こんにちわ!
日本中の知られざるスポットを取材してブログにまとめている知の冒険。今回は、日本のシンボルでもあり、日本の最高峰でもある富士山にまつわる記事になります。
今や夏の時期になると多くの登山客が訪れる富士山ですが、昔は信仰の山として多くの方が登った歴史がありました。そして、富士山の麓である富士吉田市には宿坊という宿泊所が建ち並んでおり、その一つである外川家の建物が、今では博物館施設として一般公開されています!
そんな富士山にまつわる信仰などの歴史も踏まえて、外川家住宅を紹介できればと思います~(*´▽`*)
神聖な雰囲気の外川家住宅
日本には日本百名山もあるように、多くの美しい山々が連なっています。そして江戸時代には富士山のみならず、立山、白山、御嶽山、大山(神奈川県)などなど多くの山が山岳信仰の対象とされていました。
そのように、昔は信仰の要素が強かった登山。とはいえ、現代においては昔の山岳信仰の歴史について触れる場所はなかなか少ないだけに、今回紹介する外川家住宅という施設は大変貴重な場所だと思っています!!
その「御師旧外川家住宅」は、富士吉田市にて昔の建物そのままの状態で一般公開されています。こうした宿坊は今も全国に多々残されているものの、こうして博物館施設として一般公開してるのは、ここだけかもしれません!
外川家住宅は富士吉田市に寄贈されたあと、2008(平成20)年から現在の形で一般公開されています。
ちなみに、この施設は私が書いている博物館本の取材で訪問したこともあり、スタッフの方にみっちりと色んなことを解説していただけました!!
さらには、個人的にも富士講について勉強していることもあり、6,600円かけて『富士講の歴史―江戸庶民の山岳信仰』というめちゃくちゃ分厚い本を購入して、こちらの内容も参考にして今回の記事を書きましたよん!!
館内はこんな感じ!
この建物は本当に昔からの建物ですし、御師宿坊ならではの御神前や富士講にまつわる資料もたくさん残されています!
ではでは、ここからは外川家、さらには富士登山・富士信仰の歴史も踏まえながら外川家の建物についてを紹介していきますね〜( ̄▽ ̄)
宿坊誕生のキッカケは、富士山の噴火
まずは、「外川家住宅がどのような流れで誕生したのか」という点からいきましょう!
外川家住宅があるのは、上吉田という地域になります。地図で示すとココっす!
富士吉田市は、かつて甲斐絹を求めて東京などから仲買人が殺到した商業的な地域である「下吉田」と御師住宅が並ぶ「上吉田」に分かれています。
下吉田には、昔の賑やかだった街の名残や、今でも昔からの商店が見られたりするんですが、、
上吉田でいうと、富士講が盛んだった江戸時代には、上の地図のようにたくさんの宿坊が建ち並んでいました。
この上吉田の宿坊エリアが誕生したのは1572(元亀3)年のこと。元々宿坊はもう少し富士山側にあったものの、富士山の土石流雪崩が発生したことで町が潰され、より安全な場所を求めて、もう少し富士山より遠い今の場所に移ってきたそうです。
ちなみに、写真の上部に建ち並んでるのは浅間神社です⛩
宿坊があった場所を拡大したのがこちら。中央の通りの両側に相当な数の宿坊(橙色の場所)があったことがわかるかと思いますが、最盛期の江戸末期でいえば、86軒もの宿坊があったそうですよ!
どの宿坊も通りに面した入り口は狭く、奥に長いことがわかります。外川家住宅もそうなんですが、どの御師の敷地も、入り口から奥に入った場所に宿坊の建物が建てられている感じっすね!
