富士山にまつわる、信仰の歴史が詰まった「御師 旧外川家住宅」へ!

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お金を出しあって富士山を登った

はい、ページが切り替わりましたが、まだまだ富士講について深ぼっていこうと思います!

まずは、「そもそも”講”とは何か?」という点から。

“講”とは何か
同じ信仰を持つものの集団。今でいう、社会人サークル、オンラインサロンのような感じだと思われます。

その”講”には「村講」「代参講」の二種類があり、富士講は代参講にあたります。

そして、それなりの人数が集まるグループなので、役職も存在します。富士講には先達、講元、世話人の三役によって幹部が構成されており、その簡単な役割は以下!

富士講の役職
・大先達
三十三回富士登山しないとなれない。
・先達
七回富士登山しないとなれない。講の盛衰は先達の人望にもかかっている。先達から上は、ある程度のお金を持っていて、信仰心もあって人徳もあるような人がなれた。
・講元
講の財政を預かっている。
・世話人
講員をあつめ、講金の集金に歩く。

世話人の勧誘によって講員が集められ、世話人が講金の集金に歩く。三年ないしは五年を一期として講をてる。

んで、昔はどうやって富士山に登る費用を賄っていたのかというと、講のみんなでお金を出し合い、その中で限られたメンバーが登りに行けるというものでした。

そもそも、”代参講”とは「全講員が旅費を掛け金して、それで代参者の旅費を賄う仕組み」でした。先達は毎回登山に行くものの、そうでない方たちは毎年行けたわけではないんですね。

例えば100人の講員が集まって五年の講がたったとすると、毎年100人がお金を出し合い、その中の20人が一年目に富士登山に行く。その翌年も別の20人が富士登山に行く、というのを五年繰り返すという流れ。

皆でお金を出し合って、事故とか入院した人を救うという保険の仕組みと似てますよね。山梨で言えば無尽(むじん)という集まりが今もありますが、これも同じ仕組みかと!!

講に関する構成や金銭の簡単な話は以上になります!!

ではでは、引き続き御師住宅の話に戻しましょう。御師住宅には、他の昔の建物と同様に格式を感じることができる点がいくらか残っています!

ここからは入れたのは先達さんだけ

例えばこの玄関!

今は見学者の方々はここから建物の中に入っていくんですが、この式台玄関は格式の高い場所。そのため、先達だけがここから入り、それより下の人たちは隣の普通の玄関から入っていました。

写真の右に写る部屋は「上の間」

あと、写真の左に写ってる部屋は一段高くなってるのがわかるかと思いますが、こちらの「上の間」も、先達の方が使える部屋。今の時代では見られなくなりましたが、身分の差はこうしたところでもはっきり分かれてたんですね!

先達は講の代表であり、皆に慕われる存在。

富士登山を無事に終えた富士校の方々から贈られた額縁。

こうしたゴツイ釘隠しもあるヨ!!

罪滅ぼしのために富士山へ!

今でこそ、公共交通機関や自家用車を使えば、関東からであれば1泊2日で富士山へ上りに行くことが可能ではあるものの、富士講が盛んだった江戸時代はそうはいきませんでした。。

ビルが立ち並ぶ現代とは異なり、江戸からもいろんな場所から富士山は見えていたとは思うんですが、見えてたとしてもその場所に行けたのは時間とお金に余裕のある限られた人たちだけでした。庶民からすると、「あの頂上には何があるのか」と思い、神聖な場所に見えてたんだと思います。

東京で有名な富士塚の「品川富士」

脚の丈夫な者は講中に参加して富士登山ができるものの、老人、子供、足弱な方、さらには女性も女人禁制のため行けないということで、江戸近郊に暮らす方々は富士塚を作り出すことになるのです。今でも、品川富士、羽沢富士などの富士塚が残されていますが、いわゆるリアル富士山の代わりっすね。

ここに登ったことでリアル富士山に登ったとみなすことにしたってこと。あとは、代参といって代わりに富士山に行って参拝してもらうなんてこともしてました。

現在とは異なり、江戸時代は観光要素もあったものの、信仰のために富士山に登りに行く。

富士講は、単に富士山に登る講ではなく、庶民済度が目的でもありました。

御師住宅には、ご朱印がビッシリと書かれた行衣がありますが、このように富士講の方が登山の際に身に付けていたものも見られます。こうしたものを身にまとって登山し、神のいる山頂では日々の悩みや懺悔をすることで心身の整理をしていたのでしょうか。

こちらは”マネキ”という講旗
昔の富士道者が必ずかぶっていた菅笠
親行元講の先達さんは岩澤吉五郎という方らしい

館内の様子はこんな感じですかね~~。

江戸時代は富士信仰が盛んだったこともあり多くの宿坊が並んだ上吉田ですが、時代の流れには逆らえません。。

明治になり富士講の来客が少なくなると、御師は身についた教養をいかして教育会に入るものが多くなり、小中学校の校長先生は御師で占められた時代もあったそうです。

江戸時代の移動手段はもっぱら徒歩。でも、明治以降は鉄道も発達し、その後はスバルラインの自動車道ができ、富士講は大型バスで五合目まで直行するようになると、御師は無用な存在となっていったのです。

それゆえ、商業地帯である下吉田に移る者、その他の土地へ去っていく者も出てきます。そうなると、民宿御師が誕生し、道者の代わりに部活やサークル活動の夏期合宿などを迎えるなどして御師住宅は生き延びていくことになります

江戸には300近い講があったそうですが、『富士講の歴史』によると今でも1割近い、つまり30くらいの講が残っているとのこと。それは、東京の空襲を免れた地域が多く、空襲の被害にあったエリアは、復興後の新しい街には新しい人々が流入したことから、昔から根付いていた富士講の歴史は受け継がれることがなかったとのこと。

以上のような時代の流れから、外川家住宅は15代で廃業。個人では維持できなくなり、市に寄付し、その後の修復工事を経て2008(平成20)年に今のような形で一般公開となりました。

今は民宿となっている大黒屋

外川家住宅以外でいえば、現在でも上吉田には五軒ほどの宿坊が残されています。そのうち、大黒家、菊谷坊は民宿となっており、今もそんな高くない値段で宿泊することができます!

ちなみに、神奈川県の大山という山にも、江戸時代は大山詣が盛んで今もたくさんの宿坊が建ち並ぶ神聖な場所となってますので、こっちも宿泊しに行きたいんですよね~~。

おわりに

はい、以上になります。

外川家住宅の紹介だけでなく、富士講の歴史もからめてまたちょっと記事が長くなってしまいましたが、富士講の歴史に興味を持って、外川家に興味を持ったり足を運んでくれる方がいれば本当に幸いでございます。

富士講にまつわるスポットはここ以外にも何箇所か見られますので、これからも取材してまた記事にしていければと思います!

んで、結構前にはなるんですが、四年前くらいに大黒屋に宿泊してきているので、次の記事はその宿泊体験記をまとめていきたいと思います。

今書いてますので、もう少々お待ちくださいませm(_ _)m

参考文献

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詳細・地図

住所 山梨県富士吉田市上吉田3丁目14−8
入館料 大人 100円
小中高生 50円
開館時間 09:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日 火曜日(祝日を除く)、祝日の翌日、年末年始※GW、7.8月は無休
駐車場 無料
電話番号 0555-22-1101
アクセス 中央自動車道河口湖I.Cから車で5分
東富士五湖道路山中湖I.Cから車で15分
富士急行線富士山駅から徒歩5分
富士急行線富士山駅から富士急バスで北稜高校入口で徒歩1分
リンク https://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p2_5019.html

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