薄荷バブルに沸いた北見の歴史を「北見ハッカ記念館」で学んだ!

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こんちわっす!

今回は、久々に北海道ある博物館に関する記事になります。

北海道というと、海の生き物、さらには流氷に関する博物館だったり、あとはアイヌ民族に関するものも多いっすね。アイヌに関する博物館は探すと本当に北海道のいろんな地域に見られるようです。

でも、今回紹介する博物館はそれらには該当しない”薄荷(ハッカ)”に関する博物館です。道内の東側に位置する北見市では、かつて薄荷栽培において世界の70%ものシェアを誇っていたんですって!

ということで、なぜ北見でそのような薄荷栽培が行われていたのかという歴史も含めて、北見ハッカ記念館を紹介したいと思います( ̄▽ ̄)

本記事のポイント

・北見市は、かつて薄荷栽培の世界シェア70%を占めていた
・薄荷は金になったため、当時は北見市も大変潤った
・現在は、事務所兼研究所だった建物を用いた記念館がある

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北国に佇む洋風建築

はい、ということで今回は北海道北見市にある「北見ハッカ記念館」に関する記事になります。いや〜今回は2021年8月17日に出版する博物館の本の取材で北海道にやってきたわけですが、北海道への訪問はこれで四回目。

羽田や成田からは飛行機使えば2時間とかからないので、アクセス面を考えれば近いっちゃ近いんですけど、神奈川県に住んでると、そうそう来ることはない北海道。

北見市は北海道の東側に位置してることもあり、札幌からはかなり遠く、有名な場所でいえば網走とか知床に近いっすね。現在はタマネギを生産しまくっていることで知られており、それゆえ北海道のタマネギ生産は都道府県一位となっています。

淡路島もタマネギで有名だったりしますが、兵庫県は三位なんですね。。まぁ淡路島は面積がそんなにないからかもしれませんが。。

すげ~雪ですわ・・

そんな北見に佇んでいるのが、こちらの「北見ハッカ記念館」。

私が訪れたのは2021年3月の一週目。この時期は、そこまで大雪になることはあんまりないみたいなんですが、ココに訪問する数日前に大雪が降ってしまい、私はその雪国の洗礼を受けたというわけです。。

昭和初期に建てられた旧事務所の建物

とにかく雪が積もりまくってて寒い中の訪問になったわけですが、記念館となっているのはこちらの洋風感満載の建物っす。

北見ハッカ記念館は、1934(昭和9)年に設置されたホクレン北見薄荷工場の事務所兼研究室だった建物を改修し、1986年に開館。現在は北見市が管理、運営を行っており、かつての工場で使われていた機器類などが展示されています。

ではでは、早速館内に入ってみることにしましょ~~

おお~、昭和の初めに建てられたこともあり、木造でとっても時代を感じる造りとなっていました(*´▽`*)

ではでは、まずは館内の展示物から簡単に紹介することにしますね!!

北見における薄荷の歴史が詰まってる

工場で使われていた様々な機器類

館内は二階建てになっていて、一階にはかつて工場で使われていた機器類などが展示されています。

あとで、栽培した薄荷から製品に用いられる薄荷油と薄荷脳(針状の結晶)を取り出す旨については説明しようと思いますが、ココに展示してあるものは、その過程で用いられる蒸留器などですね。

その辺の工程を理解してからここを見るとある程度頭に入りやすいかもしれないですが、いきなりここを見ても、「ふ~~~ん」って感じで終わってしまう気がします。。( ;∀;)

薄荷が吊るしてあった

なんで天井に吊るしてあるのかはわかりませんが、こちらは乾燥した薄荷。収穫したあとは、こうして乾燥させたあと、蒸留させて油や結晶を取るという流れ。

蒸留する際には、こちらの蒸留桶や冷却器が用いられます。

部屋の入り口にあった表札かな

こちらの表札は、字体に時代を感じますね。

油と祖脳を分ける遠心分離機

収穫した薄荷を乾燥させたあとは、蒸留によって取卸油をとりだします。その取卸油を冷却すると針状の結晶である薄荷脳が油の中に現れ、その薄荷脳と残りの油である薄荷油に分けられ、その二つが様々な製品に取り入れられます。

そんで、取卸油を冷却した際に現れる結晶の純度を高めるために、結晶から油を分離するのが、この遠心分離機とのこと。といっても、文章だけだとなかなかわかりずらいっすよね。。

んで、こちらにあるのが薄荷から取り出した取卸油っす。

こちらのデッカイ装置は「はっか取卸油脳分検定架台」という名称のようです。すげぇ数の試験管があり、油が入ってますね。「脳分検定架台」ということで、各々の油にどの程度結晶になりえる成分が入っているかを確かめてるんですかね~~。

理科の実験室みたいだ

拡大するとこんな感じ。

これに詰めて出荷するんかな?
背景を詳しくまとめてある映像

という感じで、展示物にあわせてちょっと薄荷について説明させていただきましたが、以上のような薄荷の生成方法だったり、あとは「なんで北見で薄荷栽培が行われていたの?」という点においては、館内にある映像にもまとまっています!