宿坊のある町は、北の方から上宿・中宿・下宿と三つに分かれており、道路の左側が東町、右側が西町という。先ほども書いたように、御師の屋敷は奥に引っ込んだところに構えていて、道路から屋敷までの細い道は”タツ道”と呼ばれており、、
さらには溝川という川が、横に伸びた御師住宅を横切る形で流れていました。
溝川は、浅間神社の背後の桶泉から水を引き、東町と西町の通りに沿って流しています。富士講の方々は、この溝川でミソギを行っていたそうです。
以上の流れで、外川家住宅などの宿坊が上吉田の場所に誕生することとなりましたってわけです。
外川家住宅が誕生した流れは以上にして、続いては江戸時代に盛んだった富士講について触れていくことにしましょう!
一般人は富士山に入れなかった
今でこそ、観光として年間20〜30万人もの方々が富士登山するものの、すげぇ昔は富士山は聖地として結界され、一般人の入山は禁止されていました(年に一度、お山開きがあって開放されてましたが・・)。
江戸時代より前の時代、一般人の入山は禁じられていたものの、修験の作法として一定期間魚や鳥を食わず女性に接しないことで身を清めた”修験者”においては、入山を許されていました。その修験者の中に、長谷川武邦という人物が富士山へ入山します。彼は”角行(かくぎょう)”の行名を名乗り、106歳で死ぬまで人穴(現:人穴富士講遺跡)に住んで富士登山を行っていました。
そんな角行が、修行の中で後の富士講の元となる多くの教義を作り伝えていきます。角行は教義を作り富士信仰の一派を創設したに過ぎませんでしたが、その一派にいた食行身禄(伊藤伊兵衛)を師とする弟子たちが、食行身禄が亡くなった後に”講”を作って行ったことで枝葉が増えて行きました。
『富士講の歴史―江戸庶民の山岳信仰』には上の図のような富士講の系図が掲載されているんですが、この図を見ても、
2. 角行の一派には、村上派と食行身禄(伊藤伊兵衛)がいる
3. 食行身禄の配下はすごく枝分かれしている
4. 一方、村上派は枝分かれしていない
ということが、わかるかと思います!
系図を見ると、食行身禄の配下にはたくさんの講が生まれていますが、藤原光清である村上派の方は一派を統括していて分派を許さなかった(拡大せずに一派を貫き続けた)ことから、枝葉は増えて行っていません。ということで、角行から始まった富士講は、食行身禄の弟子たちが講を作って行ったことから、盛んになっていったんですね!
2. 角行が亡くなる(江戸初期)
3. 角行の弟子が江戸に移り、富士信仰が江戸に広まる
4. 偉大な二人の行者(藤原光清、食行身禄)が現れる
5. 食行身禄の弟子たちが講を作りまくり、富士講が広まる
こうして、江戸時代に次々と富士さんを信仰する講が増殖していったわけです!
今でいうベースキャンプみたいな?
そうした富士講の方々が富士山を登るにあたり、今だったら車を使えば五合目まで余裕で行けますが、そうした交通手段がない江戸時代はそうはいきません。。江戸から歩きで行くことになるということもあり、登山の前のベースキャンプ的な場所が必要でした!
そこで、富士山の麓にある宿坊を皆が利用したというわけです!
ここから外川家住宅の話も織り交ぜていくことにしましょう♫
先ほどは上吉田の宿坊が誕生した経緯をまとめましたが、外川家住宅の主屋が建てられたのは1768(明和5)年のとき。建物には棟札が残っていて、建てられた年がわかっています。250年も前の建物なんですね、すげぇな!!
肉眼では文字は確認できませんでしたが、棟札にはこんな風に書かれてるようです!
そんな外川家住宅の全容はこんな感じになってまして、1762年に竣工したのは入り口側にある主屋の部分。その奥には奥座敷もあるんですが、こちらは富士講が特に盛んだった江戸時代後期に増築したとのこと。
そう富士講の方は夏の二か月の時期に一機に泊まりに来るわけですが、富士講が盛んになると1日のお客さんもどんどん増えていく。
そうなると、畳の部分だけでは足りなくなり、廊下にも布団を敷いたそうです。多い時は1日に100人を泊めたこともあったということだからビックリ!!
