いろんな場所で見られる展示手法ですが、こうした方がより展示物が際立って、さらにはちょっと神秘的にも見られます。

綺麗っすね〜〜
こんな感じで土器を作ってたのだろうか

この縄文土器という名称は、縄目の文様がついていることに由来します。

あの大森貝塚を発見したことで有名なエドワード・S・モース博士が「Cord marked pottery(縄目をつけられた土器)」と、貝塚の報告書に記載したことが元となっているようですよ。

土器を作った目的としては、食料や水の貯蔵、さらには食物の煮炊きなど様々でした。

本来、煮炊きの道具として使っていた土器は、縄文時代中期の約5,500年前からは煮炊きには不向きだと考えられるほどに、過剰な装飾が施されるものが現れ、同じことに土偶なども含めて彼らの祈りが込められていたと考えられるものが作り出されます。

粘土が溶けることで硬く固まることで作られるこの縄文土器は、まさに世界最古の土器なわけです。

縄文時代の土器には、ヘビやイノシシなどの動物の文様が抽象的に表現されることが多く見られます。上の写真でも、土器の縁の辺りがやたらとボコボコしているかと思いますが、これらがそれっすね!

縄文人は身の回りの動物たちを単純に土器の装飾に用いたのではなく、そこに霊的なものを感じ取って、抽象化した動物たちを表現しています。

ただ入れ物を作るだけでなく、我々のはるか先人たちはこうしたメッセージを我々に残してくれているんですね。

フクロウとヘビを現わしている

言われないとわかんないと思いますが、上部の鼻のような形をした部分はフクロウでありこれは女性を象徴、その下には、渦を巻いているような模様が刻まれていますが、こちらはヘビで男性を現わしているとのことです。

ここにもヘビが見える

アイヌ関連の品にもこうした渦巻の文様が見られるんですよね。昔の先人はなにかこうした渦巻の文様インスピレーションを受けるのでしょうか。

何はともあれ、展示してある縄文土器を見るとこうした文様が刻まれているのがわかります。そう思ってみると、こうした土器を見る楽しみも増えますね!

他の地域とも交流があったようだ

釈迦堂遺跡から出土したこれらの土器は、すべてこの場所で作られたわけではないようなんです。よ~く土器を見てみると、上の地図のように東北や近畿地方のものも見つかっているそうです。

そのため、縄文時代というはるか昔でも、他の地方と何かしらの交流があったと考えられます。

この時代、縄文人たちはこの陸地がどこまでつながっているのか、、さらには山梨県にいたのであれば、海の存在を知っていたんでしょうか。。空に見える太陽や月の存在を彼らはどう考えていたのだろうか、この大地はどこまでも続いてたと思ってたんでしょうか。。

そうやって考えてみると、はるか昔の先人たちのことが気になってしょうがなくなるんですよね~~。

おわりに

桃の花が綺麗だった

最後に、博物館の脇にある桃農園で桃の木が花を咲かせていたため、ちょっと見とれていました。山梨県は桃の生産が日本一ですが、そのほとんどが、この地域周辺(一宮市周辺)で作られてます。

なので、この博物館に来るのはこうした桃の花が咲く時期や、桃の収穫時期である夏の時期がいいかもしれないっすね!

しかし、縄文時代についてこれだけ考えたことは今までの人生で無かったかもしれないっす。はるか昔すぎて、何か我々には関係のないような、バーチャルなように感じていたんですが、こうやって実物を見て色々考えてみると、それが実際にあった出来事で、我々に全く無関係ではないってことがよりリアルに感じれたような気がします。

日本中には遺跡関連の博物館・資料館はめちゃくちゃたくさんあるので、

参考文献

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詳細・地図

住所 山梨県笛吹市一宮町千米寺764
入館料 一般・大学生:400円
小中高生:200円
開館時間 09:00~17:00
(入館は16:30まで)
休館日 火曜日と祝日の翌日、年末年始
駐車場 無料
電話番号 0553-47-3333
アクセス 勝沼ぶどう郷駅を下車。甲州市民バスで「釈迦堂入口」下車、徒歩15分
中央自動車道 釈迦堂PA 専用階段にて徒歩2分
リンク http://www.eps4.comlink.ne.jp/~shakado/

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