こちらの映像を見れば、この記念館の大まかな背景がわかるかと思いますよ!

ではでは、館内の機器類を簡単に紹介したところで、そもそもなぜ北見で薄荷の栽培が行われていたのかという点を説明することにしますね。

なぜ、北見で薄荷が栽培されてたの?

では、ちょっとここで北見における薄荷栽培の歴史について学んでみることにしましょう!!

畑一面に広がる薄荷
引用元:https://hakka.be/company/scene/2018/

日本でハッカが本格的に栽培されるようになったのは19世紀になってからであり、北見地方でハッカが栽培され始めたのは、明治29年の頃からでした。元々は開拓農家の副業から始まったそうです。

そして北見で薄荷栽培が栄えたのは、気候条件が薄荷栽培に適していたからでした。

夏期は気温が高くて雨が少なく、そして収穫時には乾燥した気候である北見市。さらには土壌も他の場所に比べて養分が豊富なんですって。

薄荷栽培に適した環境
1. 夏季は気温が高く雨が少ない
2. 収穫時の秋は乾燥した気候であること
3. ほかの場所に比べて、土壌の養分が豊富

1904年には日露戦争が勃発し、男性は出兵させられ、残された女性たちが薄荷栽培に勤しみました。そのため、戦争中でも栽培面積を拡大し続け、北見を支える産業へと発展していったのです。

そしてこの薄荷は、マジで金になる植物でした!!

薄荷は軽くて輸送効率も抜群

他の農作物に比べて取引価格が非常に高く、当時の他の作物に比べ十倍もの値段になったそうです。さらには交通事情がよくない当時でしたが、めっちゃ軽かったということで運搬効率も抜群に良い。

さらに、その薄荷バブルを加速させたのが関東大震災でした。

関東大震災の際には、横浜の倉庫にあった薄荷が全焼。。そのため薄荷の品不足となり価格が急騰。薄荷成金が現れたのもこの頃からで、1934(昭和9)年には北見に薄荷工場を建設。

海外に進出し、品質の良さが有名になり世界でも確固たる地位となった北見の薄荷。1939(昭和14)年には最盛期を迎え世界シェアは70%になったのです。

薄荷バブルに湧き花街も誕生

とにかく金になった薄荷。副業が叫ばれる現代ですが、この時代だったら「副業したけりゃ薄荷やれや!」ってなってたんでしょうか。ただし、北見に限りますがww

一本の乾燥した薄荷

ちなみに、薄荷はこれです。

へぇ~、ただの草にしか見えませんが、これが金になるとはね~~。

そしてこれにより、北見には花柳界も誕生することになります!

薄荷バブルにより花街も誕生
引用元:野付牛明細図(昭和3年)

北見では、遊廓に関しては設置する場所まで決まったものの設置反対の声により結局作られることはありませんでした。が、それだけ薄荷成金が誕生して潤っていたこともあり、料亭や芸者がいる花街はありました。

昭和の初めの地図には料亭や見番、料理組合などが見られ、この中でも「梅乃家」という料亭は北海道の中でもかなり豪華な料亭だったみたいです!

そんな薄荷バブルに目をつけた本州の商人たちは、北見に出張所を構え、農家から買い付けをするようになりました。数年後には、北見-網走間、北見-陸別間に鉄道も開通。人口も急激に増加し、鉄道や花街以外にも様々な施設ができました。

そんなバブリーな北見市でしたが、、、良い時代はそう長くは続かないというのが人生ってもの。太平洋戦争が勃発したことで、風向きは大きく変わってしまうのです。。

太平洋戦争が勃発した際には、薄荷畑は食糧増産のための畑にさせられ、薄荷の出荷も停止となってしまいます。。そうなると、日本の代わりにブラジル産薄荷が世界市場を進めることになり、さらには石油から作成する合成薄荷の研究促進にもつながったという無念のダブルパンチを食らうことになってしまいます。

戦後になると、品種改良が進み程なくして薄荷の価格も上昇し復活の兆しが見え始めるものの、海外産の安価な薄荷によって日本産は徐々に勢いを失ってしまいます。そして右肩下がりのまま、1983(昭和59)年3月31日、北見薄荷工場が閉鎖。黄金期に幕が閉じたのです。

昔の生糸とか今でいうパソコンとかも、日本で良質なものを作っても、最終的には人口が多い中国やインドの安価な大量生産に価格競争で負けてしまいましたが、薄荷もそんな流れだったみたいです。。

という感じで、明治から始まった北見市における薄荷栽培は、昭和の終わりに終焉を迎えました。

一時期は薄荷成金も誕生するなど、金になる商売だったものの、やはりそんな歴史も長くは続かなかったわけです。

これは今の時代にも通用する話ですね。今では会社員をしながら副業をする人たちが増えており、「この副業が一番儲かります!」みたいな話を色んな人が言ってますが、その時はめっちゃ金になったとしても、それがいつまでも続くことはまずないわけです。

時代が流れれば、それだけ身の回りの環境も変化していくわけですからね。。

薄荷からどうやって油を取り出すの?