布団ぎゅうぎゅう詰めの雑魚寝状態っすねww
では、続いては富士講についてもう少し掘り下げていくことにしましょうか。御師住宅にまつわるあれこれを書いていきます!
御師住宅ってなんすか??
外川家住宅は、「御師旧外川家住宅」という施設名になっていますが、”御師”とはどういった言葉なのか?
ここのスタッフの方から教えていただき、簡単に言うと以下みたいです!
御祈祷師が元々の言葉で、徐々に省いて御師と呼ばれるようになった。富士山の神にいろんなことをお願いする神職、つまり富士講と神の間に立ってお願いする役割だった。
御師とは、上で書いたような神職を指すわけですが、これは誰でもなれたわけではなく、京都にある本部から許可をもらった方がなれました。
御師の始まりは、日本に仏教が入ってきたときに遡り、日本に仏教が入ってくると、密教と絡まって富士山は修験道が修行する山になります。その修験道の人たちが富士へ登山しに来る方々を案内をしだす。それが御師の始まりみたいです。
そして、御師住宅とはどんな施設なのか?
御師の宿坊には、泊まるという役割としては同じですが一般的な旅館とは異なる点が多々あります。
その大きな特徴としては、御神前があることですね!
上吉田の宿坊では、富士山の神である木花開邪姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る御神前が必ずあり、宿坊に到着した富士講の方々は、この前に座って祝詞(のりと)や御神歌を唱和しました。
さらには、御師の家には、お手伝いの女中さん、さらには剛力(ごうりき)というシェルパの役割の人もいました(剛力彩芽じゃないよww)。
剛力とは、いわゆる登山者たちの荷物持ち。今でこそ、富士山などいろんな山には山小屋があるし、登山用具も軽量化の面など進化していますが、江戸時代はそうはいかないので食料や衣類など大量の荷物を持って登山する必要があります。その荷物持ちってことっす!
剛力は農家や大工の兼業をしながら、富士講が富士登山する夏の時期だけこの仕事をしていたそうです。とにかくガチガチの力仕事なので、若くてムキムキな男性が、この剛力という仕事をしてたんですね!
あと、女中さんもいたわけですが、彼女らは宿泊してきた富士講の方々の食事の準備・片付けとか宿泊者の世話係をしていました。
という感じで、富士講の方々が泊まりに来るのは夏場の二ヶ月(7,8月)であり、外川家はその期間に稼ぎまくります。まぁ、夏が過ぎると富士山には雪が降りますからね・・。
じゃあ、冬のようなシーズンオフの時期に御師は何をしてるのかと言うと、信者の故郷を回ります。今でいう営業活動ですね。
また来年(来年の夏)もお願いしますみたいな感じで、富士講の方に泊まりに来ていただくよう挨拶回りをするわけです。
富士信仰が盛んだった時代は、そうして生計を立てていた。それが御師住宅の日常のようです。
江戸時代の中期頃になると、社会が安定したことから庶民の間に社寺参拝の旅が流行しました。今のように、皆が旅行を楽しみ出したのはこの頃から。とはいえ、ディズニーランドや富士急ハイランドなど、今のように観光スポットは多くはなかったこともあり、江戸時代は景勝地や神社やお寺へ観光を兼ねた参拝をしていました。
江戸近郊で言えば、成田山(千葉県)や大山(神奈川県)、遠くは善光寺(長野県)、さらにはお伊勢参り(三重県)まで。
私が住んでいる神奈川県では、大山以外にも江ノ島も江戸時代は参拝客でにぎわう有名観光地でした。その他にも川崎大師、大雄山、箱根神社など有名な寺社仏閣は県内にたくさんありますが、きっと多くの江戸庶民で賑わったと思いますよ♪
ではでは、長くなってきたのでここで一旦記事を切ることにしましょう!
次のページでも、まだまだ御師住宅に関する話は続きます(∩´∀`)∩