北見における薄荷栽培の歴史を簡単に説明したわけですが、次に紹介したいのがこのテーマ!

そもそも、いわゆる植物である薄荷はどうやって金になるのかという話っす!

大正や昭和初期の時代、日本は生糸の輸出が大盛況で、「生糸が軍艦を造った」なんて言葉もありましたが、この薄荷も北見に金の雨を降らせたわけです!

この植物が金を生むとは、見ただけでは全くそう思えませんけどねww

んで、これがどうお金を生み出すかというと、、、

薄荷から取り出した「取卸油」

これなんですね!

これは薄荷から取り出す油や結晶(ハッカ脳)であり、これらを用いて、リップクリームや湿布などの様々な製品にしていくというわけ。

薄荷の主成分であるメンソールは、いわゆるスーーっとすっきりする感覚を味わえるもの。湿布を貼った時、体が冷えてスーッとしますが、あれっすね!

2003年に誕生した蒸留館

んで、収穫した薄荷から油を抽出する工程は、北見ハッカ記念館のお隣にある蒸留館で学ぶことが出来ます。ここもすんごく興味深いので、記念館に訪問した際にはこちもぜひ立ち寄ってほしいっす!

んで、中がどうなってんのかと思って扉を開けてみると、、、

たくさんの蒸留窯

お~~~、こんな感じでたくさんの蒸留器が展示してありました。この建物の名前の通り、薄荷である草からは蒸留という方法によって油を取り出すわけですが、その蒸留の方法は時代と共に改良していたようで、その歴代の釜が並んでる感じですね。

ちなみに皆さん”蒸留”って、理科の授業で習ったの覚えてますかね??

蒸留の実演もしてるヨ!

蒸留館では、その蒸留の流れを実演しながら説明してくれます。

乾燥後のカッサカサの薄荷

まず、北海道では薄荷は秋に種を植え、夏に発芽して秋に収穫という流れを繰り返すようです。ただ、収穫してすぐに蒸留器にブチ込むわけではなく、乾燥させる工程を経る必要があります。

そして乾燥が終わったハッカ草を蒸留器に入れ、一昼夜をかけて「水蒸気蒸留」によって油を取り出すという感じ。

蒸留とは、「混合溶液を加熱して一部を揮発(気体である蒸気にする)させ、発生した蒸気を別の場所で冷却させて凝縮させる」こと。

蒸留発生器から蒸留器に蒸気が吹き込まれ、この蒸気に薄荷の成分が取り込まれて、冷却器へと運ばれます。んで、冷却器にて冷却されることで油が抽出されるという流れ。

蒸留し終わった薄荷
蒸留したことでとれる取卸油

水蒸気蒸留をすると、こちらの取卸油が生成されます。こちらを冷却すると、白い針状の結晶である「薄荷脳」が現れるんですね。

針状の結晶である「ハッカ脳」

これですこれ!

取卸油の中をよ~~く見てみると、何やら針状の結晶が見えますよね。これが薄荷脳と呼ばれる精油の主成分で、いわゆる「メンソール」という薄荷の芳香成分なんですな~。

そして、この針状の結晶である薄荷脳と残りの薄荷油がメンソールという、あのスーッとする成分を含んでいることから様々な製品に使われることになるのです!

ということで、薄荷の流れをまとめると以下になりますでしょうか!

薄荷が製品になるまでの簡単な流れ
1. 秋に種を植えて、翌年の秋に収穫
2. 収穫後は1〜2週間程度乾燥させる
3. 乾燥した薄荷を水蒸気蒸留によって、成分を抽出
4. 取卸油が精製され、そこから「ハッカ脳」と「ハッカ油」を分離
5. 「ハッカ脳」と「ハッカ油」が、各々、製品として用いられる

という感じで、館内の一階の様子、さらには北見における薄荷の歴史や製品化までの流れは簡単にですが以上になります。

もうちょい記事は続くのですが、一旦ここでページを区切ることにします!

次のページでは、こうした蒸留によってどのような製品が作られるのかについてなどを紹介します!

続きはこちら!リップクリームや湿布など様々な製品に取り込まれる薄荷!
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